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古典派を勉強しなければならない理由(ピアノです)

こんにちは。 私はショパンやスクリャービンいったロマン派から近現代の曲が大好きなのですが、必ずといっていいほど古典も弾きませんか?と先生に言われます。 漠然と一体何の為に古典を弾かないといけないのでしょうか?勿論古典も美しくて素晴らしいのですが、よく音大の入試では古典が必須だったりするので、それも気になります。 一言ではいいあらわせないかもしれませんが、様々な意見が聞けたら幸いです!

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回答No.1

世界の大学、音楽学校、コンペティションなどで「どのようにピアニストが評価されるか」を考えた場合、バロック、古典、ロマン派、そして現代曲のそれぞれをある程度以上のレベルで演奏することができる、ということがあります。それらのどのスタイルも「ある程度の勉強をした」ということを演奏で証明して初めて認められるという考えです。そう考えた場合入試やオーディション等で古典派が含まれるのはごく当然の事と言えます。 従って、趣味でピアノを習うだけなら好きなものだけを弾いていればいいわけです。 ピアニストのアリシア・デ・ラローチャさんがかつてこう言っていました。「モーツアルトが弾けないのベートーヴェンが弾けるわけが無い。ベートーヴェンが弾けないのにショパンやリストが弾けるわけが無い。ショパンが弾けないのにスクリャービンやラフマニノフが弾けるわけが無い。よって全てのピアニストはモーツァルトが弾けなければならない。」と。 教える立場から申しますと、基礎が出来ていないのにショパンやスクリャービンを弾きたいという生徒が来ます。やはり基礎が出来ていないので弾けません。ならどうするか?古典を勉強させて基礎のやり直しをさせるしか道はありません。それでも頑固に古典派を拒む生徒もいます。そのような生徒には残念ながら、下手クソにスクリャービンを弾いてもらう、という結果になってしまいます。

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回答No.5

それは「本場」の人達の迷信です。古典主義の音楽とロマン主義の音楽は全くの別物と見ることだって十二分に可能です。だってそうでしょう、古典主義が退屈になったからロマン主義がムリムリといやがうえにも盛り上がって溢れ出たんだから。 ところがですね。そのロマン主義にもやがてうんざりして始まった新しい音楽が、もろくも流産してしまいました。モダニズムは先走りの人たちの自己満足の中でみるみる自滅し、歴史はいまや停止の憂き目を見ております。 ですので今はへんてこな時代なのです。ロマン主義のアンチテーゼとして生まれようとした音楽は生まれぬままに終わったため、ロマン主義が敵とした古典主義が、敵の敵は味方という屁理屈でもって古典主義を援軍として求めたというまでのことで。古典主義こそいい迷惑ってなもんかもよ。 古典主義を根としてロマン主義が茎を伸ばし葉を茂らせた、とでも日本人はどうやら多く、考えるらしいけど、そんなねえ、ものごとそれほど順当にゆくはずもなく、ありていに云ってそれは大間違いで、両者は不倶戴天の敵同士なんですよね。かつてのリスト(フランツ)が蛇蝎のごとくに嫌われていたこと、四十以上の人には忘れたとは言わせない。いや、じっさい、それこそが歴史への参加なんだ。 私たちは江戸のこと、ましてや縄文のこと、何も知らぬままに、不足なく、明治大正のことなら多少は知っているから見下ろすようなことも云う。そして、誰でもが当たり前に平成の日本語を操り日本人として振舞う。今のことしか知らぬままに、旧弊な者の舌を捲かせるような才を示す者だってないではないし。 いまやそんなふうに泰西古典音楽を扱ってよろしいんじゃないですか。ショパンがベートーベンを全面的に否定にする発言が残っていること、それって不思議なことですか? 要するに、西洋人が大好きな二元論、つまり善悪の善に古典主義、あくにはロマン主義が配されて、その厳しい対立を、闘争ときっぱりとした勝敗を意識せぬ日本人の言い草が、ショパンを弾くにはそれに先行する誰やらを知らねばならぬとかいうグゲンヲ生むのでしょうな。 みすちるを歌うのにさざんが要りますか。

