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不幸不遇が好影響を及ぼすことはありますか?
やりがいのある仕事とか、充実した学校生活、円満な家庭などに恵まれてその中で充足して、たいへんかもしれないけども幸せに暮らしている状態は、多分いろいろと気付かないところにも好影響を及ぼしているのではないでしょうか。逆に、遣り甲斐がなく不本意な仕事、不満ばかりの学校生活、不穏でいたたまれない家庭など、どう考えてもプラスになっていないことは、やはり悪影響しか与えていないでしょうか?普通に考えても「ストレス性~~」とか「うつ」とか「人間性の崩壊」とか「無為な人生」とかそんなものにしかつながっていないように思えます。これが間違っても「すごく不遇でやるせない情けない恥な不満な憤る」ような生活が、なにか「充実し納得し遣り甲斐があり人間関係も明るい」生活にないプラスを与えることがあるでしょうか? あるなら実に面白い事態だと思います。 ないなら、世の中どうしようもない気がします。
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質問者が選んだベストアンサー
不幸とか不遇とか、哲学というカテゴリで議論されるには、失礼ですが 余りににも、その言葉に対する認識が甘いのではと感じました。 私が頭に描いている不幸と、皆さんの不幸が違うものだからかもしれませんが。 他の質問では障害を持った人間を不幸という人もいましたが、私の兄も障害者ですが、兄が不幸だと思ったことはありません。 兄を取り巻く状況が不幸だと感じたことはあります。 もし、兄を不幸だと言う人がいれば、私はその人を不幸な人だと思うでしょう。 韓国で起きた事件で、母親の前で遊んでいた娘が、一瞬目を離したすきに事故死し、その後母親が夫から責められ、苦悩から麻薬に手を出して、薬中になり、麻薬を買う金欲しさに、夫や親兄弟を次々保険金をかけて殺していくというニュースを見ました。 私の知人は、背が低く頭がとても大きくて生涯独身でしたが、中年にさしかかった時、顔や体中に大きなイボがたくさん出来て、街を歩くと皆 体を反らして避けます、初老にさしかかった時、癌と診断され、勤めていたガソリンスタンドでガソリンを被って焼身自殺しました。 私はこれらの事件、事実を知って、不幸だと思いました。 お釈迦様が生きていていた頃のインドでは、貧困や様々な難病に苦しみ神に見放されたかのごとくの人々が大勢いたのでしょう。 お釈迦様は人々を苦から開放したかったのかもしれませんが、私はそれは成功したとは思えません。 結局、お釈迦様が救えたのは、お釈迦様と同じような特権階級のインテリ層の憂鬱くらいなものでしょう。 気持ちの持ちようで幸にも不幸にもなれるような不幸は不幸ではないのです。
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>あるなら実に面白い事態 >ないなら、世の中どうしようもない 変わった日本語ですね。 まず初めに確かめておくと、 渦の観測は、一定の観測点から観測しないとなりません。
お礼
これもあまりに難しいので、解説していただけないでしょうか。
- agrippa
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面白い事態ねぇ。。。 こういう文章を読んだら 魂がバラバラであるというような概念は存在しない。 なんて言わないよね。
お礼
回答が難しすぎるので噛み砕いてもらえませんか?
本当に苦労した人間だけが、本当にやさしい人間になれる。 苦しみを味あわない人間は、人の苦しみが分からない。 苦労することによって人間は成長する。
お礼
ですよね。 同様に教えてgooで質問しない人は、質問者の気持ちがわからない。回答しない人は回答者の気持ちがわからない。そんなことも言えるんでしょうね。
- 1katyan
- ベストアンサー率18% (147/800)
さあ何を見て不幸と言えるのかな? ホームレスの人を見れば経済的に苦しんでいるけどいきいきしてますよ 人生心の持ち方で変わってきます
お礼
ホームレスの人ほど、欝欝状態を体現している人はいないです。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>「すごく不遇でやるせない情けない恥な不満な憤る」ような生活が、なにか「充実し納得し遣り甲斐があり人間関係も明るい」生活にないプラスを与えることがあるでしょうか? 「人生塞翁が馬」なんて諺がありますね。 「哲学者になりたければ悪妻を持て」なんて言葉を耳にしたことがあります。 ソクラテスの妻 クサンティッペ。 実物はどのような人だったかはいまさらわかりませんが、、一応 悪妻といえばクサンティッペが出てくる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%9A リンカーン。 「人民の人民による人民のための政治」と高らかに言った。 実は彼の妻も悪妻。 家では妻によるDVの被害者だったそうです。 そういうことを知ると、「人民の人民による人民のための政治」という叫びがどこから出てきたのか、わかるような気になります。 不遇に負けるのは普通の人で、普通は不遇に負ける。 