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空と色より

混沌の中にあって極まれば変ずというのがありますが 極まれば変ずの原動力は空界における生きとし生けるもののの共通の夢より色界の不可逆的な逸脱に対する危機性にあるのではないでしょうか 小乗は空界にとどまり 大乗は空界よりいでて色界に働きかける。 混沌としての集合的無意識より 空界において観自在により共通の夢は見出せるでしょうか。 願いであり祈りであるものが顕現化するすることはあるでしょうか。

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  • lightgrid
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回答No.7

>大きな船とはどんな船だと思っていますか。 言葉の由来としては、大きな船=大乗。小さな船=小乗です。 これは、あくまで大乗仏教の立場からの表現です。上座部仏教は小さな船であり、それと比較して大乗仏教は大きな船というわけ(たとえ)です。 仏教をどのように「たとえるか」で理解するのではなく、仏陀になるためにどのように世界観・修行法が説(と)かれているか、という、内容で理解する必要があると思います。 世界観をどのように表現するかは、あまり問題ではないと思います。 私のアドバイスは、全て、根本仏教に基づくもので、先に挙げたURLをお読みいただければよいので、私の出る幕ではありません。 質問者様は、大乗仏教では、どのような修行法(仏陀になるための修行法)を提示していると思われますか?(実は、仏陀になるための修行法は大乗経典には存在しません。)

noname#39190
質問者

お礼

>質問者様は、大乗仏教では、どのような修行法(仏陀になるための修行法)を提示していると思われますか?(実は、仏陀になるための修行法は大乗経典には存在しません。) はじめにも申し上げましたとおり、どの宗教に対しても門前小僧にもなっていないと思います。家は禅宗の檀家で、禅には興味はあり自己流でやってみることはありますが、それ以上でもなければ、それ以下でもありません。正統な修行法などについて答えられるものは持っていません。申し訳ないです。

  • lightgrid
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回答No.6

>原因となるところに働きかけ啓蒙するという立場もあってそれが大乗仏教のあり方でもあるのではないでしょうか。 それは、上座部仏教の存在が前提となり、上座部仏教への道が開かれている場合にいえることです。しかし、歴史的事実として、大乗仏教は経典で、基本的に上座部仏教を小乗としておとしめて否定しているのです。啓蒙するという立場は、大乗仏教を正当化するために、大乗仏教の存在が不要となるのをさけるための詭弁ではないでしょうか?   一歩譲って、大乗仏教を、仏教を啓蒙するための方便として残してもよいとは思いますが、上座部仏教への道が開かれそれを勧めることが必要です。 >お釈迦様は無常であることと、仏陀への道として一切の執着から離れることを説きました。 その通りです。異論ありません。但し、いっさいの執着から離れて仏陀になるためには、或る段階までは、仏教の修行に執着する必要があるそうです。そして、修行の最後の段階で、仏陀になりたいという執着を捨てなければ、仏陀になれないそうです。 しかし、この娑婆世界(3次元世界)は、何らかの執着がなければ生きていけない世界(欲界)です。人生を一生懸命前向きに生きるというのも大事なことです。問題は、善きことや聖なることに執着し、悪しきことや俗への執着から離れることだと思います。 善く生きるのを怠る(怠惰、随眠欲)というのは、人間の悪い因縁の一つです。

noname#39190
質問者

お礼

大乗小乗とどちらがどちらをおとしめるなどということに執着するつもりはありません。 欲があるということと 欲に執着するということは 違うのではないでしょうか。 お釈迦様は仏陀への道として執着を絶ちなさいと言っているのではないですか。 >しかし、この娑婆世界(3次元世界)は、何らかの執着がなければ生きていけない世界(欲界)です。人生を一生懸命前向きに生きるというのも大事なことです。問題は、善きことや聖なることに執着し、悪しきことや俗への執着から離れることだと思います。 善く生きるのを怠る(怠惰、随眠欲)というのは、人間の悪い因縁の一つです。 大乗と小乗の分岐点はあると思います。 上記引用文は小乗から大乗に乗り出した考えを述べておられるようなのですが、大乗とは大きな船という意味だそうです。その大きな船に乗っているもの丸ごと救おうとする大欲が大乗の悲願であるといいます。大きな船とはどんな船だと思っていますか。

