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日本史中世に資料が少ない事について

歴史民俗博物館などに行くと、よくある説明に、「中世は記録が途絶えて知れない」という記述によく当たります。古代近世は資料があるのにです。なぜ歴史的に新しい中世が古代よりも資料がないなどという、常識では捉えられないことがあるのでしょうか。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

古代 中世 近代 大きく歴史を三つに分けると、為政者の意識が変わります。 わかりやすく、近代を述べれば 「西欧列強に支配されないようにしなければならない。そのためには、日本はこういう国で、この定義に当てはまる部分が日本だ。」 と、積極的に定義していくスタンスにあります。 古代も、実は上記の西欧列強を中華帝国と代えると似た状況になります。中央集権によって外国からの進入を、軍事的・文化的に防ごうというのが、古代と近代。 ひるがえって、中世は、中央集権に対する家産分権とでもいうべき体制です。 古代では、「志摩の国からは、○○という調を徴収した、だから、丹波の国でも同様の租税を■■という調で徴収します」ということを明確にする必要がありました。中央集権ですから。志摩の国からのみ徴収したのでは、丹波の国が許しません。不公平だと。これを全国レベルで行っていたのですから、そのための文章、具体的には「木簡」などが、大量に作られました。それが根本資料として残ります。 中世の支配構造の基本は、「私的結合」です。鎌倉幕府の武士が「御家人」とか、執権の家来が「御内人」とか言われたことが象徴的であるように、将軍と武士、執権と武士が私的なレベルで結合しているのを、将軍なり執権が偉いので「御」と付けているだけです。基本は「家人」であり、「内人」です。 「今年の租税も去年通りね。」 と口頭で了解しあえればOKです。 「隣の、御家人の領地の納税は、比率が違うのですが!」 と、言っても 「隣は、先の右大将家、石橋山の戦いのみぎり・・・」 と、私的な結合の度合いで、租税や主従関係が全て変わるのが、私的結合の特徴です。バラバラが当たり前。 とすると、他と比較するための文章は必要でなくなります。 中世の資料で多く残っているのが、個別の土地の相続関係や、個別の合戦での書面であることも、中世が私的結合の総体であることを物語っています。

noname#41852
質問者

お礼

わかりました。やはり中世に資料が少ないという理由もあるものですね。私的結合の時代は、一時的に文書の慣例を衰えさせるという面白いものです。

その他の回答 (5)

回答No.6

一言で資料と言っても、その資料の質・内容が異なるのではないでしょうか? 確かに、文献資料に関しては、古いほど資料が少なくなります(厳密には史料かな)。一方、考古資料に関しては、中・近世に比べ古代の方が圧倒的に多くなります。といっても地域によって資料の多寡はあるのですが、概ね西国に比べ東国の方が遺物などの資料は多いのですが、歴史を塗り替えるような資料は当然都が中心となります。 考古の中近世資料の多寡の比較は、ちょっと難しいです。

noname#41852
質問者

お礼

素人考えですので、質問にかなりいい加減なところがありました。しかし考古資料の古代がおおいというもわからないところですね。

  • ringouri
  • ベストアンサー率37% (76/201)
回答No.5

そのような認識があるとは、初めて知りました。 どのような分野で、おっしゃるような説明がしてあるのですか? 後学のために具体的な分野を逆に教えて下さると有難いです。 一般的な史料としては、中世が古代よりも少ないなんて全く実感がありません。単純に古代は史料が少ないです。『寧楽遺文』『平安遺文』『鎌倉遺文』...と時代が近づくにつれて、収録しきれなくなるほど古文書の量が増えてきます。一般論、常識論からすれば、特に中世史料が古代よりも少ないということは有りそうも無いです。 特定の分野では、そういう事実がある可能性は理解できますが....

noname#41852
質問者

お礼

しつもんにかなり主観が混じっているので、あまり専門的ではありません。どうも民俗資料館などで中世があまりと得意でないところが多いようでした。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.4

 どんな資料のお話かにもよるのではないでしょうか。  国家や為政者が作ったような公式な資料は戦乱に巻き込まれて焼失したりしているケースが多いのだと思いますが、最近の地震などで土蔵が壊れて中をひっくりかえしてみたりすると、けっこう昔の、例えばその家の先祖の養蚕の歴史や、その家の年貢の帳簿など、国家一大事のことではないですが、地域の民俗・歴史的には十二分に価値ある資料が見つかったりします。「時々」というより、「しばしば」。  ようするに、資料的価値が分からない(誰も自分の家の、虫の食った手控えみたいなのが重要とは思わない)から、見つける努力をしないだけで、けっこうアチコチに残っていると思いますよ、私は。  中世の資料が、地震の時にけっこう捨てられているんですよ、ホント。雨などのあたらないよい置き場所がないんです。自分の住む家さえない状態ですから。で、ドンドン捨ててる。運がいいと売られるんですが、その時はどこのなになんだか分からない。

noname#41852
質問者

お礼

眠っているものもあるもんですね。まったくの素人考えなので、結構質問がいい加減であったのです。しかし、戦乱などはやはり要因ですか。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.2

京にあった記録は、応仁の乱で焼けてしまいました。 応仁の乱では放火によって敵を退陣させる手段がたびたび取られた上、大量に動員された足軽たちも、家などをまず燃やしてから金目の物をあさるのが日常だったのです。

noname#41852
質問者

お礼

応仁の乱というのはすごい騒乱なんですね。

回答No.1

権力闘争が盛んな時代でしたが、 負けた方は住んでいた館は焼かれ一族は根絶やしになるようなケースが珍しくありませんでした。 そのため、戦によって歴史書や家系図などの記録が失われたり、勝者によって都合よく捻じ曲げられたりもしました。

noname#41852
質問者

お礼

やはり、中世の特異性は戦国の世であったというものが多いようですね。

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