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般若心経は間違った経典
日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書に「般若心経は間違い」があります。特に「空即是色」この言葉の扱いについての指摘が印象に残りますが、般若心経肯定派は、この意見に対してどういう反論がありますか? 色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。 いろいろな角度からのご意見お待ちしてます。 返事は遅れると思いますが、どうぞ宜しく。
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- tokytime
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参考までに 上座部(小乗)と大乗仏教の著しい違いは、仏陀(全ての煩悩を切った人)になるための修行法が説かれているかどうかです。 阿含経には仏陀直説の修行法が体系的に説かれています。 これは阿含経を読めば分かることです。 この違いが分からない方はおそらく阿含経を読まれたことが無いのでしょうね。 かの空海も「阿含経、これ宝法なり」と書き残しています。 明らかに阿含経を読み、その素晴らしさに気づき、ひとり修行した可能性さえあると思います。 大乗経典にはどこを探しても、仏陀になるための修行法はかかれていません。 仏陀になった人にしか仏陀になるための修行法はかけません。 興味のある方は一度阿含経を読まれてはいかがでしょうか。
- les-min
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#4です。 本屋さんで見かけたので、ご質問文にある書籍を読んでみたのですが・・・既にとても詳細なご回答が挙がっていて圧倒されてしまいました。(勉強させていただきました。) 自分の自己満足もいいとこですけど、個人的な心証としての「読む前」「読んだ後」だけ記させてください。 全般の印象は、前回の投稿と変わらず、当然ながら「どこまでも上座部系の人」だ、という感じでしょうか。 前回記した「色即是空・空即是色」は「同義反復」という考えが明確に「誤り」とされているのですが、これはどこまでも平行線になりそうだな、と感じました。 前掲の立川武蔵氏の著作では、インドでは、大乗仏教内でも空即是色は色即是空の反復とは捉え難く、何がしか引っかかったようであまり積極的に触れられていないとされています。(上座部系仏教ではなおさらだろうと思います。) ただ、空思想を扱う経典や龍樹の思想、またその流れを汲む「中観派」では「空性(=真如・真理)を自性とする」という言い回しがあり、「A=B」「B=A」の反復が成り立つ思想が見られます。 長老は、心経の製作者を実践が足りないとしますが、空観は常に実践論とセットで語られてきたもので、決して哲学思想ではないという点はどう捉えているのかな、と思います。龍樹にしても中観派の論師たちにしても、常に実践(菩薩道)を説いていました。 また、既に#18の方が詳しくご回答されていますが、空思想というものは、そもそも「有的」な実有論を説いていた上座部系部派を張り倒すハリセンとして用意されたものなので、その経緯に触れずに上座部のお坊さんが空思想を自らの専売特許の如く語り、大乗や龍樹を批判するというのは、(かつて大乗が、上座部系部派を小乗と蔑称したことを差し引いても)えらく随分じゃないか??と思いました。(「どっちもどっち」かもしれないけど・・・) 同じことは唯識批判にも言えて、大乗の唯識思想のベースには上座部系部派のアビダルマが強く影響しているので、上座部は唯識を実在論だと批判できるのか??と思うのですけど。 その他、釈然としないなと思う部分はありますが、共鳴できる部分もあります。(自分は軸足は大乗仏教の方に置いていますが、ガチガチの至上主義者ではないつもりなので。) お釈迦さまがすべてを語っているというのは、その通りだと思いますし、大乗仏教が何も新しいことを打ち出したわけでない、というものそうだと思います。 当たり前の話、そうでなければ大乗仏教も含め仏教は成り立たないからです。お釈迦さまの説いた教えに「普遍の真理」を観たからこそ、上座部では常にお釈迦さまを通してという形で法(真理)を捉え、大乗では法の普遍性と方便の有効性を確信して飛躍したというわけで、決定的に異なるのはこの点だけだと思っています。 上座部系の方はどう思うか知らないですし、大乗も(とくに日本では)問題ないわけではないですが、基本的にお釈迦さまの説かれたことから離れたわけでも、逸脱したわけでもないと思います。 今さら(しかも上座部側から)2000年前と同じような話しを蒸し返してどうしたいのかな?と思いましたが、読み物としては面白かったです。 自分にはどちらがどうだか善し悪しは判断できませんし、長らくお釈迦さまの教えに忠実であろうとした上座部系仏教にも敬意をはらいたいとは思います。けれどそれは結局「大乗仏教徒が不満だった仏教」なのだな、ということを改めて感じました。 読後、長老のおっしゃることを含めてみても、やはり「色即是空・空即是色」は同義反復だという考えは変わりませんでした。 たびたびに失礼しました。ごめんなさい。
