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竹刀の稽古は真剣勝負に役立ったのか
竹刀という練習用具の出現は、日本の剣術の技能レベルの向上に役立ったのでしょうか。(真剣勝負(殺し合い)の技能が上がったかどうかの観点でお願いします)
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No.10の続きです。少々しつこいかもしれませんが、元の質問内容からずれたようですので。 防御をせず、一撃必殺を狙うという意味では、薩摩の示現流がその最たる流派でしょう。 ・一の太刀を疑わず、二の太刀は負け ・刀は敵を破るものにして、自己の防具に非ず と兵法心得にありますから、まさに一撃必殺を狙った剣術です。 また示現流には受け技がいっさいなく、攻撃のみだったという話も聞いたことがあります。(示現流から分かれた、薬丸自顕流だったかもしれませんが) 示現流の面白いところは、竹刀剣術にはいっさい手を出さなかったことです。 そのため、竹刀での試合による実力がどうなのか今ひとつはっきりしませんが、幕末の戊辰戦争、さらには明治の西南戦争で大いに威力を発揮しましたので、実力は疑えないかと思います。 個人的には最強の流派の一つだと思っていますが、竹刀を使わず、ひたすら木刀での打ち込みだけで鍛え上げた示現流が最強となると、真剣での勝負が目的とすれば、実は竹刀での稽古は不要なのかもしれません。
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- shizumo
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ゾロやダルタニヤンの剣は重いのです。私もその練習剣を使いますが1.5kgあります。がバランスが良いのと指を指環という輪に引っ掛けてこの応用で持つためにさほど実際の重量ほどの重さは感じませんが、質量自体は変わらないので動かすとき、とめるときは慣性がつきます。これが軽い剣(たとえば竹刀やスポーツちゃんばらの剣)で慣れていると対応できないところです。竹刀と真剣の差は次のフルーレ、サーブルと共通です。これらは安全性ともともとの発生の起源(フルーレは練習が試合スポーツとなったものなので有効範囲は胴体だけ、サーブルは馬に乗った状態と想定しているので上半身だけ)と規制があります。 本来のサーブルの剣は首を切断するほどの重量と威力がありましたが フェンシングの物はその重さの数分の1しかありません。 日本の剣術は古い起源があるものの徳川時代に変質しました。 もともと剣術武術は戦争に使用されて意味のあるもので護身などは副次的なものです。徳川時代は戦争がないため人々は練習を老衰で死ぬまでできたわけです。そこまですると技を極めることができ強い老人は経験十数年程度の若者など手玉に取れるでしょう。 しかし、西洋では常に戦争があったため一生を通じてゆっくりと剣の「修行」などできません。武器を持たされ限られた養成期間で戦場に立たねばならなかったため、繊細な技や相手とのみきり、呼吸などは教える暇はありませんでした。いきおい練習は本当に使える技術しか教えることがありませんでしたし練習も可能な限りリアルでした。 つまり、明日から使えるリアルな剣術でないと、いかに潜在的な素質を持った人であろうと型稽古だけでは生き残れません。 そういった意味では剣道はリアルさにかけます。 我々にはこのようなことわざがあります。 「戦場で体のでかい若者を見たら用心しろ。そいつは強い。戦場で小さな老人を見たら逃げろ。そいつは危ない」 私はアメリカで3000人が同時に戦う「戦争」にも参加しました。このことわざは事実です。
お礼
>剣道はリアルさにかけます ・・・なるほど、ありがとうございました。