fusennoshima
質問者

お礼

みなさま、言葉足らずで申し訳なかったのですが。。私は趣味で小さい時にピアノを習いまた弾き始めた者です。 色んなご意見とても参考になりました。本当に有難うございます。

noname#111031
noname#111031
回答No.4

ショパンとスクリアビンですか? 全く違うものですね。 あなたがピアニストになりたくないのなら、バッハ、モーツァルト、 ベートーヴェンも必要ないでしょう。ピアノに限らずヨーロッパ音楽の根本はバロック、古典派、ロマン派から近代、現代音楽と綿々とつながって来ていますね。 全てのものを対等に学び、ピアニスト(専門家)として演奏することは誰も期待されていないでしょうけど、音楽の組立、歴史、鍵盤楽器音楽の技術の歴史などは専門家になられるつもりなら一応は心掛けているべき事柄でしょう。スクリアビンの専門家になられるのもいいでしょうけど、彼の音楽でもバロック、古典派、ロマン派、ロシアの民族的音楽などと全く繋がりを持たない筈はありません。基本を身につけていない、学ばないxxxxの専門家なんて、私は信用しません。それだけです。

  • harepanda
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回答No.3

古典は全ての基本です。古典が分からないと、ロマン派も前衛も分かりません。 たとえば、シュトラビンスキーがなぜ表現主義や前衛なのではなく、新古典派と分類されるのか、説明できますか?なぜ、哲学者アドルノが、シェーンベルクはよいが、シュトラビンスキーはダメだと言っているのか、分かりますか?(ふたつ目はわたしにも分かりません。単にロシア人が嫌いなだけなんじゃないの?と思ったりします) 私の場合、音楽よりも絵画のほうが詳しいのですが、同じ議論は何度と無く行われています。たとえば、デッサンの天才と呼ばれる新古典派のアングルは、古典派のルネサンス的なバランス感覚や解剖学的正確性を重視した人体描写をする能力がありながら、わざわざ肩が脱臼しているような人や、首が後ろに折れているような人や、背中が蛇のようににょろんとしている人や、筋肉がついてないような人や、マンガみたいにデフォルメした大げさな腕でがっちりとヒザをつかんでいる人を描いています。そのほうが、解剖学的・医学的にはありえない嘘っぱちの人体描写であっても、より、絵画として説得力があり、自然に見えるからです。彼の絵は、古典派の先駆者ラファエロを知らないと理解できないのですが、ラファエロを超え、新しい時代を開拓しているのです。ライバルは、一応、ロマン主義のドラクロワということになってますが、ドラクロワよりアングルのほうが、古典に裏づけされた深みがあります。

noname#44623
noname#44623
回答No.2

全てのことは過去の基礎の上に成り立っています。 例えば、ようやく「つかまり立ち」するようになった子供が、 棒高跳びの選手に憧れ、 「あんなふうに跳びたい」 と思ったとします。(非現実的ですが....) でも、歩いたり走ったりすることは めんどくさそうで、回り道のような気がするから 一気にその過程を飛び越えて 高飛びだけをしたい、 と言いだしたら、どう思われます? つかまり立ちしかできない子に、 高飛びの試験をしても結果は知れています。 古典派の形式や音感を知らずして ロマン派との違いは理解できません。 調性の崩壊、新しい和音感覚、 古典を知らずに新古典派の曲は理解できません。 得手-不得手、好き-嫌いはあります。 が、古典を知ることにより、 ロマン派、近現代の曲に対する 理解が深まります。 形式張った音楽を知ることで 角張った形式から抜け出そうとした 作曲家の意図が見えてきます。 何故試験で古典派を? 古典派をどのように弾くかを聞けば、 ロマン派を弾けるかどうかは解ります。 もっと言えば、試験でスケールが弾けない生徒の点数は、 他の曲を聴く前に、既に付いているのです。 これは、私の恩師が言っていたことです。