noname#39190
質問者

補足

回答ありがとうございます。 お世話になっております。 急速な地球温暖化の進行や生物の絶滅種や絶滅危惧種がどんどん増えています。 長い年月をかけて夫々の種は夫々が生き残るように他の生物種を食べながら、しかもその生物種を滅ぼすことなく平衡状態を保ち進化してきました。 このまま多様性をどんどん失い、食物連鎖の平衡が崩れていけば いずれは不可逆な人類を含む生物種の大量淘汰が起こることは当然予測されることです。 人間の過度の干渉を抑制するする事によって防げるもので それがひいては人類が安定的にこの地球上で生息できることにつながるのです。 生を享受するため自由貿易主義、自由経済主義という思想の中で 夫々の国が生き残ろうとして無制限に乱開発したり、自国の利益追求で戦争などにうつつを抜かして自然を破壊している場合じゃないと思いませんか。 人類が正しく認識し実践することによって変えていける質のものであると思いませんか。 木を見て森を見ない。 小を見て、大に気がつかないのも愚かなことだと思いませんか。 大きな船としての地球の平衡をいい 夫々の国家の平衡をいい 夫々の地域社会の平衡へと演繹していくものです。 その中ではじめて日々の生活に埋没し、身の回りの徳を積んで生きるということが生きてくるのです。

  • lightgrid
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回答No.5

上座部仏教、根本仏教(阿含経)について、URLを貼ります。 お釈迦様が説かれたことがたくさん説明してあります。 参考まで。

参考URL:
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html,http://www.j-theravada.net/explain/index.html
noname#39190
質問者

お礼

お釈迦様は無常であることと、仏陀への道として一切の執着から離れることを説きました。 それについてはどう思っておられるのでしょう。

noname#39190
質問者

補足

我々は宇宙船地球号という大きな船に乗って生き航海をしているようなものです。(NHKではないですが) その中の多種多様な生態系の平衡状態の中で一生物種として生かされているという見方もできます。 生態系の平衡性が乱るということは、ひいては人類の存続の危機に繋がって行きます。 自然に対する正しい認識の欠如によって、人類の自然界への過度の介入に原因するものであれば、それを抑制することによって平衡を取り戻すこともできるはずです。 上座部はお釈迦様の教えを守り、自らが仏陀となることを道としそれを紡いできたのではないですか? 小乗の立場によって一切の執着を離れ、この世に生まれでたものは必ず死ぬのであるからそれもしょうがない流れとしてそれに沿うというあり方もありますが、自らの欲に対する執着からではなく、仏教で言うところの三毒が破滅につながることをいい、その大本、原因となるところに働きかけ啓蒙するという立場もあってそれが大乗仏教のあり方でもあるのではないでしょうか。

  • lightgrid
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回答No.4

>小乗は空界にとどまり、大乗は空界よりいでて色界に働きかける。 本当は、空性によって、無より色が生じる、ではないでしょうか。 根本経典の「縁起の法」は、当然、それを含みます。(表現としては、上座部をおとしめて、大乗の優位を主張したかったのでしょうね。強がりをいっているだけです。実際は、逆の立場なので。) 「空即是色」は、より良く、強く、高い理念で、欲をもって、生きるのがよい、ということではないでしょうか。 仏教は、修行により煩悩を消滅させて仏陀になることが目的ですが、あらゆる欲を完全に否定しては、生きていけませんし、因縁解脱の修行もできません。良い欲をもって生き、徳を積むことによって、心豊かに生きることができ、いずれ仏陀になるための修行(当然、大乗仏教にはない根本仏教での修行)ができるほどの徳が積める、ということでしょうか。 これは、在家信者に授けた智慧と思います。 ニューエイジ「プレアデスかくかたりき」(参考URL)の本でも、「思いは実現する」とあります。 しかし、「こうなりたい」、「こうしたい」、という思いが実現すると、「こうなりたい」、「そうしたい」、という「未達成の状態」が、実現するそうです。「金持ちになりたい」と思うと、その状態が実現し、いつまでも金持ちにはなれないそうです。 ですから、私は、豊かです、ありがとう、と感謝すると、その状態が実現して、実際に豊かになるそうです。「神との対話」(参考URL)に、そう書いてあります。 ただし、それも、因果応報にしたがって、自分の徳に見合ったものしか得られません。徳を積むことが大切です。 心豊かさこそ、本当の豊かさかもしれませんが。

