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杜甫の詩の意味を教えて
杜甫の詩「秋興 八首 其の三」に【千家山郭静朝暉一日江棲坐翠微】 の句があります。【千戸ほどの山懐のこの町にも朝の光がさし、私は一日中江の畔の楼閣に翠の山の気の中に座っている】の意味ですが、原文の’一日’のところが’百處’になっているものがあります。’百處’ となっているのはどのように訳せばいいのでしょうか。 漢詩にお詳しい方教えてください。よろしくお願いします。
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- ringouri
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「百處」とすれば、No.1さんのおっしゃる通り、百處江楼を主語として、坐を動詞と解釈するより他にはないと思います。 「一日」「日日」とすると、後半部分の主語は作者(私)となり、「百處」とすると、主語が江楼になるのですから、解釈上大きな差があると言えませんか? 「百箇所の江楼は多過ぎる」という通説は当たらないと思います。 対句の関係から考えれば、「千家」←→「百處」、「山郭」←→「江楼」、「静」←→「坐」(動詞)、「朝暉」←→「翠微」、の言葉の対応と構成の対応に注目すべきでしょう。 前と後で主語を変えて解釈するよりも、句の流れの中で、どちらも情景描写とする方が自然で杜甫らしいと感じるのですが、いかがでしょうか? 個人的には「百處」の方がオリジナルで、「一日」「日日」の文字は後代改定あるいは誤写ではないかと思います。
- Big-Baby
- ベストアンサー率58% (277/475)
漢詩にはまったく詳しくないですが。「棲」は「楼」の間違いですよね。 「一日」もしくは「日日」と読む人が多いようですね。「日日」であれば「毎日」の意、さて、「百處」であれば、「百處の江楼翠微に座す」と訓読するのでしょうが、この場合の「座す」の主語は「百處の江楼」になるのではないでしょうか? それで、「百箇所もある江の畔の楼閣は翠の山の気の中に座っている」ということになるのでしょうか。でも、「百箇所」というのはいくらなんでも多すぎますよね。それで、普通は「一日」か「日日」の読みを採用しているのだと思います。手元の唐詩選では「日日」となっています。
お礼
ご指摘のとおり「棲」は「楼」の間違いです。 大変参考になりました。たしかにおっしゃるとおりのような気がします。ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。私も対句として’千家’と百處’の方が自然かなと思っておりました。構成の対応まで解説して頂いて参考になりました。