「健康や金なくして自由なし」というNo.1さんの主張に「ははは、ごもっともです」というお返事。
このお返事がどういうニュアンスであるかを考えると、回答するにもためらうところではありますが。
「心理的に理由や原因をもとめなかったら」というような条件節は余計で、無条件に生きることは自由です。
それを「恐ろしい」と感じるのは心理的な問題になるのでこんぐらがっているようですね、この質問は。
サルトルさんが「人間は自由の刑に処せられている」と言っています。
私がこのテーゼに賛同するのは、理由や原因などというものは後からいくらでもでっち上げられる、嘘の根拠が無数にまかり通りうる、といったことから、理由や原因を度外視していることも影響していると考えられます。理由やら原因やら意味やら価値やらは「無にして無限」のものとして、相手にしないことにしているのです。
しかし、生きることの自由を「恐ろしい」とは感じません。生きることが自由であるというテーゼがもしも「当たり前」のことであったとすれば、当たり前のことを恐れる必要がどこにありましょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 例えば、事故で今日から一生車椅子の生活になる。自分の子供が不慮の事故で亡くなる、その時、なぜと問わずにいられるでしょうか。その時、これは人生の自由の一部であり当たり前だ、と言えるでしょうか。サルトルさんはそれが出来たのでしょうか。 私は哲学史の知識が無いのでサルトルさんがどなたなのかわからないのですが、「人間は自由の刑に処せられている」というのは分かる気がします。 ただ、因果や意味を相手にしないのではなく、相手にしなくても問題ないかもしれない、と思うと恐ろしいのです。この自由が。