参考URL:
http://www.geocities.jp/nkkagosu50/page099.html,http://www.sunmark.co.jp/frame_isbn/978-4-7631-9199-1.html
noname#39190
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 一番最初の解答のお礼欄にも書きましたように、仏教に詳しいわけではないのです。門前小僧にもなってないかもしれません。 上座部というのはお釈迦様の教えを純粋に継承しているということなのでしょうか。 お釈迦様は覚りへの道だけを説いたということをよく聞きます。その中で無常を説いたということですが、その他には簡潔な言葉で言うとどんなものがあるのでしょうか。無記扱いのものに対しては無記でいいのです。

noname#39190
質問者

補足

お釈迦様の言葉に一番近いのは法句経だと聞きますがどうなんでしょう

  • mmky
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回答No.3

[菩薩界の顕現化はまず絶滅種を出さないで地球全体の生態系の平衡状態を保つことにあるのではないか]  全てのものに仏性「山川草木悉有性、石にもあります」があります。全てのものは根本仏の一部ですから根本仏の念いあるいは願いに縛られています。根本仏の願いはひとつ「我のようになれ!」ですからどのようなものであれ「進歩と調和」を目指すしかないのです。動植物は動植物の考えがあるが進化の道から逃れることはできません。たとえその種が絶滅してもそれはその種としての進化の中にいるのです。目に見える形が消えうせてもその種の魂は永遠に生き続けていますから、違う時代に違う形で花をさかすのです。かって恐竜の時代がありました。恐竜は絶滅しましたがその魂は進化し現代の多くの生き物になっているのです。これでいいという平衡状態はないのです。菩薩界がこの世に実現できれば、次は如来界というようにです。根本仏に際限がないので進化は際限なくということですね。ただ同時に大調和(あるいは大平衡といってもいいでしょう)も望まれていますので、この相反する命題を解いていくのが難しいのです。この難しい命題をときながら菩薩を目指せが釈迦大如来の教えそのものです。2500年前も現在もまた遥かなる未来もおなじでしょう。

noname#39190
質問者

お礼

人間の自然界への過度の介入によって絶滅種が出るということと、自然の摂理による淘汰とは違うとでしょう。 隕石が落ちて地球の生命が滅びるといったことは誰もどうしようもない運命として片付けられるでしょうが、人間の過度の開発によるものであったりすればそれは、人間の欲望の抑制、仏教で言うところの人類の貪りを控えることで変えられるものなのではないでしょうか。

noname#39190
質問者

補足

絶対神という名の下に負けることを知らないと思われるキリスト教に 人類の支配下にあると考える弱者としての動植物のことを思いやる度量が発生すると思いますか? 絶滅したくない。 弱者としての動植物の願い、祈りは届くと思いますか。

  • mmky
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回答No.2

[およそこの世に生を受けた生きとし生けるものが持つ(と思われるでいいのですが)共通の夢とはどんなものがあると思われますか?] およそこの世に生を受けた生きとし生ける者には宿題が1つ課されています。この宿題が解ければ人生はほぼ成功なのですね。この宿題は「生まれる前に与えられているんですね」オギャと生まれると全員平等に忘れてしまうようになっています。空界というところは厳然たる秩序された世界ですから階級差(不平等という意味)があります。どの世界も下に行くのは簡単だが上にはいけないんですね。ところが色界に生まれたとたん如来であろうが菩薩であろうが下のほうの者であろうが「全て白紙の平等で」スタートするわけですね。その上、色界は精神的玉石混交、つまり無秩序の混沌の世界ですから、神も仏もないあの世もないから始まってあらゆる思想が行きかっている世界に放り込まれるわけですね。失敗すると元いたところにはすぐにはもどれない。いやですね。でも宿題が解ければ元いたところに戻れるし、万が一本物の偉い精神のお方に会えれば教えを請い、更に上の世界にも行ける可能性はあるということですね。(3000年に一度咲く優曇華をみるがごとく稀有なこともあるが)。こういえば全員の夢は宿題を説くことでしょう。宿題を解くキーワードは各々の人生のいたるところにちりばめられています。最低ラインは転生輪廻に気づくことだと思います。 「願い、祈り」というのは「念の波」を発するということですね。 電波と同じようなものですね。ラジオやテレビのように装置の周波数をあわせば聞いたり見たりできます。空界で誰が周波数を合わせて「願い、祈り」を聞いているかですね。必ず聞いている者がいます(一人じゃないから:不一不異)。それが上のものに届いて願いがかなうように色界に働きかけるかの問題ですが長く継続する願いなら必ず実現します。「感謝の祈り」には別の面もあります。太陽は燦燦と分け隔てなく全ての生き物を照らし続けています。太陽にしろ根本仏にしろ見返りは何にもなく与え切りですね。でも、人々の「感謝の祈り」は嬉しいはずですよ。「感謝の祈り」しか返すものをもってないしね。 参考まで