- bonbonnier
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ANo.15のbonbonniereですが、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の否定の根拠がわかりましたので再度回答致します。 1.じつは『般若心経』は、わからなくて当たり前なのです。それはお釈迦さま、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。 お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」を完全に語りました。 先に述べたように釈尊は『マッジマニカーヤ』(『中阿含経』)に含まれる『聖求経』では、釈尊は不生・不病・不老・不死なる涅槃に達し、わが解脱は不動であると覚知したとあります。これは、龍樹の『中論』における『不生亦不滅・不常亦不断・不一亦不異・不来亦不出」という龍樹の覚における八不否定の中道の境地ですが、究極の真理としての勝義諦は言葉によって表現することはできないものなのです。しかし、言葉で表現しなければ衆生に真理を指し示すことはできませんから、すべての二元対立を否定する言葉として表現せざるをえません。原始経典の最古層に属する『サンユッタ・ニカーヤ』には「名称で表現されるもののみを心の中で考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるものが偽りであると完全に理解しないならば、彼らは死の束縛に陥る。」とあります。経や論はあくまで勝義諦の真理を指し示す言葉、勝義諦の真理に到達するための道筋を表す言葉であり、真理そのものではなく、勝義諦の真理を言葉で表現する場合は、八不中道の龍樹のように言葉の否定によるしかありません。 大乗の空思想は上座部の説一切有部が世界を75のダルマ(法=コトバ)に要素還元し、コトバによる煩瑣な世界解釈の学問に陥ったのを、もう一度釈尊が説かれたすべてのコトバが解体する戯論寂滅の八不中道の教えを宣揚するために立ち上がったものです。現在の上座は空という言葉を使っているようですが、当時の上座部の理論を集大成した『倶舎論』には「空」なる術語は使っていないと思います。空とは釈尊滅後においては、龍樹によりはじめて宣揚された釈尊の空の覚り追体験した教えなのです。 般若心経は禅定の修行により覚知した空の覚りをそのまま言語化したものです。決して覚りに至る道筋を表現した教典ではありません。したがって否定の言葉によって勝義諦の真理を表すことになります。釈尊が究極の自らの境地として語ったのも否定によるしかなかったのです。 2.釈尊の教法である五蘊、十二処、十八界、十二因縁、四聖諦などを「無」と否定する虚無主義である。 空と境地とは、般若経に「光り輝くこころ」と説かれるように生命充実の極点です。十ニ因縁において無明を滅するにはどうすればよいか。無明とは私たちの生命が、本来は世界の中の私なのに、主観(私)と客観(世界)とを分裂して認識するという根本的な認識構造に由来します。私たちが、朝、眼を覚まして天井を見上げると、無意識の内に、天井を見ている自分という存在を意識します。世界の外に自分を置いて世界を眺めるのです。それが自分というものに執着する煩悩の根本原因です。空の覚知は必然的に主観と客観のニ元対立のない生命の最先端に到達しますが、そこにおいて初めて真実の世界を覚知します。私(主観)は何も(客観)見ることはできません。世界と一如になった生命充実の極点は、世界をありのままに見るだけです。十ニ因縁、四聖諦という言葉も、それを実体視する限り、そこに執着します。十二因縁、四聖諦を「無」と否定しているのではなく、般若の智慧においては、自分と世界が一如ゆえ、自分の外のものとして何ひとつ対象的に捉えることができないのです。その覚証の境地から「無」と表現しているのです。