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般若心経は間違った経典

日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書に「般若心経は間違い」があります。特に「空即是色」この言葉の扱いについての指摘が印象に残りますが、般若心経肯定派は、この意見に対してどういう反論がありますか? 色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。 いろいろな角度からのご意見お待ちしてます。 返事は遅れると思いますが、どうぞ宜しく。

みんなの回答

回答No.10

事物は実体を欠いている、という空性の見解は、全ての仏教の学派が認めています。 経集に「無花果の木に花を求めてもえられない」とあるように。 しかし、大乗仏教では特に空性を悟る智慧を重要視します。 空即是色=事物は実体を欠いているからこそ現象としてあらわれる というのは高度な教えです。 チベットの高僧に質問しても答えてもらえませんでした。 (あなたたちにはまだ教えられない、という意味だそうです。) 未熟な者に空性を説くのは菩薩戒に反します。 誤って解釈する恐れがあるとかで。 禅定などの行によって見えてくる世界や見解もあります。 仏法は広大甚深なもので、理解できないにしても批判すべきじゃありません。

  • mmky
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回答No.9

竜樹の空解釈:八不. 「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去」を鳩摩羅什は、「色即是空 空即是色」と解釈した。現代の長老は「色即是空」のみが正しく「空即是色」は創作だとのたまわく。 末法の世だからどのように解釈してもかまわないが、それで竜樹の空解釈が理解できるものかなと思います。釈尊のおこした仏教は宗教であって西洋哲学とは違いますよ。50年も法を説けば高弟子には仏陀の悟りを不立文字で伝えていますから、キリスト教のようにわずか3年の弟子とは違いますからね、何でもかんでも「如是我聞=わたしはこのように聞きました」なんてことはないですよ。「如是我聞」は学生が使う言葉ですよ。南に下って大乗の祖となった文殊菩薩は笑ってそういうでしょう。仏教は上求菩提 下化衆生ですから小乗も大乗も仏教ですしね。上求菩提は四弘請願にもあるように「仏道無上請願」ですから上を見ると限がないのですね。簡単なものではないしわからないのであれば「わからない」でいいと思いますよ。生悟りほど宗教で怖いことはないといわれていますからね。参考程度に

noname#38369
noname#38369
回答No.8

空は空なるが故に諸々の色を生ぜしめる 空はまた空 色即是空 空即是色は 空の本質をいっているように思いますが どうなんでしょう? 空の無常性とも矛盾しないと思います。 お釈迦様のことばではないという意味での事実無根の創作ということなのでしょうか?

  • lightgrid
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回答No.7

阿含経に基づく上座部(本当の仏教)と、大乗経典に基づく大乗仏教の諸宗派(仏教もどき)とは、全く異なるもので、似てもいません。 阿含経には、仏陀(因縁解脱して、輪廻転生から脱した高い霊的存在)になるための修行法が記されており、上座部仏教では、仏陀になるための修行に励むことが何より重要とされています。 その修行法とは瞑想を中心とする練行です。 お釈迦様は、人々を煩悩から救い出すために仏陀になることを勧め、そのための修行法を説いたのです。 阿含経にはそれが記されています。阿含経にのみそれが記されています。 お釈迦様は現世利益(世間的な物、金、地位、権力を求めること)を追求したり、神や仏を信仰することを勧めたことはありません。 一方、大乗仏教は、現世利益的で多神教であるヒンズー教の影響を強く受けて、現世利益を求める、修行しない在家信者のために、現世利益的で多数の架空の仏を頂く、信仰するための宗教として作りだされたものです。 大乗経典には、仏陀になるための修行法が存在しません。 そのような教えは、お釈迦様の教えとは全く関係ありませんし、お釈迦様の意図に反するものです。 仏陀になるための修行をするのが仏教ですから、大乗仏教は仏教とは言えませんし、中には反仏教とさえいえるものもあります。

