- ベストアンサー
人間とは現実存在の精神である性質と存在のミステリー
- 人間は現実存在であり、その中心には精神があると考えられる。
- 性質と精神は同じ質であるという仮説も存在し、人間をより深く理解する手がかりとなる。
- 存在はハイデッガーの言う空虚なものではなく、人間に限らず全ての実存を指すべきである。
- みんなの回答 (13)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
yuniko99 さん、こんにちは。まず自説を唱えるときには、「性質」及び「現実存在」の定義を書かないといけませんね。そうしないと初めて閲覧する人が、意味が分からなくて悩むので。 現実存在に、生き物すべてを含めるのは理解できますけど、石や水あるいは機械などはどうしたいのですか? もちろん性質の定義と矛盾なく決めることができれば、好きに決めてよいと思いますよ。 ≪存在とはハイデッガーの言う、定義できない空虚なものではなく≫ ここはすばらしいですねえ。 (^◇^) ブッダの哲学では、空は決して空虚ではないということになっています。 【この世のありとあらゆるものは 空であるがゆえに移ろいゆく すなわち色即是空。】 【移ろいゆくがゆえに この世にはありとあらゆるものがある すなわち空即是色。】 これはエネルギーが、そのありようを変化させることで、物質になったり、相互作用による性質となって表れることと同じです。また、物質がエネルギーへと還元されることと同じです。しかしなかには心を失ってしまい、悟りと称して内向性の思考に陥り、真理が見えなくなる人もいるんですよね。ブッダは悟りに囚われてはいけないと、注意したはずなんですけど。科学病、唯物病、悟り病とでも申しましょうか。
その他の回答 (12)
ついに「性質存在」までいきましたか。やっぱり新しい造語はスッキリしますね。たとえば以前の投稿に書いていたように、 「(性質存在)とは存在させようとする性質をもった、個性ある(多様な)性質を持ったエネルギーの有り様である。」と定義すればいいんじゃないかと思います。この書き方にするならば、量子重力を研究している人たちとも足並みが揃うでしょう。あとは抽象的な絵を描ければね、分かりやすくていいんだけど。 だけどほんとにあれですね、最近は合理や効率ばかりがとりざたされて、心が置き去りですよね。せちがらいご時勢です。私なんか難しい漢字が読めないから頭もイタイんですよ。
お礼
いや 性質存在と言うのは良いと思うのですが 「存在とは個性ある性質を持ったエネルギー」で性質存在と言うのは 個性ある性質=性質存在 と言う意味です。 これを読んで分かってくれる人が居るといいのですが・・・。 どうも大変ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ 所謂学問としての哲学にとって 存在とは何なんでしょうねえ? 人間精神も説明がついてない以上 まだこうだと断定できませんよねえ ハイデッカーが存在は無だと言ったからって 存在は無で定義出来ないと言うのは ほかの哲学者も了解しているのでしょうか? 私にも甚だ疑問ですねえ。そんな空虚な内容の無いものを存在と呼ばないでほしい と思うのは僕だけでしょうか?? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ハイデガーは もう忘れました。つまり どこまで行ってもふつうに当たり前のことしか言っていないぢゃないかと思って それぢゃもう忘れてしまっても構わないと捉えたそのあとは すっかり忘却のかなたです。 《存在 Sein 》と《存在するもの Seiende 》とは 簡単には 本質と現象とに当てて捉えると分かりやすい。そして本質は 目に見えないということになっている。心の目には見える場合があるのですが。 本質に先立つと言われる《実存 existenz 》のほかに じつは《現存在 Dasein 》という術語もあります。簡単には 現象として立っている存在を言っているのでしょうね。 存在するもの < 現存在 < 実存 この順序で 現実の場や情況や出来事や当事者やとより深くかかわっている感じがあるのだと思います。 そういう意味では 《存在》は 概念として雲の上にあるといった程度に捉えているのかも分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 無限存在とでも言ってれば良いのではないでしょうか? 認識存在とか、自我存在、意識存在とか色々言いようがあるでしょう。 その様にして学界で積み上がって行くドグマ。宗教の様なものではないでしょうか? 生きた哲学をさせてくれ 息が詰まりそうだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは 厳密に行くべきでしょうね。 