あくまで参考意見としてお答え致します。 袋竹刀についてはともかく、竹刀に関してはどちらとはいえません。竹刀剣術と呼ばれるものも、現代剣道とは大きく異なるようですし、大日本武徳会の剣道と現代剣道もやはり異なるようです。試合には役立ったと考えられますが、試合は修行の中心ではないので、試合を中心に練習してしまう事態を招いたという点ではマイナスに働いたともいえます。 以下は補足です。 他流の事は詳しくありませんが、 示現流はタイ捨流(柳生ではない新陰流の系統)と天眞正自顕流(神道流の系統?)が元になっているらしく、示現流の剣術には形もあります。野太刀自顕流(通称:薬丸流、元は野太刀流)は下級武士を中心に広く修練されたらしく実際に戦闘で使われたのはこちらの方が多いそうです。つまり御留流であった示現流と読みが同じであった為に混同されたもので、実戦で遭遇する薩摩の剣は野太刀自顕流の方だったと。生麦事件で馬に乗った英国人を追い掛けて切り付けた武士や、軒先から水滴が一滴落ちるまでに三度抜き放つ事ができたと伝わる居合(多少は誇張の可能性もありますが)も野太刀自顕流らしいです(この居合は暗殺に多用されたのだとか)。 日本刀は竹刀に比べれば重いものですが、一般にいわれるほど重いものではありませんし、腕力で遣うものでもありません。叩いても斬れないという話は有名ですが、「引き斬る」という動作も素人が連想するそれとは、多くの場合異なります。 ちなみに武蔵は素晴らしい構えと、その教えを伝えており、構えを捨てた事は無いはずです。また、構えで動きが制限される場合は、単にその術者の構え方が悪かったと考えざるを得ません。徳川家康は確かに戦国武将らしく武芸好きだったようですが、当時の状況を考えれば家康でなくとも武芸の存続はほぼ確実でしょう(逆に武芸を途絶えさせる事の方が困難です)。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- cse_ri2
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No.7です。つれずれなるままに、回答を続けます。 No.9の方が西洋剣術との比較を述べていますが、日本の剣術も昔は型を重視し、基本は守りの姿勢だったと覚えています。 戦国時代の合戦は鎧兜を着て戦うものであり、刀で相手を倒すときは鎧の隙間を狙って斬りつけるものでした。 当時の刀を使った基本的な戦い方は、鎧を着ていることを前提に守りの構えをとり、相手の隙を見て攻撃するやり方だったかと思います。 (新陰流・タイシャ流などの兵法を勉強すると、よいかもしれません) しかし、戦国時代が終わる頃から、様子が少し変わったように思います。 代表的なのは宮本武蔵かと思いますが、武芸者は合戦で功績をあげるのではなく、兵法指南役として藩に召抱えられることが主な目的となりました。 戦国末期から豊臣・徳川の時代ともなると、合戦の機会そのものが減りましたから、まあやむをえないかもしれません。 刀を使って戦うのも、鎧を着けずに普段着のままで斬り合うようになります。 そうなると、動きに制限のある従来の構えはかえって邪魔であり、宮本武蔵に至っては、刀を構えることすらやめてしまいました。(まあ、彼なりの理念がそこにはあるのですが。詳しくは五輪の書とかを読んでみるといいでしょう) おそらく、守りを重視せずに一撃必殺のみを狙う剣術というのは、この頃確立したと思われます。 剣術を教える兵法家たちは、皆その道の達人ばかりですから、守りに重点を置く必要はありません。 また、就職狙いの活動が多いので、見た目が派手な技を重視するのも必然でしょう。 (いわゆる御前試合みたいなものは、江戸初期にはけっこう行われていたようです) 実際、戦国乱世を勝ち抜いた大名たちの中には、そういう兵法家たちを軽視する人もけっこういたと聞いています。 極端な話、指揮官は自分で戦闘する必要はなく、万が一戦で斬りあいになっても、自分が死ななければあとは家来が何とかしてくれますから、防御軽視の当時の剣術を軽んじても、当然かと思います。 しかし、徳川幕府の創始者である徳川家康が兵法好きだったため、兵法家や数々の流派も、江戸時代になっても存続が可能となりました。
お礼
長文のご回答いたみいります。
- shizumo