noname#39190
質問者

お礼

回答では人間世界だけを範疇にした考えのようなのですが、 牛や馬、犬や猫といった動物や植物、その他諸々の生物に対しては仏教ではどのように考えているのでしょうか。 同じように分け隔てない太陽と大地の恵みに感謝するかのように生きていると思いますか? それとも下等な動物だから生まれた喜びなど感じないで、ただ食べて寝て子孫を残すだけで、檻に入れられても籠の鳥でも、つがいを引き裂かれても何も感じないと思いますか? 動物は他を殺し食べることによってでしか生きられません。 人間だけでなくどの動物もそうしなければならないのです。 どの生物も、私はもっと生きていたい、と願ったらその願い、祈りはどこに飛んでいくのでしょう。 もし全てを感知し、同じように願いを叶えてやろうとするものがあるとしたら、どの声にも贔屓しない、ただ黙って聴く、無の状態にならざるを得ないのではないでしょうか。 お釈迦様のいう無の状態とはそういう状態なのではないかと思ったりします。 自然の摂理に任せるより仕方ない。 だから今自分達が生きながらえ食をいただける時はただ感謝だけがある。 菩薩界の顕現化はまず絶滅種を出さないで地球全体の生態系の平衡状態を保つことにあるのではないか。それは願いや祈りによってでしかどうしようもないことなのでしょうか。

noname#39190
質問者

補足

もしキリスト教にも人間の優位性ばかりでなくそういった考えを受け入れる度量があり、精神性を導いている自覚があるのであれば、少なくとも今世界の経済を牽引しているキリスト教国家に向かって、乱開発や自由競争主義に対して抑制的に働きかけるべきなのではないでしょうか。大国の自由経済主義の安い製品に太刀打ちし自立性を保ち生活を守ろうとすれば、どの国も機械化や生産性を重視していかざるを得なくなり、自然界に負担をかけていくことになるのです。 トンは欲望のままに乱獲乱開発で貪り ジンは怒りに任せて戦争し チは正しい認識の欠如 仏教で言うこの三毒は人類を破滅に向かわせるものだと思いませんか? 日本人に言ってもしょうがないですが。

  • mmky
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回答No.1

参考までに 三諦(空諦、仮諦、中諦)というのがありますね、空諦(あの世)、仮諦(=世俗諦=色界)、中諦(空にも色にもとらわれない状態)ですね。 精神世界をあらわしているのですが、空諦(あの世)という場所に混沌は存在しませんね。厳然たる秩序の世界です。釈迦代如来のおわす世界を頂上として上から地獄の最深部まで一部のすきもなく秩序化されてます。だから観自在の状態であれば菩薩界上段ですからかなり上のほうです。当然共通の夢(この世を菩薩界にしたいという夢)はありますよ。その夢を混沌極まりないこの世(色界)で実現しようとしてるわけですね。でも疲れるので楽なあの世に逃げ込もうとするのです。そこで共通の夢を忘れないでこの混沌のこの世(色界)で生き抜くという決心が中諦ですね。難しいですけどね。 「混沌としての集合的無意識」がどこにあるかでまったく意味が違ってくるでしょう。 混沌のこの世であっても願いであり祈りであるものは必ず実現しますね。時間が鍵ですね。それから仏教は上求菩提(じょうぐぼだい)・ 下化衆生(げけしゅじょう)ですからどちらも重要なんですね。悟りを求めつつ衆生の魂を救済していくというのは切り離せないんです。だから小乗→大乗→小乗の連環が正しいですね。仏教ほど高度な宗教/哲学はどこにも存在しないですね。難しすぎるのが難点だけど。

noname#39190
質問者

お礼

仏教界からの回答ありがとうございます。 色とか空とか書きましたが実を言うとあまり詳しいわけではないです。霊界とか空界とかの秩序についてあまり知らないもので参考になります。ところで、およそこの世に生を受けた生きとし生けるものが持つ(と思われるでいいのですが)共通の夢とはどんなものがあると思われますか?よかったら考えを聞かせてください。

noname#39190
質問者

補足

p.s. 願いとか祈りとかも考えが浮かぶようでしたらお願いします。 擬人的にですが。

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