無と否定せざるをえない戯論寂滅の境地によって、かえって無明を完全に死滅させることができ、十二因縁、四聖諦の教えを成就することができるのです。そこにしか真実の覚り、四聖諦そのものもありえないのです。この「光り輝くこころ」とは増支部経典に説かれる、「心は本来清浄であるが、客塵煩悩によって染汚されている」という自性清浄心-光り輝くこころです。これは大乗仏教の如来蔵の教えですが、この原始経典に説かれた自性清浄心とは空解脱であることが西義雄先生により指摘されております。 空とは無とは対極にある人間の生命の十全の開花なのです。 3.「色即是空」は「諸法無我」に対応する正しい命題だが、「空即是色」は「色即是空」の対偶論理ではなく逆論理なので正しい命題と言えない。 空とは釈尊の勝義諦としての究極の覚りにあっては、戯論寂滅の八不中道の世界、涅槃の境地です。龍樹は『中論』においても「断じられることなく、新たに得られることもなく、不断・不常・不滅・不生である。-これが涅槃であると説かれる。」と述べ、般若の智慧による八不中道の空の覚りの境地は究極的に涅槃の境地であるとしています。そして、「生死輪廻には、涅槃とのどんな差別もなく、涅槃には、生死輪廻とのどんな差別もない」と時、私たちが生きている現象世界が涅槃の世界であると説きます。上座部仏教が生死からの自由を説くのであれば、大乗仏教は生死への自由を説きます。自らの真実の命を三世に渡り、世界のために働いてやまない存在、そこに究極の人間の真実を見ます。 空とは真実の勝義諦の世界にあっては、縁起でもなく、空性でもなく、八不中道の戯論寂滅の涅槃の境地です。「空即是色」とは究極的に涅槃即現象世界であり、涅槃がすべての存在(色)に遍満しているということであり、龍樹の覚もここにあります。永遠に何の活動もない輪廻から脱した涅槃の境地を目標とする上座部では思議の及ばない世界といえます。 釈尊は私たちに何を教えたか。それは、不動の解脱の涅槃の境地を覚知しても、人々の幸せのため、法を広めてやまない遊行の世界です。雨季の間(六月末から九月末)だけ、むらがって発生する虫を踏み殺さないために集団生活をしていましたが、それ以外の期間は法を説いて遊行してやまなかったのです。釈尊のお姿にも空即是色、涅槃即生死の世界があります。釈尊の一生は空即是色の一生であったのです。 4.修行方法を語らずに、釈尊が完全に否定した呪文を崇める。 最後にある真言は呪文を崇めたものではありません。般若の智慧を真言を借りて賛嘆したものです。上記の説明の通り般若の智慧こそ四聖諦であるということです。 尚、私の般若心経理解は竹村牧男先生の「般若心経を読み解く-仏教入門の第一歩」、「インド仏教の歴史 「覚り」と「空」」、「仏教は本当に意味があるのか」によるところです。 近々発刊される石飛道子先生の『ブッダと龍樹の論理学』が空の勝義諦である中道について語ってくれると思います。
大乗は空界に生ずる諸々の色に執着しないが 自らの欲に執着することを発露とするのではなく 生ずる諸々の色を観察することにより、苦の発生の根本を見抜き、それに働きかけ、大きな船全体を救うことを悲願とし、そこから演繹し人の力によって変えていけるものは変えて行く、その思想を細部に浸透させようとする。
空は空なるが故に諸々の色を生ぜしめる 空はまた空 無常であり 空の本性により生ずる諸々の色に執着しない 上座部の立場
- bonbonnier
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まず小乗仏教と大乗仏教における空観の違いですが、小乗仏教は折空観といいまして、世界の事象を五位七十五法という要素に還元して、この法(ダルマ)は三世実体常有として永遠に存続し、宇宙法界のすべての存在は、このダルマによって構成されているが、我というものは要素の中に存在しないので我空と説きます。我空法有が小乗仏教の立場です。今日的意味合いでいえば、すべての存在は素粒子等の要素の集合体にすぎず、我というものはどこにも存在しないということになります。分析的知による空観であるわけです。 これに対して大乗仏教の空観は、体空観といい、止観の修行により、主観(私)と客観(もの)が分裂する以前の生命の最先端を覚知し、我法二空を説くものです。この空の覚においては、この主観と客観が分裂していませんので、「私は青いものを見る」ということが言えず、ただ青いものが光り輝いている、真実の青の世界が覚知されます。般若経ではそこを「光り輝く心」と説かれています。覚者が見たのは、月の光りをみても、月の光りそのものと一体となった光り輝く世界、生命充実の極点といえます。です。