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私はフェンシングではなくもっと古い時代の剣術(両手剣や盾と片手剣、あるいは甲冑をつけたり、あるいはレピア)を学んでおり剣道や日本剣術の人たちとも交流し対戦することがよくあります。 日本にいるわれわれはその中にいるので気がついていませんが、日本の型を中心に仮想敵を切る日本剣術(対人のファイティングはほとんどしません)や精神性と一刀流の型を一本の基準にする剣道は特異なのです。西洋剣術はまず、対人の技術を学び対人のファイティングをすることでその技術がどう生かされるか、生かされていないとしたら何が問題なのか自分で学んで行きます。当然、有効範囲は体全身であり使用する剣も柔らかいものの、真剣と同じ重さとバランスです。なので、練習剣が真剣に変わったところで重さやバランスにまごつくことはありません。接近したとき、体術に持ち込み相手を押し倒す、投げる、あるいは柄頭でなぐる、なども互いの了解を得れば行います。そういった意味では非常にリアルな剣術練習といえます。 われわれは型だけでは問題があるとおもうし、現実から離れたようなルールでのファイティングも問題があると考えています。型とファイティングは車の両輪のようなもので互いにフィードバックしてこそ意味があると考えています。 問題は真剣を持って対峙したときの精神面ですが、こればっかりは法的にできません。剣道はその部分の精神面をルールとして取り入れています。それはユニークですがその反面、小手、面、同の3箇所しか有効面がないなどリアルさからは遠いように見えます。 また、数名の方が書かれていますが日本刀と竹刀は打ち方がまったく違います。私が見る限り剣道の打ち方は西洋のロングソードにむしろ共通性があります。日本刀の真剣は重いと言われていますが、刀剣の中では非常に軽い物で(貴族の決闘に使う片手剣のレピアのほうがはるかに重い)それを両手で持つのですから竹刀方式で打ち込めば下手をすれば折れてしまいます。バランスもぜんぜん違います。 私が思うに剣道は理想の一撃を想定しそれに限りなく近づけることを良し。とする感じがあります。それは技術の目標を持って自己を達成する意味で技能の向上に役立つとはおもいます。しかし、真剣勝負という場合、個人の技が理想までに達するまでに生き残れないでしょう。 No.8のかたもかかれておりますが、実際には小さな攻撃で相手の消耗を待ちました。レピアなどはまさにその方法ですし騎士の両手剣ですら鎧のない場合は動きは小さく手の内だけで操作しました。一撃で倒せればそれは理想ですが、その技術を習得するまで死んでしまうようでは意味を成さないからです。 たとえば突きですが、剣道ではまっすぐに突くはずです。しかし西洋剣術では必ず剣はまっすぐですが自分の進行方向は斜め45度、つまり角度をつけて突きました。突きは反射的にでるものなのでもっとも相打ちが多いのです。つまり練習の中で自分は逃げつつ攻撃する動きを習得しないと実戦ではやられてしまいます。肉を切らせて骨を絶つという方式は考えません。なぜならばそのやり方は「一度のみ有効」だからです。そういった意味では消極的ととらえるでしょうが、はじめは攻撃ではなく防御から教わります。ドイツ剣術で最も悪いことは「あなたが死ぬこと」です。剣道の「負けることを恐れず攻撃せよ」の精神はある意味正しいのですがそれに偏ると生き延びることはできません
お礼
詳しいご説明ありがとうございました。 ダルタニアンや怪傑ゾロのもっている剣は、日本刀にくらべ大変軽いもののように思います。フェンシングのエペ、フルーレ、サーベルなどは実用ではなかったのでしょうか。
- komes
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私は竹刀の稽古で真剣勝負の技能があがるとは考えられません。 真剣というのはかなり重いので竹刀のように振り回す事はできません。 道場稽古で竹刀に馴れた日本軍将校が真剣をふるって自分の足を斬ったという話はよくありました。 剣道でも実戦を想定して鍛える道場とそうでない道場では鍛え方が異なります。 真剣を使用した素振りは腕力を鍛える為ですがこれを100回以上続ける位鍛える必要があります。 真剣での切り方と竹刀での打ち方は全く異なる動作です。 これは竹刀による剣道試合を見れば一目瞭然です。 剣術道場でも真剣での立ち会いの心得とかは極意として教えるのであるレベルに達しないと教えてもらえません。 従って免許皆伝とか目録とかはそれなりの重みがあるものです。 実際の果たし合いでは一撃で相手を倒すには余程の鍛錬が必要で、大抵は切り傷を与えて出血させ、出血多量で意識や体力の消耗を待つのが普通でした。 しかもそれには籠手とか動脈の集まっている急所の知識が必要でこれらの修得には道場剣術は役に立ったでしょう。 竹刀の発明はそれまでの木剣での稽古での骨折などを防ぐ工夫から生まれたもので、打ち込みの強さは従来と変わらなかった強いものであったと思います。
