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考えるとは一体?

考えるとは一体何なのかと思い質問しました。 脳の中で起きている化学反応ですか? 一種の自分に対するマインドコントロールですか? 言葉の羅列を並べて自己満足しているだけですか? などと自問自答して考えましたが、結局わかりません。まあ、わかるはずもないし、意味もないですが・・・ 本来は生き残るため脳が発達したのかなと思います。 脳に関する本や専門家がはやっている今、不思議に思い考えてみました。考えるのは、人間だからかなともおもいますが、他の生き物も考えていないわけではないので・・・ こんなこと考えるだけ無駄ですが、誰か意見があったら教えてください。

みんなの回答

回答No.6

意見ですが(笑)、  五感の存在を考えただけでもですよ、考えることに意味無いなんてことはありえないですよ。 とくに、その五感を「見つめる」能力を宿した人間の脳を駆使するという事にはね。  考える意味を問い、その根元からしっかり確認しなおしてすっきりしたいという考えが たぶん現代人のおおくの人たちの心のくすぶりの中にあって、おそらくそのへんからmaychannさんの質問も出てきたのではないかとおもいますが、  そのへんは、たぶん、これもたぶんですが(わたしは肉体労働者で哲学書なんてあまり読んでないので)、たしかパスカルとかが「我 考える故に我あり」とかまるで五感無しにでも考えることができるような、あるいはそれと誤解させるようなことを言ってるわけですが、 そこから近代哲学が始まったんだとすれば、 ようはいまだに考えることの価値自体がわれわれ一般人に不明確なのは、その近代哲学の害悪の部分によるところが大きいのではという推論が私の脳内の化学物質反応として(笑)浮かんでしまうのですが。   そうそうパスカルは「人間は考える葦だ」といった人でしたっけ。デカルトと記憶という脳内で配線がこんがらがってるようですが、ま どちらにしても 意味としては似たようなものですね。  よく考えてみてください(笑)、 哲学って、本来 ときには深い経験の積み重ねとかによって、物事の価値やその将来の見通しを事実郡の裏がわに見通す知恵やその基本を扱う考える作用の学問でしょ。 むずかしい書きかたになってしまいましたが、わかりますでしょうか。  ともかくです。  それならですよ。 五感を 離れた哲学なんてどんな意味があるんでしょう。  ほんとによく考えてみてください。 考える脳の機能自体については、コンピューターにすれば今でさへ巨大なものになってしまいかつそれはなぞの部分を除いた計算でそうなってしまうものなのですから、その全部を知ろうと欲張っても考えるだけ無駄とかいうのはあると思いますけど、よく考えてみてください、 深くは 海の風や、潮の香りや、木々のそよぎや、そこからもれる太陽の光とか、あるいは川のせせらぎの音とか、純粋な素朴は子供たちの新鮮な心で五感いっぱいに感じられる世界とか、また それらとかかわりそれらの感覚をもっと深めたりより豊かにしてゆく本物の芸術家たちの感性の可能性を宿してるのが五感ですし、 そこまで考えなくても、おいしいものを食べるにしても、快適は車を選ぶにしても、安定した生活を求めるにしても、安全パイとはということを考えるにしても、時には起業にうって出るという時にも、そのときに損益分岐点とか失敗した時の最大リスクの算出面をしっかりさせておくとか、そのリスクの性格を分析しておくとか、あるいはその上でなら、考えるのなんか一時やめて突っ走れとか考えるもの、 ぼくには全部意味が感じられるんですが。 ただ、 いったい考える能力とは何なんだろうと考えるということ に的を絞っての質問であるとするなら、意見ではなくて、これはわたしなりの答えがあります。  目の機能を考えてみてください。 これも五感の一つですが、こうした 何か自分の神経とは別の物体に触れたことによる反応がともかくも巨大コンピューターよりもすごい化学反応とかでつたわりにつたわりつづけて、それで考えるという機能がともかくも生まれてるのですから、もとはすべて五感です。 あたりまえのことですけどね。  その目の機能なのですが、それは写真機のレンズとかと同じような機能を持ってることなら、現代人ならほとんどの人が知ってるわけですよね。 でも、見える というのは、レンズがそこにあってその裏に物体が焼きついたからって、それで見えるわけではないですよね。 こんなふうにあたりまえの事で追っていってみてください。  見えるという生物のまわりの物質(環境)への適応機能は、まわりの環境との相互作用であるというところまではわかるはずです。 さて、アリストテレスは「わからないということをあきらかにしてはじめてそれがわかる」とかいうふうな事をいってましたね。つまりつきつめれば、見える という事がその答えで、それはつきつめて「相互作用という事しかわからない」と認識して初めてその当たり前のことがわかるといえるということです。  まさに 哲学遊び的な言い方になってしまったのでしょうが、そんなにむずかしくはないでしょ。 むずかしくするために書いてるのではないのですから。  私たちは いつしか 知らないあいだに、 こう書いてる私も これを読んでるあなたも、気がついてみたらこの世にこの大地に生きてたわけです。 それはもし五感を離れて考えたら怖くなってしまうような世界です。考えるだけでね。 でも、大自然の中での どてっとねころんでのしばしの休息と時とか、人と人とのつながりの中にくつろげる空間や、子供の純粋の心を思い出した時とか、本物の芸術のすごさにふと心づいたときとか、そうしたときには、この存在は、背骨の歌になって踊りだすような うれしいものです。すごい すごいよ生きてるってと 背中が歌いだすようなものです。 物質が、最初から存在するというのは、ごく自然な脳の認識だと思います。でも、意味は、五感からそれも、宇宙の中でただひとつ人間の五感のなかからうまれます。 意味とか価値という意味とかがです。 神は創造主とかいいますが、 それは無から有を生み出すという考えならちょっと不自然です。 でも、意味と関わる知能として神はなんらか創造と関わってることは事実として推論するのが自然であたりまえです。 わからないことはわからないというとこまで考えることを整理すればね。  で神は それなら 物事をみつめ自他見つめ反省し進歩できる脳を宿した人間を いっさい助けたりはしない という事わかりますか?  人間の方から神を あるいは存在のありがたさを見つけていくのでなければ、考えに考えて、よりよい人間の世界を作っていくのでなければ、ほかには誰も助けてくれないというの 解りますか。  そういう良心に目覚めることってなんだかわかりますか。  わかりますか、 見えるってなんだか これでわかりますか。 それがなければ、その希望とか勇気とか生きる意思とか、生きて生き抜いてやるんだという強い感情とかなしに、見えるってなんだか解るとおもいますか  ということなんです。  たしかに それぬきには 考えるだけ無駄ですけどね。