  • tokytime
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回答No.6

参考までに・・・ 偽経典かどうかの判断の基準は、その経典の出だしに 「我は釈尊がこう仰るのを聞きました・・・」 の部分があるかないかに拠るところが大きいようです。 この部分が正当であるためには、実際に釈尊が言われたことを自分の耳で聴く必要があるのです。 もし、聴いてもいないのに、この部分がその経典に載っているならば、それは自分の主張する経典の正当性をでっち上げた、嘘、偽りの経典となり、偽経典と烙印されてしまうのです。 こういうことはローマカトリック教会の研究者たちが仏教を詳しく研究しており、彼らの厳正な検証の結果、 仏教における唯一の経典は「阿含経」のみであり、他の経典は後の世に仏陀とは関係なく作り出された創作経典と断言できるそうです。 「我は釈尊がこう仰るのを聞きました・・・」 の部分がなければ、それぞれその時代の偉大な天才たちがインスピレーションによって編み出したすばらしい経典がたくさん存在するようです。 しかし、それは仏教の経典とは言えず、あくまで某経、某経典・・と命名すべきもののようです。 参考になれば幸いです。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.5

あまり仏教には詳しくない門外漢ですが、参考程度に。 「般若心経の間違い」が何を指すのか、分かりませんが、立派な経典の一つであることは確かですね。 その原点で、現在たどれるのは法隆寺所蔵の8世紀頃の写本(サンスクリット語)のみだそうで、それより前(3世紀頃)には漢訳が行われており、それ故に「偽経」説(漢字で経典成立→サンスクリット語訳)があるのは確かです。 ただ、この「偽経」というのは、「釈尊の言葉や教えではない」という意味ではなく、「仏教が成立したインド(もしくは中央アジア)で選せられた経典ではなく、中国や日本において選せられた経典である」という意味です。 けだし、釈尊自身が経典を書いた事はなく、今残る彼の言葉や教えは、彼の死後に弟子達によって纏められたモノです。 故に、当時(釈尊入滅後前383年or前480年)より弟子の立場や宗派の立場から、釈迦の教えと主張したのが違う分けで、当然、これら経典には全てそれら編纂者の意向が入っているわけです。 もちろん、これは古文書学(仏教だと経典学かな)で当たり前の事であり議論の余地はありません。(釈迦が直接書いた経典自体存在しないのだから) 「偽経」であるかどうかは、つまり編纂されたのがインド・中央アジアか、中国・日本であるかの差のみであり、故に「真経」と「偽経」を腑分けする事に余り意味が無いというのが、昨今の学会での流れのようです。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E7%B5%8C
  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.4

こんにちは。  「反論」するつもりはないですけれど・・・この長老さんの著作や番組に数度だけですが読んだり見たりしたことがあります。ふだん仏教というものに触れていない方々にはインパクトがあって良いかと思います。  ただ、見るからに(当然ながら)「この人はどこをどうつついても上座部系仏教の立場からの話ししか出てこないのだろうな」という感じがついてまわってしまい、個人的には「支持できない」という印象を持っています。ご質問文にある著作は読んだことなくてすみません。  般若心経関係の比較的新しい本として立川武蔵『般若心経の新しい読み方』春秋社というものがあります。  「新しい読み方」とはいいつつ、著者の般若心経研究のまとめのような本で、翻訳と、インド・チベット・中国・日本で心経がどう解釈されてきたかが書かれており、「色即是空 空即是色」に関してもかなり紙片を割いています。(この著者は密教的解釈には深く触れない・少々錯誤がある人ですが、空思想に関しては有名な人です。)  この本で興味深かったのは、インドの大乗仏教のお坊さんたちにとって「色即是空」は当然ではあるが、「空即是色」は難問(?)というか、あまり積極的に取り上げて解説しなかった、という部分でした。  般若心経を創作した人物もインドのお坊さんのはずですが、この人物に感得できた事柄が他の人々にとって難問だったというのは興味深いと感じています。  日本人的感覚という表現で片付けられる事柄かどうかはわかりませんが、「色即是空 空即是色」は日本で大いに受け入れられたと言えるのかなと感じます。  個人的には、とくに深く考えなくても「なんらの違和感も感じられない。」という心証を持っていますし・・・(だから「反論」にならない)  縁起し無自性であることが空であるという思想の中で「色即是空 空即是色」は結局のところ同義反復だと考えて良いものだと思いますし、「流転するもの・性質」を「真理」とするなら「色即是空 空即是色」のどこかどう不都合なのかなと思うぐらいで。二つセットにならないと「空」の持つ「真理性」を表現できず、意味ないように感じます。  日本でも般若心経の解釈はいくつかのパターンに分かれ、割れてしまいます。何を信じるかは、個的内的な問題で、最終的には個々人が選ぶしかないし、別に長老の考えが間違いで、自分の考えが正解だとは思わないですけど・・・  仏教というものを上座部も大乗も含めた一つの「流れ」として、考えられないものなのかな?と常々思っています。気になってしまい、書き込んでしまいました。では。  