お礼
>実際の果たし合いでは一撃で相手を倒すには余程の鍛錬が必要で、大抵は切り傷を与えて出血させ、出血多量で意識や体力の消耗を待つのが普通でした。 ・・・荒木又右衛門の鍵屋の辻の話などを聞いていると、普通の人は一発でバサリというわけにはいかなかったようですね。 よくわかりました。ありがとうございました。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
竹刀の原型は、No.2の方の回答にあるように戦国時代に有名だった上泉信綱が考案した袋竹刀です。 ただし、竹刀が普及したのは後の江戸時代です。 誰が普及させたかちょっと記憶にありませんが、幕末の少し前に北辰一刀流の千葉周作が出てくる少し前だったかと思います。 一般的な技能の向上という意味では、防具と竹刀での稽古は大いに意味があたっと思います。 それ以前は、木刀による型稽古がメインで、これは寸止めが自在にできる達人ならいいのですが、素人が人を相手に木刀を振ると、ちょっと間違えばすぐにケガをさせてしまうため、乗り越える壁が大きいかったのです。 その点、竹刀ならば相手に大怪我させる危険も少なく(まあ、やりようによっては、ケガさせることもできるのですが)、素人が中堅くらいの腕前になるには大いに効果がありました。 しかし、竹刀剣術と真剣での斬り合いとはまた話が別なのが実情で、他の方の回答にあるように、竹刀でポンと叩く感覚で真剣を振っても、実は人の体は斬れません。 ですから当時の達人は、竹刀での稽古の他に、真剣で稽古をする居合術を同時に学ぶ人が多かったように思います。 この伝統は今でも受け継がれており、居合を学ぶ人は真剣で藁束、時には豚を斬ったりすることを、今でも行っています。 実際、幕末に名を上げた新撰組の幹部たちは、局長の近藤勇を始め、ほとんどが天然理心流を学んだ人たちです。 ところが、天然理心流は竹刀での試合に弱く、道場破りなどが来た場合には、北辰一刀流の藤堂平助などに助っ人を頼んだと言われています。 しかし、実地での斬りあいに滅法強く、池田屋事件などの史実が証明するとおりです。
お礼
>居合を学ぶ人は真剣で藁束、時には豚を斬ったりすることを、今でも行っています。 ・・・「豚」ではなく、自分の『膝(ひざ)』を切ってしまった人を知っています(苦笑)。藁束をきった時に力余って・・・。 お話し、よくわかりました。ありがとうございました。
- jamiru
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1人の剣豪を生み出すのに1人の剣豪の血が必要。 ゆえに剣豪は増えぬ。 この定説を打ち破ろうとしたのが竹刀の登場ではないでしょうか。 1人の天才的な剣豪を育てるのではなく、 天才ではなくとも全ての人間が剣士としての実力を底上げする為の方法。 戦国時代の末期の戦は1人の働きよりも集団、総力戦になっていましたし。
お礼
>1人の剣豪を生み出すのに1人の剣豪の血が必要。ゆえに剣豪は増えぬ。 ・・・これ、一人にしか伝えようとしない、悪癖だったように思います。もったいぶり過ぎているんじゃないでしょうか。ありがとうございました。
- kawakawakawa13
- ベストアンサー率25% (514/2010)
私個人の見解としては、真剣勝負の役には立たなかったといと思います。 考えてみてください。 竹刀は軽い上に断面は丸く、簡単に振り回せます。 それに比べ、刀は重く、断面は細長い上、長い刀の短い握りの部分を持って扱うので扱いにくく、致命傷を与えにくいのです。 竹刀での素振りに慣れてしまっては、刀は扱えなくなります。 実際、剣客と呼ばれるような刀の達人と、それ以外、普通の武士、あるいは新撰組等の、大多数の戦い方は、おのずから違います。 真剣勝負は、剣客が行う例が多かったですが、刀同士を交えることは少なかったようです。 これに比べ、普通の武士等は、俗に言うチャンバラで、つばぜり合いが多く、少しずつ相手の体を傷つけ、弱らせて突き殺す、そんな感じだったようです。 真剣勝負を前提と考えるならば、竹刀稽古は有害ですらあったと思います。
お礼
そうなんですねえ、軽い、刃筋不要、ポンと叩けば勝ち・・・これじゃどうもと思ったものですから、質問しました。
- buchi-dog
