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視点
ある事象には色々な側面がありますが、 その側面を全て寄せ集めればその事象を理解したといえるでしょうか? その答えを知っているという方のご回答はご遠慮ください。
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答えを求めない質問とはなにを書けばいいのか判りませんが、 単純に言えないと思います。 側面なんかいくらでもあると思います。 鉛筆一つ取ってみても正面から見たものと10度傾けて見たときと 10.1度傾けてみたときと10.01度傾けてみたときと・・・・ 書く線の形や微粒子の形状など一つとっても永遠に事象が存在 すると思います。 ではそれを全部集めると理解したことになるか?と下の欄で書かれているので答えてみると・・・おっと答えては行けなかったんですね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.2です。(補足)ご存知の通り、西洋哲学のカントのアプリオリ・カテゴリとされる時間・空間なるものは、あくまでもこの世界の認識とされるもの、カテゴリでのアプリオリだというわけでしょうが、それはもう、ヒンドゥではこの世界の認識の中の事柄に過ぎなくなっています。肉体と感覚、その意識の中の事柄にすぎなくなっていて、アプリオリでもなんでもない。しかも現実の説明に付きまとう一観念に過ぎないと。まったく問題や話題にもならない。そういう時間と空間なるものは同じことのいいかえで、両者はイコールではないかということです。
お礼
ずいぶん難しい話になってきましたね。こういうのを形而上学的というのでしょうか。 ご回答ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.2です。すべてお分かりのことですので、愚考の蛇足を。≪理解とは≫ご存知のように、カントはアプリオリとかいいましたが、経験界の知覚を理解し認識するのはその知覚を後編集でイメージや意味で構成することでしょう。それはアプリオリのカテゴリーの範囲をどうみるかですが、ヒンドゥでは生命の誕生やそれ以前のことを分析しております。しかしそれは措いて、簡単に言えば、内容や生成はともかく先入的イメージや観念、ないしは思いなどでのその知覚や、質問のばらばらの情報を組み立てるという作業と結果が理解・認識・説明でしょう。自分で思った通りしか、常人は理解、説明できない。この世の経験はそうなっているのでしょう。多面的な視点というお言葉は、実際には有益でしょう。でも多面的視点に本当になれますか?敵を、万物を、森羅万象を自分するまでに、愛するまでに、自分の視点をもてますか?其処までいかなくても、手法の一つとしての、多面的な視点はえてしてことばほど多面ではないことが、世界史(として)でみせている、人類の混乱の根因なのでしょう。≪この認識作業の延長線上に理解があるのでしょうか。十全たる理解は果てしない認識作業の結果なのだろうかとふと思った次第です。≫同じ次元では多面を重ねても同じでしょう。私の思う十全は、歴史や自己、そして社会のイメージでの編集をしない前の意識化から始まります。≪哲学的な問いに答えがないとするなら、満足や納得で探求することをやめることは哲学的な態度ではないようにおもいます。 なので”私は知っている”という知識人や雑学王には回答をご遠慮いただきました。≫申しわけありません。私は歴史、社会、民俗、いろんな宗教、生活、いろんな言語にとても何でも興味があって、フォルダーも数百、その中のfileは、数十万になりました。ただ哲学的思考や論理思考がとても厭なのです。ですから雑学だいすきでして、無資格なのにお話に参加してしまいました。これにて失礼します。
No1kaitara1ですが、続けさせてください。ある事象を観察することも理解することも究極的には個人が行なうものだとすると、あなたのおっしゃる側面というのはある個人がその人の視点から行なった観察観測考察の結論ということになると思います。次にその側面を寄せ集めるということですが素直に考えればこれは学会などでいろいろな人が同一のテーマについてそれぞれの意見を発表するようなことだろうと考えられます。問題はそこにあると思います。これらの意見をすべて聴いていた人がそのテーマになっている事象を理解したことになるかということです。ひとついえることはその人が自分なりの結論(自分独自の視点から出てきた)を持っていなければ話にならないということでしょうか。私には答えはないのですが感想のようなものを書かせていただきました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 観測するのは個人でも団体でも構わないと思います。 個人で手に負えないほど複雑な対象なら、より単純な対象にしてあらゆる角度から観察したとします。 その結果、その対象を理解したといえるのでしょうか。 という疑問でした。 お付き合いいただきありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.2です。≪それでは、その全てがそろったら理解したといえるでしょうか。≫もし異なるお考えがおありでしたら、ご教示下さい。もしご納得が、つまりそうだ!という、受け入れにならないなら、どの辺に欠点がありそうでしょうか?そしてこれらが≪その全てがそろったら、≫というのはどういうことでしょうか?これはたった一つの作業でしかない(つまり人間による認識という)のに、≪全部≫ということは意味のない話です。人間の十全ななる認識というものの側面をいっているに過ぎません。これ以上は実際にこういう認識作業をなさる精進をなさってください。しからざるものは、差別ことばを使用しますが、≪群盲、象をなでて、語る≫の寓話でしかありません。ですから私がご質問から受け取った、質問の趣旨は、そういう次元の認識についての性質を提題されたのだと解釈したのです。ですからそれでは認識に到らなかったという、ご返答にはお答えできます。しかし、残念ですが、≪それでは、その全てがそろったら理解したといえるでしょうか。≫には、そういう認識の努力か、経験をなさってからにしてくださいと、お答えします。どうかご免なさい。テストには合格できなかったようですな、私は。此れにて失礼。≪群盲、象をなでて、語る≫のおしゃべりをおわりましょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 さて、理解とは何でしょうか。 私たちは理解するための手法の一つとして、多面的な視点で物事を見ようとしますが、この認識作業の延長線上に理解があるのでしょうか。十全たる理解は果てしない認識作業の結果なのだろうかとふと思った次第です。 哲学的な問いに答えがないとするなら、満足や納得で探求することをやめることは哲学的な態度ではないようにおもいます。 なので”私は知っている”という知識人や雑学王には回答をご遠慮いただきました。 お付き合いいただきありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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その答えを知ってはいないのだが、常識で考えて、理解、ないし把握したことにはならない。まずそれの生起が、終末がそこに認識されていないでしょう。それが何に立脚して、何のために在るか、その拠っている根拠と目指す価値・理念がでてきていないでしょう。第二にそのものとなっての、そういうことの認識がなされていないでしょう。通常の説明は現況側面だけですが、それは実は説明ではない、という私の従来の所感の説明であります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 それでは、その全てがそろったら理解したといえるでしょうか。
富士山とはどういう山かという場合甲府から見るか御殿場から見るかでずいぶん見え方が変わります。又ヘリコプターから見れば又違って見えます。もっと複雑な対象の場合には事実上一人の人が全体を知ることはまず不可能ということではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 例えばより単純な対象であったらどうでしょうか。
お礼
答えを推察させていただくと永遠に理解することは出来ないということでしょうか。 ご回答ありがとうございました。