《無限存在》は 《非経験の場= 非知なるナゾ》のことです。そのほかには意味を成しません。 《認識》は 記憶・知解そして意志の内の《知解》のハタラキに入ります。 《自我 das Ich 》は 《わたし Ich 》のことです。わざわざ自我と言うから めんどうなのだと考えます。われありのワレのことです。 《意識》は 現実の意識のすべてを言います。記憶を引き出して来たならその覚えていることについて知っていることですし 知解しているときその知っていることを言うわけですし 意志したときにもその意志内容を知っていることを言います。 認識・自我・意識は すべて有限なものです。 ですから 人間存在は 《有限なもの - 無限なもの》の矛盾しつつ一体である状態が生きるという動態です。 ★ 私は「考える我」とは意識だと思う、精神だと思います。 ☆ 精神のうちの特には 知解として認識したり思考したりするハタラキ――そしてそれは われが知るところとなるから意識の上にある――を言うという素朴な事実です。 ★ 《わたしの内なる(?)それ あるいは あれ》=《非物質的で霊的な実体》=アートマン(霊我)=精神 は精神存在。でいいじゃないですか。なにか拙いんですか歴史的に? ☆ 先ほどの《有限 と 無限との区別》が 必要です。 《わたし》:《有限なもの - 無限なもの》 精神(記憶・知解・意志)・身体 - 霊(アートマン;ブッダター) 思考の緑野・感性の原野 - 非思考の庭 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そんな事を拘ってる間に 多くの人が希望を失い、欝になりあるいは自殺し 国は軍事の流れに巻き込まれていこうとしています 我々は真実且つ役に立つ、平和に役に立つ哲学を世界に発信していかなければ 何の為に我々は哲学をして来たのでしょうか? 人を救うのが学問ではないでしょうか? 宗教? 宗教で本当に人は救われるのでしょうか? 哲学の火ががみんなの心に灯り、多くの底辺(裾野)の上に優れた哲学が生まれるように 我々は哲学を人々に返さなければなりません。 難しい哲学の重たい壁に穴を開けて人々の元にその知恵を返さなければなりません でなければ何の役にも立ちません。 [・・・] そうは思いませんか みなさん? ブラゲロンヌさん? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええっとですね。《心に光をもたらす》のは 科学です。医学などは 例としてふさわしい。そして 世界認識としての科学が 世界の内にあるわれら人間の心をゆたかにしてくれます。 ただし 心の灯心に火をつけるのは 何でしょう? 汲めども尽きぬ水の湧き出る心の泉を掘り出すのは 何でしょう? 哲学をふくめ科学のよくするところではないと思います。なぜなら 有限なチカラだからです。 無限のチカラが もしそれがあるとしたら・そして求められるとしたなら 必要です。それは端的に 《非思考の庭》なるチカラであり動態です。 このことを あたかも科学の上をゆく超科学でもあるかのようにみづからを押し出し売り出したのは シュウキョウです。そのオシエが 万能薬だと言わんばかりに。けれども オシエは ただの文章であり思想です。神秘だとすれば 意味の分からないナゾです。 そうではなく 《思考に非ざる庭》としてのチカラが もしあるとすれば われらが心の灯心をともしてくれるものだと言わねばなりません。そうでないと見る場合があるということが ナゾとしてのチカラであると考えられます。 非思考の庭は シュウキョウのオシエのようには外に出ない。外に出たら 思考や感性になってしまいますから アウトになります。 (不一にて)。
お礼
厳密に検討して頂きありがとうございます。 宗教は当てにはなりませんが 学ぶべきものもある と言う事を僕は昔から思ってきました 生まれつき無宗教の私ですが 宗教を幾らか勉強しました。 収穫はありです^^ どうも大変ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 デカルトの《考えるわれ》は 定説がマチガイだったと判明しています。ので お知らせします。 【Q:デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?】 ~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8938723.html コギトする《われ》というのは あたかも《霊我=アートマン》であったか? という問いです。その問いの内容についての確認です。 すなわち デカルトみづからが その《考えるわれ》は 《非物質的な実体(英訳ですが an immaterial substance / incorporeal )》と書いたと言います。 [・・・] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 上の質問の趣旨説明欄に 英訳文が挙げられています。 その原文は 次です。 ▲ (アンドレス・コヰウス宛ての書簡) ~~~~~~~~ http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?q1=cogito%20ergo;id=ucm.5323545972;view=plaintext;seq=412;start=1;sz=10;page=root;num=404;size=100;orient=0 (サムネイル化されていますが 文字は 旧書体が交じっています。次は あたらしい字体に書き直しています)。 04 Ren. Descartes Epist. Pars IL Epîft. CXVIIL HAbeo tibi gratiam pro loco Divi Augustini,quem mihi indicasti, quicum principium hoc meum, Cogito, ergo sum, aliquomodo consentit, illum hodie legi in oppidi hujus Bibliotheca, & revera video eum illo uti ad probandam existentiae nostra: certitudinem, & deinde ad ostendendum esse in nobis aliquam Trinitatis imaginem, quatenus sumus, scimus nos esse, atque illud esse, & hanc quae in nobis est, scientiam amamus; ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitantem esse immaterialem incorpoream substantiam; quae duo diversa valde sunt. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 末尾の二行が 次です。: ▲ ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitantem esse immaterialem incorpoream substantiam; quae duo diversa valde sunt. △(英訳) On the other hand, I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal. These are two very different things…. △ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔前文: アウグスティヌスが《あざむかれるなら われあり( Si fallor, sum. )》という命題で次のことを語っている。:《われわれは 存在しており 自分たちが存在するということを知っており その知解の存在しかもそれがわれわれの内にあるというその知解を愛している》と〕。 つまりわたし(=デカルト)は そのことを《考えるわれ》が非物体的にして霊的な実体であることの証明に用いたい。だが アウグスティヌスの文意は 別であるはずだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ アウグスティヌスの《われなる存在》とは こうです。:もしおまえが 自分は人として存在すると言っていても じつは欺かれている(だまされている・夢まぼろしをみている)だけだと知者に言われたとした場合 それでもわたしはそれに対してこう答える。:もし欺かれていたとしても わたしは存在しないならば 欺かれ得ないのだから 問題にならない。というものです。 ☆ それとはまったく別な《われ考える。われ存在する》をデカルトは言ったいたことになります。早く言えば この《存在するわれ》というのは 確かに《考える》のではあるのですが じつは《それが考える。 Es denkt. It thinks. Il pense. 》と言うべき内容だというのです。《わたしの内なる(?)それ あるいは あれ》が考えており その《考えるものなるわれ》が 真の存在だということなんだそうです。 つまり 《非物質的で霊的な実体》が《存在》であると。いわばアートマン(霊我)のことでしょう おそらく。だから 《空っぽなる存在》なのでしょうか どうでしょうか。