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私は剣道の経験が多少ありますが、竹刀を使う剣道というのは、面、籠手、胴を「叩く」競技です。突きは違ってきますが。 日本陸軍は、昭和の戦争では将校が軍刀を携帯し、実際に敵と日本刀で戦うことがありました。その場合にどうなるかを、学徒出身の陸軍大尉であった山本七平氏が「私の中の日本軍」という本で述べています。この本では、実戦で日本刀がどう使われるか、どうなるかを刀匠の目で見た「戦ふ日本刀」(成瀬関次 著)という本から豊富な引用がなされています。 真剣で相手を斬るには、「相手に触れるくらいまで踏み込み、刀の根元から相手の体を『引き斬る』のでないと相手にまともな傷を負わせることが出来ない」そうです。日本刀というのは、相手を「叩いて」斬れるものではなく、意識的に「引き斬る」動作をしないと、相手に致命傷を与えることが出来ないようです。 「日本刀には反りがあるから、自然に引き斬る動作が出来る」という意見もあるようですが、それには中国の青龍刀のようなもっと大きな反りがないとダメだとのことです。 竹刀剣道でかなりの腕前の将校が中国兵を「斬り」、倒れた中国兵がしばらくして起き上がってきた(竹刀の感覚で叩いただけなので、刀による傷がごく浅く、鉄の刀身で叩かれた打撲で倒れただけだった)という話が、山本氏の著書では紹介されています。 ブタなどで試し斬りをした経験についても書かれており、 「刀で動物の組織を切断するのはかなりの力が要り、叩いただけではほとんど斬れない」 「動物の組織とは、非常に硬い骨に、パン生地のような粘りを持つ筋肉が張り付いているもの」 であるそうです。 上記は「竹刀剣道だけを学んだ場合」についてです。No2さんが指摘されるように 「木刀や真剣(刃引きして斬れなくしたもの)で剣術を稽古するには寸止めをしなければならず、それに失敗すれば大怪我し、死ぬ可能性もある。本気の立会い稽古を行うには、お互いが相当高いレベルに達していなければならず、それでもリスクが伴う」 「木刀や真剣(刃引きして斬れなくしたもの)で本気の試合(立会い)を行えば、敗者は死ぬか不具者になってしまう。命がいくつあっても足りない」 といった問題を解決し、「本気の打ち合い」を可能にした竹刀の役割は剣術の進歩に大きく役立ったと考えます。 ただ、「竹刀剣術がどんなに上達しても、それだけでは真剣で人を斬れない(殺し合いで負ける)」のも事実でしょう。その好例が、先に紹介した「竹刀剣術を学んだ将校が実戦で日本刀で戦った時のエピソード」です。
お礼
丁寧でわかりやすい、ご回答ありがとうございました。
豆を床に撒き、これですり足を身に付けよ。 などと言う、理にかなった練習方法で、 北辰一刀流は日本一であると絶賛されたようです。 今までの修行法、山ごもりから北辰一刀流に道場破りに来た侍は、 いずれも一撃を重んじる流派であり、 速さに勝る北辰一刀流の前に一本も取れずに終わったと言います。 (通説) 重い一撃を打つとは、 打つにしろ受けるにしろ、命がけであったからです。 防具と竹刀は、あっと言う間に広まったとされています。 殺し合いについてですが、 数段の格上でも無い限り、互いに手傷を負うのが普通であったようです。 新撰組では、3人で1人を相手にすると言う方法だったようです。 また、奇襲で相手を狼狽させています。 まともな戦いでは、互いにこの試合が最後になると推測します。 槍の繰り出し早突きの名手が北辰一刀流に試合を申し込むと、 竹刀の鍔がどんぶりのような竹刀で望んだと言う記録もあり、 江戸の流行や、眉唾の強さの部分も否定できません。 が、各藩はこぞって北辰一刀流の免許を欲しがっていたのは事実です。
お礼
北辰一刀流の隆昌が証明になっているということですか、ありがとうございました。
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お礼
示現流は(小説で知ったことですが)、打ち込みの稽古だけだったようですね。お互いに向かい合って練習するということはなかったんでしょうか。 私は腕力が強くないと実戦には役立たないと思っています。宮本武蔵やその他の剣豪は途方もなく腕力が強かったのではないでしょうか。 もしボブサップが腕力を利して、重たく長い刀で斬り込んできたら、防ぐのが困難です(笑)。ありがとうございました。