回答No.5

たぶん質問を作るのも考えながらしたのではないでしょうか。 考えることは何かをどうにかしたいといった気持ちから 起きることでしょうか。 もちろん今よりは悪くしたいとは思わないでしょうから 今の状態よりもよくなることを見つけだしたいといった 気持ちから起きることだと思います。 でも考えたからといってよい解決策が見つかるわけではないでしょう。 考えて、やってみて、結果を見て、また考えてみる。 考えて無駄になるのは考えつづけることではないかと感じます。

noname#117439
noname#117439
回答No.4

脳内ホルモンの働きによるものなので、脳内の化学反応といえますが感情に基づいており、そこには確かな生きる意思なり魂なりが存在します。 当方は頭を真っ白にして何も考えない状態になる(煩悩をとめる)自由意志を持っていますが、そうすると神の意志に基づいた健全な思考が可能です。 この思考の原動力たる感情はアガペーにたとえられる真実の愛です。 人類の知性は自らのために備わったものではなく、世界を愛で満たすために備わったものです。 それでこそ霊長といえます。

  • nisekant
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回答No.3

参考までに 詩人ポール?ヴァレリーはその金言の一つで「心のしごとは将来を創造することだ」と言っている。様々なタイプの意識を扱った数多くの分布が、まさにイメージがいかに豊かかを扱っている。 『ダーウィンの危険な思想』の中で、デネットは意識の発達の四段階のモデル(ダーウィン的生物、スキナー的生物、ポッパー的生物、グレゴリー的生物)を提示している。その中の一番下のレベルはダーウィン的生物で、自然淘汰によって導かれるあらゆる組織、すなわち全ての生物体からなっている。これらのうち最も原始的な組織体は、生殖により自らを再生する可能性のほかには何の未来ももたない。 更に先の将来を見たいと願うものにとっては、もっと遠くの空間を見るのが賢明だ。ダーウィン的生物の多くは発達のこの段階に到達している。異なった知覚システム、例えば視覚や聴覚を持っている生物体は、離れたところのものを感知することができるため、危険から逃れたり、食物を見つけたり、伴侶を探し出すのにより高い可能性をもつことになる。つまり、彼等は未来に対して備えることができるので、進化の格闘場で決定的なポイントを上げるのである。 比較的「単純」な種の動物であっても感覚があると言われている。それらも生物体に信号を送る感覚器官を持ち、その信号は神経系によって処理され、行動に影響を及ぼす。恐らく肉体からの感覚もまた、動物界の発達の比較的初期の段階で、好都合にもある種の注意の能力と共に現れる。注意は、生物体が次になすべきことにとって、もっとも関連性高い情報に目が向くようにさせる道具と見ることができるだろう。生物体はまた動機付けによって何かをするのであるが、それはある欲求が満たされる必要があるからである。ふつう我々は自らの欲求に全く気づいていないが、欲求が我々の行動を導いているのである。 感覚が進化上なぜ大切なものであるかを説明するのは簡単だ。環境と関わりを持ちたい生物体はどれも、それを効率的にするために感覚に頼るからである。食物と食物でないものを区別できなくてはならないし、傷つけられたり食われたりしないようにせねばならないし、その生物体が有性生殖をするなら伴侶をみつけることもできなくてはいけない。ある動物種の鋭敏な感覚器官の発達が個の「適合性」、つまり生存と子孫繁栄の能力を高めるのに大いに貢献しているのである。以下においては、感や注意、動機付けが思考の核であるとの前提に立ち、そこからこのような「原意識」を徐々により複雑な意識システムへと発展させたものは何かを問うてみたいと思う。 原意識を秘め持っている生物体は、必ずしも学習能力をもっているわけではない。これは必ずしもダーウィン的レベルの生物体が複雑なパターンの行動をとれないということではない。それは遺伝的にプログラムされているのである。卵を産むよう「プログラム」されているアナバチ属のメス蜂はまず砂地に穴を掘り、大きな白い蝶の幼虫を探しに出かけ、捕まえたら針で刺して麻痺させて穴に持ち帰り、万事用意万端であることを認識すると、幼虫を引きずり込んでそれに卵を産み、最後に砂で穴を覆い隠す。 