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近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵は

数ヶ月もの間野営をして北海道や樺太を探検、測量したんですよね。何も無い未開の地で長期間どの様にして野営したのでしょうか? また、食べ物はどうしていたのでしょうか? 相当過酷な生活だったと思います、教えて下さい。

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  • eroero1919
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回答No.3

人跡未踏の地とはいえ、シベリアから北海道、アラスカにかけてはいわゆるアイヌ(イヌイット)の人たちが暮らしていました。 また北海道には当時松前藩があったわけです。東北も寒いですし、そういう意味ではある程度の防寒の知識と装備はあったわけです。 近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵らより先に、田沼時代の幕府北方調査隊があり、彼らが苦労の末様々なノウハウを得ていました。特に彼らにとって貴重だったのは最上徳内の存在でしょう。田沼調査隊に参加し、後に近藤重蔵の部下として北方調査を実質的に取り仕切り、間宮林蔵とも関係がありました。 その北方調査に関しては面白い話があります。間宮林蔵が北海道の奥地に調査しに行ったときのこと、同行の松前藩の役人は熊の毛皮を着ていてみんな凍傷になったそうですが、林蔵は樺太犬の毛皮を着ていたので大丈夫だったそうです。熊は冬眠するので意外に寒さにそれほど強くはなく、一方樺太犬は真冬の北海道でも外で活動しているのでその毛皮は北海道の過酷な寒さにも強かったのです。林蔵はその知識を地元のアイヌから得ていたそうです。

toraneko9
質問者

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詳しく御回答いただきありがとうございました。 そうそう、最上徳内を忘れていました。 この時期にはこの4人の他にも北方探索をした人がまだまだいたのでしょうね。 当時の樺太はどんな人が住んでいたのでしょうか? 北海道と同じアイヌ人とも思えませんし・・・ 他民族ならどうやって意思疎通をしたのか少し気になりました。

その他の回答 (2)

  • ben1151
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回答No.2

第一次測量は、特に、幕府から、軽く見られたので、一行6人に対し、一日、2朱というわずかなお金しか与えられなかったので、あとは、持ち出しだと思われます。 井上ひさしの「4千万歩の男」は、まぁ、文学として、他にも、ドキュメンタリーに近いタッチの読み物があるようです。 測量隊も勤勉で、結束が固く、ほとんどリタイアが出なかったようです。 生活に必要なものを荷駄として、持参していったようですが、過酷だったでしょう。 「歯が抜けて、好きな粕漬けが食べられなくなった」と、家族当ての手紙が残っているそうです。

toraneko9
質問者

お礼

御回答いただきありがとうございました。 「歯が抜けて、好きな粕漬けが食べられなくなった」 やはり過酷だったのですね。 先人達の苦労が偲ばれます。

  • nemosan
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回答No.1

>何も無い未開の地… 現地は人類未踏の地では無く、アイヌの人が普通に住んでましたから、 道案内してもらったり食料を分けてもらってたのでは? http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/k-hanashi/mamiya/mamejii.htm

toraneko9
質問者

お礼

御回答いただきありがとうございました。 参考ページは子供向けとはいってもかなり詳しい内容で、とても 面白く、参考になりました。