お礼
所謂学問としての哲学にとって 存在とは何なんでしょうねえ? 人間精神も説明がついてない以上 まだこうだと断定できませんよねえ ハイデッカーが存在は無だと言ったからって 存在は無で定義出来ないと言うのは ほかの哲学者も了解しているのでしょうか? 私にも甚だ疑問ですねえ。そんな空虚な内容の無いものを存在と呼ばないでほしい と思うのは僕だけでしょうか?? 無限存在とでも言ってれば良いのではないでしょうか?認識存在とか、自我存在、意識存在とか色々言いようがあるでしょう。 その様にして学界で積み上がって行くドグマ。宗教の様なものではないでしょうか? 生きた哲学をさせてくれ 息が詰まりそうだ。 私は「考える我」とは意識だと思う、精神だと思います。 《わたしの内なる(?)それ あるいは あれ》=《非物質的で霊的な実体》=アートマン(霊我)=精神 は精神存在。でいいじゃないですか。なにか拙いんですか歴史的に? そんな事を拘ってる間に 多くの人が希望を失い、欝になりあるいは自殺し 国は軍事の流れに巻き込まれていこうとしています 我々は真実且つ役に立つ、平和に役に立つ哲学を世界に発信していかなければ 何の為に我々は哲学をして来たのでしょうか? 人を救うのが学問ではないでしょうか?宗教?宗教で本当に人は救われるのでしょうか? 哲学の火ががみんなの心に灯り、多くの底辺(裾野)の上に優れた哲学が生まれるように 我々は哲学を人々に返さなければなりません。 難しい哲学の重たい壁に穴を開けて人々の元にその知恵を返さなければなりません でなければ何の役にも立ちません。 僕の友達のお母さんは言いました。「哲学なんてすると死にたくなるよ」 何でしょうか?この感想は? 一時期流行っていた虚無主義でしょうか? 僕の友達の奥さんは言いました「ゆにこさんは学生運動の時代だったから哲学とかやるんですか?」と 哲学が嫌がられているのです。難解で不気味で空虚で内容の分からない哲学が怖いのです。 これは哲学の悲劇です。人類にとって不幸な事です。 人の心に光を灯す哲学を 我々の手で人々に返してあげましょう。 そうは思いませんか みなさん? ブラゲロンヌさん? どうも大変ありがとうございます。^^
補足
面白いですねえ。 その《考えるものなるわれ》が空虚で内容がなく定義できないもの なのでしょうか? しかし考えるからには幾らかの知識や思考や実体がありそうなものですが それが空っぽなる存在? 哲学をして玉ねぎの皮を剥いて剥いて剥き抜いたら 結局何も無かった?中は無だった?それではこの空即是色のこの世界は何? また書きます。体調が悪くて・・・グッド・ナイト☆
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
回答者が、会話が成り立たない事に苛立つのは、ブラジュロンヌさんのスレッドでもかつてはよく見られた現象です。独自の用法で言葉を使う人と会話するには、何よりも慣れが必要なのだと思います。 その点、ユリガダイさんは何度も説明してくれるし、それは良い事だと思うのですが、聴き手に回るのは苦手なようです。質問を解釈するには、回答者も聴き手に回らなければ解釈できないので、そこで食い違いが生じているのではないでしょうか。 ユリガダイさんの回答は人気があります。それだけ認められているということ。学問としての哲学にも造詣があるようですし、此処では貴重な存在ですね。
お礼
確かにユリガダイさんは貴重な人です 私の事でここに来て貰えなくなるのは申し訳ないですねえ 堪えて冷静に教えてくれるといいのですが それはユリガダイさん次第なんで 何とか長い目で考えて貰いたいですねえ。 どうもありがとうございます。
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
OKウエイブの担当者はオレの回答を削除しやがったよ。 質問者を誹謗中傷すると、担当者の判断で削除するんだな。 ヤフーはそんなことが無いから、誹謗中傷なんて日常茶飯事だが、このOKウエイブはそれが許されないのか? どうりでみんな「お行儀」が良いのか、ようやく分かったよ。 ところで、「この質問コーナーで質問して人間や存在のことが幾らか分かってきました」と言っているが、誤解・曲解のオンパレードじゃないか? 結局、2~3年前からあんたが自分勝手に、デタラメに言っていることを単に補強しただけで、何も変わっていないじゃないか? (人間とは精神である)って、どういうことだ? 実存とはすでに説明したように現実存在を省略した言葉で、現実存在とはプラトンの「イデア論」の批判として、アリストテレスが言い出したこと。 つまり、現実存在とは、精神の反対、物質がある、見たり触れたりできる、感覚できる存在がある、ということなのだ。 