このように「前もってプログラムされている」行為の連鎖は、向性と呼ばれる。メス蜂は行動パターンを改変することも、異なったふうに学習し直すこともできない。例えば、メス蜂が穴の中にいて確認作業をしている間に幼虫を数センチ移動すると、一番最初にすることは幼虫を穴の中に引きずり戻し、もう一度、万事用意万端であるように確認するのである。もう一度幼虫を動かすと、同じ作業が繰り返される。つまり、アナバチのメスには「計画性のある」行為がないのである。 もう一つの複雑な例は白蟻の蟻塚の作り方だ。白蟻の蟻塚は多くの丸天井部屋や通路のある複雑な建築物である。にも関わらず、その設計図を描く建築家もいなければ担当の現場監督も存在しないのだ。白蟻は自分達がしていることの設計図はもっていない。彼等はただそこらに始めから転がっている泥の塊を転がしてくるだけなのだ。泥や粘土の玉には白蟻達にとってたまらない香りがあるのである。白蟻はその玉を香りが最も強い場所に置くことを好む。導くのはこれだけである。 もっと高等動物でも日常の行動で向性を示す場合がある。犬は寝床で横になる前にクルクルとしばらく回る。例え踏みつけなくてはならないような草がなくてもである。捕われているハタオリドリは、巣作りの材料がなくとも小枝で巣を組み立てる行動パターンを全て一通り示すことがある。あたかも小枝の「幻覚」を見ているかのように振る舞うのである。 行動パターンが前もってプログラムされていると融通がきかない。行動を修正するのに経験や環境変化を利用したりできる生物体は自然淘汰の過程で有利である。 意識に含まれるもののリストの中で次にくるものは「感情」である。生存競争で感情はどのように大切なのだろう。一つの合理的な答えは、変化する環境の中では変化する感覚だけでは不十分だろう。勝者となる生物体は周囲で何が起こっているかを素早く効率的に評価できなくてはいけないのである。捕食者が近づいてきた時、それが危険であることを確認し、逃亡すべく生理学的に備えるように身体に命じることができなくてはならない。或いは、生物体の領域が危険にさらされそうになった時には、一般的に有利な戦略は威嚇行動をとることである。我々が経験する様々な感情が、異なったタイプの行動に身体を備えさせるような、多くの生理学的な反応と結びつくことは何ら偶然ではない。例えば、突然あなたが運転中に危険な交通状況に出会ったら、体内アドレナリンの急激な増加がハッキリと観察できるのである。 生理学的な欲求は単純な生物体の行動を導く。しかし、その欲求メカニズムは比較的ゆっくりしたプロセスのものである。感情が素早く周囲の様々な様相を評価し、更にその欲求がどれくらい緊急のものかを評価することでそうしたプロセスを補っているのである。空腹の感覚は、動物が敵対的な状況に直面した時に感じる恐怖によって打消されることがあり、このようにして適応能力は高められるのである。幾らか抽象的な話だが、感情は行動上の戦略のパラメーターとも言える

noname#194289
noname#194289
回答No.2

よく見ている自分と見られる自分といいますが考えるのは見ているほうの自分です。この見ている自分というのは思考を行なっている本体ですが、見られるほうの自分と違って思考の対象になりません。あなたが不思議がるのは当然だと思います。思考を行なっている本体が、その本体自身だけは考える対象にできないというのはいかにも不思議です。少なくとも思考の中に思考の本体が含まれていることは言えるとは思いますが・・・ほかの生物は考える事があっても自分が考えているということを知ることは(でき)ないと思います。

  • tetsumyi
  • ベストアンサー率25% (1946/7535)
回答No.1

赤ちゃんは考えません。 起きていることを受け入れて覚えます。 これが脳内で経路を作って記憶となるようです。 経験が多くなると今まで覚えたことと関連させて同じ事が見つかれば考えてわかったつもりになります。 いいかげんなことを覚えてきた人はとんでもないことを正しいこととしてしまいます。 それが、事件や事故を起こしたり国民をとんでもない方向に導いているようです。 酒を飲んでも自分は酔わないし事故を起こさないとか 金をどんどん使わせるようにすれば景気が良くなるなど。

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