  • mmky
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回答No.3

鳩摩羅什以上の仏教的悟りを持っておっしゃってるのなら、あるいは真言の伝持の八祖(龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智菩薩、不空三蔵、善無畏三蔵、一行禅師、恵果和尚、弘法大師)以上の悟りをもっておっしゃってるのならその通りでしょう。でもそのようには思えないが。単に竜樹菩薩の空の悟りが理解できないだけなのでは?

  • lightgrid
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回答No.2

上座部からすると、般若心経は、阿含経ではありませんから、お釈迦様の言葉ではありあません。 般若心経の解釈については、上座部は基本的に関心がないので、作者の意図が理解できないし理解しようともしないだけだと思います。上座部からすると、彼らの修行法はそれ自体で完全なものなので、大衆部によって在家信者向けに創作された般若心経などどうでもよいはずです。 ですから、理解できないことを前提にして、般若心経や空即是色が間違いとおっしゃっているだけでしょう。 「空即是色」は、物事に執着することによって、空=縁起の法(因果応報)の原理によって希望の物象が得られる。換言すれば、一生懸命がんばれば、因果応報の法則によって、物事に成功する、という意味です。このように説明すれば、スマナサーラ長老もこれが正しいことを理解されるでしょう。 そのような内容のことは、阿含経にも記されているはずですし、スマナサーラ長老もご自身の法話で話されているはずです。従って、この問題は、本来、仏教の教義として対立するような問題ではありません。

  • siapa
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回答No.1

(1)日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老>肩書きのことはいいたくありあませんが、自分の考えとして述べてもらったほうがいいですね。 (2) * *経は間違い > という表現がひっかかります。現代の進歩した文献学では、教義をおさえつつ、信仰心とは別個に、実証的に、教義の発展進化を交渉するのであって、これが学問の立場です。ですから、信仰実践の立場からであれば、このような議論自体が不毛なものとなります。なぜなら信仰はなにものにも優先するからです。(したがってこの投稿も取りやめますし、なかったことにしていただきたいです。) (3)色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。> もし、上座部仏教を本格的に研究し伝承されている人ならば、それは当然のことではないかなと思います。なぜなら、このお経は紀元前後の成立で、ちょうどインド北西部で後にいう大乗仏教が起こり始めたころの成立と考えられているからです。「空即是色」は現代人の牽強付会かも知れませんが、言われてみると、現実肯定の新思潮とも思えなくもないですね。色即是空ということからみて「間違い」というのだったらそれはそういう主張は可能ではあると思います。 (4) 現代の学問上の知見では「伝わるお経」は信仰者の創作であって、それを、事実無根、といったのでは、宗教だかなんだかわけのわからない話ですね。江戸時代までの人々のように「仏説**経」とホンキで信じるような行為は、偉大なアジアの宗教に対してかえって失礼だとおもいますよ。