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恐ろしいほどの自由
心理的に理由や原因をもとめなかったら 生きることは恐ろしいほど自由じゃないだろうかと思いませんか。
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- nabayosh
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「健康や金なくして自由なし」というNo.1さんの主張に「ははは、ごもっともです」というお返事。 このお返事がどういうニュアンスであるかを考えると、回答するにもためらうところではありますが。 「心理的に理由や原因をもとめなかったら」というような条件節は余計で、無条件に生きることは自由です。 それを「恐ろしい」と感じるのは心理的な問題になるのでこんぐらがっているようですね、この質問は。 サルトルさんが「人間は自由の刑に処せられている」と言っています。 私がこのテーゼに賛同するのは、理由や原因などというものは後からいくらでもでっち上げられる、嘘の根拠が無数にまかり通りうる、といったことから、理由や原因を度外視していることも影響していると考えられます。理由やら原因やら意味やら価値やらは「無にして無限」のものとして、相手にしないことにしているのです。 しかし、生きることの自由を「恐ろしい」とは感じません。生きることが自由であるというテーゼがもしも「当たり前」のことであったとすれば、当たり前のことを恐れる必要がどこにありましょう。
ヒトは生きることというのが肉体としての意味ならばほかの生物より格段に自由です。棲む地域だって熱帯から北極までです。生殖時期だって限定されていません。夏にしか採れない食物を冬に食べることもできます。しかし同じ自由が逆説的に生きる目的がはっきりしなくなるということにもなります。これは楽園追放の神話の語っていることです。追放されて荒野をさまようというのはエデンの園から自由になったということです。あなたのおっしゃる怖ろしいほどというのは文字どうりでもあるのです。怖ろしいというのを非常にという意味で使っているのなら案外肉体として生きると意味かと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 エデンの中にいた頃は神という保護者がいましたが、そこから出た人間には何か指標となる存在があるでしょうか。 私たちは鳥の羽より、犬の首輪をほしがっているというのは本当ですね。
- chines
- ベストアンサー率25% (168/651)
自由だとは思いますが、心理的に理由や原因を求めない事は 生きている限りはできないと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、問わずにいられませんね。 ただ、なぜ問うのかが判れば問わないことも可能ではないかと思うんです。
- les-min
- ベストアンサー率41% (269/644)
こんばんは。 個人的な話しですみませんが・・・ 生きることに、意味も価値も理由も認めていません。求められるようなものでもないと思っています。(個々が、ある種勝手に意味や価値や理由が「ある」と「思い込む」ことは否定しないですけど・・・) むしろ、「生きること」が無意味・無価値で理由もないからこそ、人は生きていられるのではないかと思っています。 一義的に意味や価値や理由が規定された「生」なんて、想像もつかないほどに苦しいものでしょうし。 個々が勝手に意味等を設定するのは、それはそれで良いとしても、それは「苦」や「迷い」の根源にしかなっていないような気がするのですけど・・・(自分は少々「血中仏教徒濃度」が高いので、こういう思考になります。) 「自由」と表現できるのか、表現して良いものなのかは自分にはわからないのですけど、生きることに理由や原因を求めることは(心情として理解はしますが)自身の生をわざわざに狭量・苦境な状況に追い込んでいるようにも思っているので、理由や原因を求めない生は「ラク」だとは思います。 しかしながら、その「自由」とて、一般社会で生きていく上での「生き易さ」とは別物である(と思われる)以上、内的(心理的)以上に人を「自由」にしてくれはしないだろうと思いますね。 人は、内的な自由を不必要に恐れ、外的(法的)な自由を希求するものの手に入れた後は持て余す、とかく難儀な生き物であるな、と。 まとまりなく、長々とすみません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ちょっと質問してもいいですか。 >「生きること」が無意味・無価値で理由もないからこそ すると宗教、例えば仏教徒が頭を剃って朝からお経を読むことは意味を持たないのでしょうか。 或いは釈迦の教えを守ることに意味、価値を見出さないのでしょうか。 私の質問の理由、原因は例えば自分に子供がいてその子が何かの事故で亡くなったとします。その時、なぜ?と問わずにいられるでしょうか? という事なんですがどうでしょうか。
- makironn3
- ベストアンサー率14% (33/227)
はあ~??健康と金がなければ自由なんてありえない!!食べたい時食べれますか??行きたいところ行けますか??
お礼
ははは、ごもっともです
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お礼
ご回答ありがとうございます。 例えば、事故で今日から一生車椅子の生活になる。自分の子供が不慮の事故で亡くなる、その時、なぜと問わずにいられるでしょうか。その時、これは人生の自由の一部であり当たり前だ、と言えるでしょうか。サルトルさんはそれが出来たのでしょうか。 私は哲学史の知識が無いのでサルトルさんがどなたなのかわからないのですが、「人間は自由の刑に処せられている」というのは分かる気がします。 ただ、因果や意味を相手にしないのではなく、相手にしなくても問題ないかもしれない、と思うと恐ろしいのです。この自由が。