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歌川広重について
4年前にも同様な疑問を持たれた方がおられましたが、回答に納得できません。 私も学校で、「東海道五十三次」の作者は「安藤広重」と習いました。 でも今はホボ全て、「歌川広重」と紹介されます。 本名と画号の違いという事は理解してますが、ナゼ、今ここにきて、「歌川」と名乗らされているのでしょうか? もしかして、「安藤広重」の方が江戸時代的にはフツーでなかったということでょうか?
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当時の浮世絵の世界で最大勢力であった歌川派。 その門下の歌川豊広に、安藤重右衛門は入門し、 歌川広重の名を与えられました。 >妙な名前で呼ばれている事に、異を唱える人はいなかったのでしょうか? 安藤重右衛門の歌川広重は初代です。 彼が実績を上げ世間に名を広めたため、その名は、 何代かにわたって受け継がれています。 今でも歌舞伎や落語の世界で~何代目襲名~とかありますね。。 現在では初代~、二代目~、と付けるのが一般的なようにも思いますが、より判りやすく、、 安藤重右衛門の歌川広重→安藤広重になったのかもしれませんね。 そういえば、水戸黄門で有名な水戸光圀公も 本当は徳川光圀ですね。、、水戸に住む光圀公でしょうか? だけど実は、なぜ安藤広重と呼ばれ始めたかは定かでないらしいです。 いろんな説や論議があるそうです。 >ナゼ、今ここにきて、「歌川」と名乗らされているのでしょうか? 近年の研究や議論で、広重の人物像や当時の人々がもつ 名前へのこだわりがより具体化してきました。 広重の家は代々役人(武士)で、現在でいう消防や防衛という仕事でした。 彼もその仕事を受け継ぎ、仕事の時は安藤重右衛門、 画人としては歌川広重と使い分けていたようです。 またこの時代の人は、名前を変えることは一般的だったようです。 広重も 徳太郎・重右衛門・徳兵衛・広重・鉄蔵・一幽斎・一立齋・など 有名になった後も名を変えています。 現在の浮世絵の世界で「東海道五十三次」の作者は、歌川広重と、 歌川派の絵師であることを示さなければならないと認識しはじめたようです。 絵の作者に火消しの安藤の名は、名を使い分けていた広重にとっても失礼です。 美術の世界ではすでに常識化されてきているようですが、 一般に広まった安藤広重の名は簡単にはなくならないですね。水戸光圀公のように、、、。 http://homepage3.nifty.com/motokiyama/tokuu/edo100_18.html ●雑感(2)-歌川広重と安藤広重- http://homepage2.nifty.com/ukiyo-e/hiroshige.htm 、
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本名と雅号をくっつけた「安藤広重」は間違った呼び方だったということで納得できないんですか。 そうした間違った呼び方の例はほかにもあります。 徒然草の作者は「吉田兼好」でなくて、正しくは「卜部兼好」。
お礼
ありがとうございます。 私、浮世絵界に疎い者で、すでに、そう提唱してた人がいたとは知りませんでした。
補足
以前の回答は、 「>安藤が本姓、歌川は画号だそうです。」 でした。 「安藤広重」が、本名と雅号をくっつけた呼びかただとすれば、「広重」が雅号なのでしょうか? 本名と雅号をくっつけた、間違った呼び方だとすると、なぜ昔(せいぜい20年くらい前まで)は違和感持たなかったのでしょう? 広重が活躍してた当事はトウゼン、雅号で呼ばれてたはずなのに…。 それが、妙な名前で呼ばれている事に、異を唱える人はいなかったのでしょうか? 慣れ親しんだ「安藤広重」を、だれが「歌川広重」に今さら変更させてるのでしょう? もう、「安藤広重」では展示会等 開催されないのでしょうか? 「吉田兼好」を「卜部兼好」にしないのなら、広重も「安藤」でよかったのに・・・。
お礼
ありがとうございます! 「広重」さんが複数いたとは知りませんでした。 特定する為や、格付けする為に「安藤」姓にしたのでは? という説も うなづけます。 URLの中にあった、 >広重の東海道が遠近法上実写から離れている …という指摘で、私は、肉眼で見た写実的な遠近法を使わず、 いわば、一眼レフカメラの超広角レンズでノゾイタ絵を描ける広重さんに、あらためて偉大さを感じました。 確かにそんなような描写の絵があったような気がします。 昔、永谷園のお茶漬けで当たった(古すぎ!)、五十三次カードを また見てみようと思います。 どこにかたづけたかなあ?