般若心経には、「以無所得故」と説かれていますが、対象となるべきもの(客観)と自己(主観)が一如ゆえ、対象として捉えることができません。般若経では、「縁起のゆえに無自性である、無自性のゆえに空である」と縁起=空を説きますが、すべての存在は自性がない、すなわち私という存在は他の存在との無尽の関係性の中で成立している私である、また、私という存在は他のすべての存在の支えともなっているという存在間の相依相即性を説きます。このように、空のあり方が小乗仏教と大乗仏教とでは全く違います。宗教的真理の深遠さは大乗仏教の空観にあるといえます。 始仏典の最古層にある『スッタニパータ』に「自我に執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。」と我法二空を説いています。しかし、原始仏典最古層の『サンユッタ・ニカーヤ』に、「じつに、比丘たちよ。未来世において比丘たちは、このようになるであろう。如来の説かれたそれらの経典は深遠であり、意味深く、世間を超え、空性に属するものである。それらが説かれているときに比丘たちはよく聞かないであろう。耳を傾けず、さとろうとする心を起こさないであろう。彼らはその教えを受持すべきものであり、熟達すべきののであるとおもわないであろう。」とあるように小乗仏教は一切皆空の教えを捨ててしまったわけです。 しかし、龍樹の名高い注釈者である月称は『中論注』の中で、龍樹菩薩が縁起にこれら生ずること等が説かれたのは、無明の暗さに害された智をもつ人の認識の境によってなのであると述べています。また龍樹も『中論』の中で、「一方、人にもし空見があるならば、その人々を治癒しがたい人とよんだのである」ともいわれています。大乗仏教においては一切皆空と観ずるのは無明の智による見ということになります。 では、龍樹にあって空の真義はどこにあったかといえば、中論にある「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出」の八不中道の戯論寂滅の涅槃の境地にあります。般若心経にも「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」と説かれるところです。また、この涅槃の境地はどこか遠い世界にあるのではなく、生死の世界が涅槃であると『中論』に説かれます。小乗仏教のように解脱して何も活動のない状態(無余依涅槃)が人間の最後に到達すべき目標であるのか、これを大乗仏教は否定します。龍樹は『中論』、『因縁心論』において輪廻転生を説きますが、大乗仏教は涅槃にも住せず、生死にも留まらず、三世にわたり生死の世界にあって、自らの生命を燃焼してやまない無住処涅槃を説きます。般若心経は小乗仏教の涅槃観の明確な否定でもあったのです。 この八不の戯論寂滅の境地とは大乗仏教において般若心経にも説かれる阿耨多羅三藐三菩提の覚りです。この大乗仏教の究極の覚りである阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚はパーリ上座部、説一切有部等でも早い頃から説かれたことがあったそうですが(平川彰著作集『初期大乗と法華思想』65頁以下)、小乗仏教が空、および阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚をいち早く捨ててしまったことは、先に示した『アングラッタ・ニカーヤ』に説かれた通りです。 原始経典『マッジマニカーヤ』の「聖求経」には不生・不滅・不老・不病・不憂・不汚なる無上の涅槃にあったことが説かれいます。釈尊が不生不滅の不死の境地に達したことは、原始経典最古層の『スッタニパータ』にも説かれています(225、635)。『スッタニパータ』には不死の境地とは戯論寂滅の境地であるとしています(1074、1076)。釈尊の覚りも龍樹の八不否定の不生不滅の境地、諸法実相の法理であったのです。これは『スッタニパータ』からもわかりますが、パーリ上座部、説一切有部等が当初、阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚の教えを説いていたことからも明らかであると思います。釈尊も八不の戯論寂滅の境地から縁起=空の教えを説いたのであり、この覚の構造は龍樹と同じものといえます。 また空とは生命充実の極点でもありますが、これを原始経典には自性清浄心-光り輝くこころと説かれています。仏性の教えでもありますが、空の覚智は生命の清浄性を意味しています。小乗仏教は空に限らず、自性性清浄心-光り輝くこころも捨て去ってしまい、龍樹の出現により釈尊の真実の教えに光りが当てられたのです(角川ソフィア文庫 仏教の思想 3 空の論理<中観>、または4認識と超越<唯識>)。大乗仏教の空の教えは小乗仏教徒が想像することもできない地平にあるといえます。
