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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:指輪物語)

指輪物語は近代文学なのか?ポストモダニズム文学なのか?

このQ&Aのポイント
  • 指輪物語は、近代文学として評価されるべきか、それともポストモダニズム文学として評価されるべきか、その判断は曖昧です。
  • Tolkienは北欧神話を取り入れ、ミッドガルドという世界を作り上げましたが、その文学的評価については意見が分かれています。
  • 指輪物語の近代文学的な要素やポストモダニズム文学的な要素を探ることは難しく、明確な答えは存在しません。

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回答No.1

たとえばジョイスやフォークナー、あるいはヴァージニア・ウルフやヘミングウェイをモダニズム文学に分類することに、異論のある人はほとんどいませんが、児童文学(『指輪』を児童文学に分類してよいのか、というのは、いったん置きます)となると、なかなかむずかしいものがあるかもしれません。それでも富山太佳夫は『岩波講座 文学12 モダンとポストモダン』のなかでジェイムズ・バリの『ピーターとウェンディ』を、モダニズムの観点から読み解いていて、一般にはディズニーのアニメとして知られるこの物語が、アニメよりずっと毒をもったものであることを知ると同時に、モダニズムの特色を備えていることにあらためて気づかされ、驚いてしまいます。 つまり、やはりどうしようもなく当たり前のことを書いてしまうのですが、モダニズム、ポストモダニズムを分ける超越的モノサシがどこかにあるわけではなく、その人がモダニズムをどういうものとしてとらえるか、あるいはポストモダニズムをどういうものとしてとらえるか、によるのだと思います。 とはいえ、もうすでにポストモダニズムということが人口に膾炙されて四半世紀以上が過ぎ、ある程度は共通認識として受け入れられてもいる。 ここでは先にあげた富山太佳夫が「閉じる、閉じない」のなかであげている指標を参考までに引いておきます。 「モダンとポストモダンを区別するのは、絶対の真理/相対主義、人間中心主義/文化の個別性、均一性/異種混在性、ヨーロッパ中心主義/グローバリズム、普遍的な法/ディコンストラクション、社会構造の重視/個人の快楽の優先、産業主義/ポスト産業主義、父権性/性の流動性、直線的時間/時空の圧縮、現実/シミュレーション、閉鎖性/未閉域化などということになる」(この部分の参考文献として、Jeff Lewis,"Cultural Studies, The Basics" p.17 があげられています) 「直線的時間」のところとかモダニズムの特色を「現実」に置くところとか、あちこち微妙に異論がなくはないんですが、とりあえずひとつの目安にはなるかと思います。 まずトールキンの『指輪物語』は、英雄物語を語りつつ、一方で自身の第一次世界大戦での従軍経験がふまえられ、あるいは第二次世界大戦における核兵器の問題が寓意されています。 そうした意味で、単なる英雄物語を超える思想、そうしてトールキンの考える「絶対の真理」とするものを備えています。あるいは旅を続けるフロドの内面のゆれと成長といった、近代文学の特徴ともいえる心理描写を備えている。 あるいは、父権の象徴としてのガンダルフの存在などを考えあわせると、モダニズム文学と言えそうです。 一方で「指輪を捨てる」というのは、従来の英雄物語のひとつのパターンである「聖杯探求」をひっくりかえしたもの、パロディとも言えるわけです。あるいは、人間とエルフの共存であるとか、そこに一種のポストコロニアルの思想を読みこんでいくことも可能なのではないかと思います。 そのうえで、こういう見方もあるということをひとつあげておきます。 先に引用した富山が「閉じる、閉じない」で指摘するのは、モダニズムというのは、調和的な全体という幻想を持っていたのではないか、ということです。『ピーターとウェンディ』にせよ、あるいはE.M.フォースターの『インドへの道』にせよ、モダニズムというのは、その調和的な全体という幻想に向かう運動であって、そのプロセスの内にしか実現しないのではないか。 この指摘はわたしには大変興味深いものに思えるんですね。別のところで「『インドへの道』がモダニズムの雰囲気の中から出発しながら、その枠組みに亀裂を走らせつつ、ポストモダンの方向へ踏み出そうとしていた」という部分があるのですが、モダニズムを決して実現することのない「調和的な全体」への運動としてとらえると、モダニズムという運動自身が、必然的にその枠内に留まらないのではないか。つまり、不可避的にポストモダニズムの萌芽を内に含んでいるのではないか。 そんなふうに考えるのが、たとえばジョイスにしても、フォークナーにしても、思い当たる節は多々ある。 『指輪』も、わたしはモダニズム文学であるように思うんですが、そのうえで、「運動」、「モダニズムの雰囲気の中から出発しながら、その枠組みに亀裂を走らせつつ、ポストモダンの方向へ踏み出そうとしていた」側面も見て取れるのではないか、と思うのですが。 まあ、一度読んでみてください。

ken-deleuz
質問者

お礼

毎回、丁寧な回答をありがとうございます。 Jeff Lewis,"Cultural Studiesの文献に関して、大学の図書館(私の入っている大学以外の図書館もふくんで)、そして町の一番大きな図書館にもこの本はありませんでした。一応、大学のエレクトロニック リザーブにCultural Studies、チャプター5(from structurism to poststructurism)のみありました。僕が住んでいる場所にはこの本はないみたいです... モダンとポストモダンの区別は非常に助かりました。僕が読んだどの文献も、こうだから、これはmodernist textsなんだと言う説明はありますが、他の本を読むと、それに反論するかのような説明と、曖昧な定義で説明しているため、混乱していました。また指輪物語を読んだことがないため、第二文献の説明が頭を通過するだけでした。やはり読まないとだめみたいです。 実は僕自身、この指輪物語、ファンタジーものはあまり好きではなく(笑)、今まで結構避けてきました。今回、このファンタジーが絶対にとらなければならない科目だったのでまいりました。でも今回少し考えがかわったかもしれません。 >その枠組みに亀裂を走らせつつ これを読んで、あ、そうか、と思いました。今まで読んでいた指輪物語に関しての文献で、どうしてこの作品が60年代批評家たちの対象になっていたのかが氷解したような感じです。彼ら批評家のコメントそれ自体が、ポストモダニズムを指し示しているのでしょうね。 ありがとうございました。

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