ところがプラトンは、現実存在などない、「イデア」とか、精神とか、心があると言ったのだ。 その現実存在を、あんたは精神だという。 それじゃあ、プラトンの「イデア論」そのもので、現実存在とは反対じゃないか? そしてプラトンの「イデア論」を、アリストテレスに次いで、近代になって批判したのがニイチェで、そしてニイチェは実存主義の源流だ。 あなたは「幾らか分かってきました」と言っているが、それでは誤解・曲解以外の何ものでもないじゃないか? 要するに、あんたは実存などぜんぜん知らないということだ。 「幾らか分かってきました」どころではない。 実存とは目に見えるもの、感覚できるものが、真の実在という考えのこと。 ところが精神は見えない、感覚できない、だから実存とはまるで反対だ。 「人間とは現実存在である。精神を中心としている。人間とは精神である」 ・・・・・・.と言っているが、どうして現実存在である人間が、精神なのか? 「人間とは精神である」と言っているが、どうして人間が精神なのか? 精神って、目に見えないよな? 形もなければ、面積もなく、感覚できない、それがどうして現実存在なのだ? 私たちが現実とか、現実存在といったら、目に見えるもの、感覚できるもののことだ。 そんなのは言うまでもない、常識だろう? そんなことは子どもだって、知っている。 ということは、あんたはその子供以下だということだ。 心とか精神はただの言葉、概念だよ。 思考・意志・感情・感覚を1階の具体的な存在とすれば、心とか精神はそれらを総称する、2階の概念、思考・意志・感情・感覚は実在するかもしれないが、心とか精神は2階の概念だから、実在しないんだよ。 もし、心とか精神が存在するというのだったら、いったい心とか精神はどこにあるんだ? 脳の中? 脳は神経繊維・ニューロンと化学物質・シナプスの集まったネット・ワークで、そんな中に心だとか精神なんて存在する余地は無い。 ところがあんたは「人間は脳を介した精神であり、それは性質で出来た存在である」と言っている。 現代の脳科学の進歩発展など、あんたは知らないんじゃないか? アメリカの脳神経学者・マイケル・ガザニガは「人間の脳は処理の規則によって出来ており、そこに私とか、主体は存在しない」と言っている。 脳は細胞のかたまり、ただの肉だ。 その肉でしかない脳が、どのようにして心だとか精神を生み出すことができるのか、それは現代の脳科学・神経生理学をもってしても、解明できない謎だ。 それをあんたはいかにも当然のように「人間は脳を介した精神である」という。 そしてあんたは「存在は性質で出来ている。性質と精神は同じ質である。(精神は性質である?)」という。 まず、性質は物があって性質があるのだから、物の属性だ。 性質はそれ単独では存在しない。 ロックのいう第一性質とは、物が有する客観的なもので、延長・形・固さ・重さ、などを言う。 ところが、あなたは「存在は性質で出来ている」という。 存在はすでに何度も言っているように「存在するもの・存在者(物)」とは違って、目に見えない、感覚できない、つまり現実存在しない。 「存在するもの・存在者(物)」が性質を有するというのなら分かるが、存在が性質を有するというのは分からない。 あなたの誤解・曲解でしかない。 性質とは物理的性質のこと、精神はただの言葉、概念だ、それがどうして「性質と精神は同じ質である」といえるのか? バカも休み休み言ってもらいたい。 そしてあんたは「存在とはハイデガーのいう定義できない空虚なものではなく、人間に限らず、実存のことを言うべきである。でないと不可解(人間は存在である?)」と言っているが、「存在するもの・存在者(物)」はいくらでも定義できるが、存在は抽象的で、普遍的な概念だから、定義できない。 哲学を知っている人間ならば、そんなことはすぐ分かる。 あなたは哲学を全然知らないというだけ。 「人間に限らず、実存のことを言うべきである。でないと不可解」と言っているが、私からするとあなたの言うことの方が不可解だ。 実存とは何度も言うように現実存在のこと、そして現実存在だということは肉体を持つことであって、精神を持つことではない。 そんなことは子どもだって知っている常識だ。 子どもに向かって、精神とお菓子のどっちがいいか? と聞いたら、お菓子の方がいいというに決まっている。 「人間は存在である」と言っているが、人間は「存在するもの・存在者」です。 人間が存在しているのは事実だが、「人間が存在である」とは言えない。 さあ、チャンと回答したから、OKウエイブの担当者もまさか削除しないだろう。
お礼