No.13です。追加で再度の投稿お許しください。 >お釈迦様は、人々を煩悩から救い出すために仏陀になることを勧め、そのための修行法を説いたのです。 阿含経にはそれが記されています。阿含経にのみそれが記されています。 お釈迦様は現世利益(世間的な物、金、地位、権力を求めること)を追求したり、神や仏を信仰することを勧めたことはありません。 >「空即是色」は、物事に執着することによって、空=縁起の法(因果応報)の原理によって希望の物象が得られる。換言すれば、一生懸命がんばれば、因果応報の法則によって、物事に成功する、という意味です。このように説明すれば、スマナサーラ長老もこれが正しいことを理解されるでしょう。 そのような内容のことは、阿含経にも記されているはずですし、スマナサーラ長老もご自身の法話で話されているはずです。 お釈迦様は無常のほかにも、仏陀への道として一切の執着を離れることも説きました。覚りに至る前の空即是色の解釈のしかたの持つ危うい一面だと思います。だからこそ上座部として空即是色に否定的になるのだと思われます。 申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
上座部がお釈迦様の教えを純粋に継承し、仏陀となることのみを目的とするならばその存在意義は十分にあって、そのことを踏まえればどちらがどちらをおとしめるも何もないのではないでしょうか。 小乗が仏陀の教えの糸を切らさないためにあるとすれば、大乗は小乗を通過点とし菩薩界の顕現化に乗り出す。 確かに空即是色には仏陀となることを忘れ、あらぬ方向に糸の切れた凧のように飛んでいく可能性があるようです。呪いも禁止もしくは否定的であったといわれています。 上座部が空即是色の部分に不定的であるのは、仏陀へ道に妨げになる可能性を見抜くからで、お釈迦様の教えをよく守っているからだと思われます。
- katyan1234
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経典をどこまで認めるのか?弟子が書いたものを認めるのか? まあ仏教とは何か?この違いを理解して初めて質問し回答できるものだと思います
- tokytime
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日本テーラワーダ仏教協会はあくまでも上座部仏教なので、その後発生した大乗仏教とは全然別のものという観点が必要だと思います。 もちろん、だからといって大乗仏教をおとしめるものではありません。 大乗にはそれなりの歴史的流れと必要性と役目があったからこそ存在し、発展したのだと思います。 各時代で天才的な僧侶が出現し、すばらしい説法と経典を残してきました。 それらは今でも伝えられ、研究され、世の中を啓蒙しています。 もちろん日本に伝わったのは殆どこの大乗なので、日本人にとっては大乗仏教こそが真の仏教であり、昔から先祖代々信仰してきた心の拠り所です。 ですから大乗仏教を否定したり、批判することには強い抵抗感があることも否めません。 しかし、逆に上座部の方々からすれば、自分たちが真の釈尊直説の仏教と思っているものに、いつの間にか誰かが色々な別のものをくっ付けたり、重要な部分が失われたりしているものが仏教として広まっているものを「はい、それもみんな釈尊の真の仏教です。」とは言いがたいでしょう。 彼らの視点からすれば、おそらく阿含経以外は仏教として真剣に取り組むに値しないものなのではないでしょうか。 私個人としては般若心経はすばらしいお経だと思っています。 別の方のすばらしい解釈が載っているので内容までは述べません。 他の大乗仏教にもすばらしい経典がたくさんあるのも知っていますし、尊敬すべき僧侶が日本にも大勢いらっしゃいました。 しかし、上座部の僧侶の視点からは全く別のものが見えていることにも気づく必要があると思います。 日本で発生した柔道や剣道、寿司が外国で似て非なるものに変化した場合、日本人はそれも本物だと何の抵抗も無く認められるでしょうか? そして、その外国の人々が自分たちの方こそ本物だと声高に叫んだとしたらどうでしょう。 自分の所にこそ本物があると確信していながら、まがいもの(と思っている)を真剣に取り入れる気にはならないのではないでしょうか。 ですから上座部にたいする大乗の正当性を議論しても不毛だと思います。 本家本元とは、なかなか後発のモドキを認めないものだからです。 また一方、どんなものでも必要な人にとっては、自分にとって大切なものこそ本物だからです。 以上、参考になれば幸いです。