私は現実存在が精神である等とは書いた憶えはないですよ、 人間は精神であるという定義にしてはどうかと書いたのです。 人間とは精神のことである(ゆにこ説)人間の体は動物です。 人間は精神であり。体は人間 の 体である。 人間にとっての第一の現実存在はデカルトの「我」です。 我が現実存在であり人間であり精神である。そして認識できる物も現実存在である。 と定義するのが望ましい。 心とか精神は此処にある。性質として皆さんの至る所にあります。 そして勿論脳を拠点としています。 マイケル・ザリガニという人の著書は知りません。 「存在は性質で出来ている」は訂正しました、「精神は性質で出来てる」の誤りです。 私の望みは 存在という言葉を 定義出来ない内容の無いものと定義しないでほしい と言う事です。どういう成り行きか知りませんが、哲学が 存在とは内容の無い定義することも出来ない無と同じものである。なんて言うもんだから 巷の人は「哲学って変わってるよなあ 存在は無で存在しないんだって 存在が存在しない?難しくてとても分からん」と思います。 哲学だけの世界で 苦しみの世界に貢献もしないで、国の税金で道楽している その様な哲学が 残酷だとは思いませんか?人を助ける哲学を作るべきと思いませんか? そりゃ私は「存在が無である」でも構いませんが。巷の人は絶望するでしょうね。 精神は見えないが第一に確認される実存である。そして性質で出来ていると 哲学の定義を変えて貰いたい。でないと理屈の合わない。 あなたの前の投稿が削除されて良かったですねえ あんなものを晒してたら恥ですよ。 ここの皆さんも貴方の知識に一目も二目も置いているのです。 また日本の思想なき若者達も貴方の見識を必要としています。それを自覚してください。 貴方は苦しむ鬱の人や 悩める人々を救いたいとは思いませんか? 彼らは次々に自殺しているのですよ。これは哲学の責任でもあります。 学識の上に今一度 人々の立場に立って考えて貰えませんか? どうも大変ありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
よく分かっていない事を、定義のあいまいな用語で くくれば、その「用語」を取り扱う事は可能になるが、 それは何の理解の深まりをも意味しない。
お礼
実際頭の中に、脳の活動に、精神活動になる様な、どの様なものが存在していると思いますか? 私には性質しか思い当たらないのですが。 どうもありがとうございます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
yuniko99様、こんばんは。 「アイデンティティー」ということについて、 それは「世界との距離感の取り方」ではないか?と 思ったところです。
お礼
自分が世界と距離を取る。世界との距離のとり方が自分・アイデンティティー と言う事でしょうか?。なる程と思えますねえ。 自分と言うものがあって それは世界と距離を取っている 成る程です。どうも大変ありがとうございます。
- ノーバン(@nobound)
- ベストアンサー率13% (294/2108)
幅広くみればたぶん精神を性質と説明してもいいかなとも思います。 日曜日の朝日新聞の読書欄に、フロイトの精神分析の解説がありました。 たぶんNo.1の方の「人間は考える葦である」という例えが後世まで残っているのは、唯物論と唯心論の統合形を見事に表現しているからだと感じました。例えが一文で本質を捉えることにゾクッとします。
お礼
ならば「人間は精神である」ではどうでしょう。 私は人間とは精神の事だと考えています。極論すれば。 精神は性質で出来ていますから、物質・エネルギーの性質と同じものです(脳内物質など) 従って唯物論と唯心論は綺麗につながっています。 どうも大変ありがとうございます。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
人間らしさとはやさしい事だと、前の質問で、ユニコさん自身がおっしゃっていました。人間を説明するならば、それでいいと思います。哲学的見解よりも、この見解の方が貴いです。 それにしても、ユリガダイさんでもテンパるんですね。おもしろく拝見させていただきました。
お礼
ユリガダイさんは何でそんなにテンパっているのでしょうねえ? なにかしら驚いたか、焦ってるようですねえ。 自身の知識の一部を否定されたから 狼狽えているのでしょうか? 人間は攻撃破壊する力が、作る力より優っているので 優しくないと生きてる資格がない。 タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。(引用) 存在性がないと生きていけない、人間性がないと生きてる資格がない。という感じ。 どうも大変ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 人間とは現実存在(実存)である。精神を中心としている。(人間は精神である?) ☆ (1) 人間だけが みづからを人間と呼んで生きる存在である。 (2) その言葉によればみづからを《わたし》と呼び その一人ひとりの《わたし》として存在している。 (3) 人間は その《わたし》なる存在として 身と心より成る。身体と精神 これが生まれつきそなわった自然本性である。 (4) 精神は 三つの行為能力に分かれている。言わば精神が精神するとき そこには情報整理をふくむ秩序作用と情報処理作用とそして情報の当否を判断しその結論を実行するハタラキを擁している。記憶と知解と意志とである。 (5) 自然本性としての身と心とは 経験的にして有限で移ろいゆきかつ朽ちるべき存在である。 (6) ただしこの人間が そのみづからの相対的な存在であることを知っていることは そのままそこに絶対性なるナゾを――言葉ないし概念として――捉えていることを意味する。 (7) 有限なる精神の能力が 無限なるものを表象しようとする。出来ないけれど そのナゾとして持つかたちになっている。可変性に甘んじなければならない人間が 永遠だとか不可変性だとかあるいはその意味での絶対なる真理を想定していることになる。 (8) 絶対とは 経験世界における有る無いを超えたところである。因果関係からまったく自由な場である。 (9) この《無限なもの》は 身と心から成る自然本性について プラスαである。または このプラスαとしての無限なものを――想定において――ふくめた存在が 人間の〔広義の〕自然本性である。 (10) 経験世界を超えた場としての無限については 表象し得ず知解能力によって考えてもそれが何であるかは分からない。分かるか分からないかが 人間には 分からない。このナゾを 《非知》と言う。 (11) 非経験の場なる《非知》については それと我れとの関係は 思考や感覚を超えている。したがって 感じるものでも考えるものでもない。《信じる》と言う。信じるという言葉を当てるとき その非知については――分からないからには――《信じない すなわち 有るとは信じない つまり 無いと信じる》と言っても 自由である。 (12) よって: 世界: 経験世界(可知および不可知)・・・非経験の場(非知) ________________________________ 自然本性:身(身体) と 心(精神) + α(たとえば霊我=アートマン) 人間 :感性の原野 と 思考の緑野 + 非思考の庭 《わたし》: 感じる と 考える + 信じる(有神論か無神論) 実存:《誰の誰兵衛》=《いま・ここなるわれ》 ・ 掛け替えのない存在。おこないは常にその時その場の一回性 (13) 《性質》とは 自然本性の《相対性・有限性・可変性・時間性》などとして言おうと思えば言える。 実存としての行為は 時間的にして不可逆性としてある。などなど。
お礼
これはブラゲロンヌさんの哲学ですね。貴方は哲学科で学ばれたのでしょうか? 基礎が確りしてるようです。これが独学なら大したものだ。 実存 精神 無限 絶対 相対 可知 不可知 非知 信じる 時間等が説明されていて 参考になります。 惜しげもなく教えて頂いて どうも大変ありがとうございます。
- 1
- 2
お礼
科学はまだ性質を科学していません。 何故なら科学とは元々 測って証明するのですから。 測ることの出来ない性質(強さとかではなく 見えない性質の世界)を考えるのは 哲学の仕事なのです。 私は「現実存在」という言葉を使いません。 もし理解するとしたら 現実に存在するもの。自我、精神、人間、生物、物質、エネルギー等 現実に存在するものは全てです。え?存在すると証明しろ? 人間の直感で多くに人、多くの時代に存在すると認められてきたのです その確からしさを以て 存在すると考えるしかありません そんなデカルトの我まで疑い殺して 何が出来るというのでしょうか? 現実存在は必ず エネルギー(物質)が性質を持って存在するというパターンです。 私は (現実)存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーである。と定義します。 エネルギーは「属性」と言う存在に置かれて来ましたが、存在に欠くべからざるものなのです。 属性ではなくエネルギー・物質とは独立した法則に基づく存在です もっと言えば エネルギー・物質はエネルギー保存則に従うだけで 性質の従う真理の法則次第で様々に有り様を変えますが、性質は真理の法則に完全に則っているのです。 此処の所を考えてみて下さい。 色即是空、空即是色 物質はエネルギーとして空にもなるが(実相は空)、物質は性質に従い真理に則っている(真理に則った有様としての色) という感じです。 科学病、唯物病、悟り病。科学や唯物で悟ったつもりになって、心を置き去りにして時代は押し詰まっていますねえ。 性質とは 特色という面もありますが、何らかの相互作用を起こすハタラキ、性質存在、ちょっと考え中でもあります。 どうも大変ありがとうございます。