あたりまえのことです。 だけど、中には不遇だったからこそ、何かを生み出す人もいたりするわけです。 ただ、ほとんどの人は、不遇にへし折れ、沈没しやすい体質だと思います。 まっとうな人間なら ヘコんであたりまえ。 ところで 不遇かどうかって誰が決めるんでしょう? 世界がどうかは誰が決めるのでしょう? 例えば、今まで仲がよかった友人が急によそよそしくなり、理由を言ってくれないばかりか、まわりの友人までもが、よそよそしくなり、ヒソヒソと自分の陰口をたたくようになった。 これは辛い。 だんだん 学校に行くのが辛くなりますよね。 そればかりか 道行く知らない人まで、すれ違いざまに、悪口を言うようになったら、もう世の中怖くてしょうがないですよね。 どうしてこんな変な世の中なのでしょう。 そして逃げるように駅に駆け込むと、アナウンスが流れた。 「俺が駅に入ったことをみんなに知らせるためのアナウンスだ。」 もう 大変 町中がおかしい。 怖い 怖い そして部屋に引きこもる。 親に言っても気のせいだといってとりあってくれない。 これは自分から見た世界です。 他の人たちはAさんは最近無口になり元気が無いと思っている。 声をかけてもおびえた顔つきだし、なんか近寄りがたい雰囲気になってきている。 そしてとうとう 授業中に「みんな 俺の悪口言わないでくれよ!」と立ち上がって絶叫までしてしまった。 二つの世界が存在している。 自分から見える世界と、自分の知らないもう一つの世界。 こういう現象が起こったら、統合失調症の疑いがある。 最初の頃 沈んでいたのも、統合失調症の初期症状の鬱だった可能性がある。 ここで異変に親が気付けばよかった。 そこで「変な人」と周りが流すか、周りがもしやと気付いて病院を受診させるかで、その人の未来が変わってくる。 早ければ早いほど治る可能性が高くなる。 という風に、流さず原因を知ろうとする奇特な人もいるわけで、いくら不遇だといっても、世の中捨てたもんじゃない。 二つの世界、自分からみえる世界 と 自分の知らない世界 が統合されれば、同じ世界の住民になれ、価値観も一緒になるか。 いや 永遠に統合されることは無い。 ここに悲劇の根源がある。 だって全く同じ人は二人といないのだから。 が、コインの裏と表で、世界は一つなのに、本人がどっちの面を見るかで世界が決まってしまう。(他の世界は見えないから) 気の持ちようと簡単に言いますが、それができないから苦しむ。 が、苦しむから創造が起こる。 でもまあ 不遇だと思った人が世の中を変えていってくるので、不遇も存在価値があるとは思います。 ただ、「世の中の不遇を全部俺がしょっているので、俺が不幸であればあるほど、他の人は幸せになれる よかった よかった」なんて楽観的になれる奇特な人は稀だと思います。 というわけで、自分の限界を知り、どうしようもない時は、、、、 どうしたらいいんでしょうね。 泣く? あきれかえって不遇を冷笑する? 怒る? 我慢する? 私の場合は「上等じゃねーかーー このク○ッタレーー」って叫ぶ。 すっきりしますよぉぉ。
お礼
大変バラエティーにとんだお答えです。いろいろ多面的に考えたほうがいいですね。不幸にも拾うべき面はあるのでしょう。しかしそれは逆境をも順境に変えてしまう天才にしか生かされないとしたら。。統合失調症のことは知っています。難しいものですね。どうして被害妄想になるのか不思議です。新たに質問したいものです。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
不幸不遇が好影響を及ぼすことはありますか? 良き回答がでてますが、コメントまで 好影響を及ぼすことはありますか? に対しては「はい」なんですね。周りにはちょっと悪影響かも知れませんけど自分自身には好影響をもたらすのです。 逆に言えば正しい自分自身を取り戻すために一人残らず逆境が現れるようになっているんです。これは法則ですから疑わないように。認識できるようなひどい状態にある場合は生き様を修正しなさいという宿題がきたところなんですね。誰も成功し続けることもなければ失敗し続けることもないのも法則です。7転び8起きぐらい長いこともありますがね。 「幸せに暮らしている状態」が続くと鍛えられないという別の見方をする御仁もあるということですね。
お礼
大変勇気の出るお答えですね。そういうことを信じて気を強く持って生きたいものです。
- simirin
- ベストアンサー率23% (12/52)
ありますね。 ピンチはチャンス!といういいぐさや、聖書の言葉にも「試練は忍耐を生み、忍耐は優れた品性を生み出す」という言葉があります。 世間一般的なものさしで見ると不幸不遇な環境であっても、その中で悩み忍耐し思考することにより、人間としての深みや幅がでてくるのでしょう。人に共感する心やより深い思いやりも、そこから生まれてくると思います。 転んでも何か得るものがある、人生無駄なものは何もないというのが、今まで生きてきて実体験を通してたどり着いた結論です。
お礼
転んでもただではおきないという姿勢は大事段ですよね。勇気の出るお答えです。
禅の言葉でしょうが「一得一失」というのがあります。これは幸とか不幸とか言っても実は同じことなのだという意味でしょう。それと「人間万事塞翁が馬」がありますね。昔から多くの人があなたと同じ感慨を持って生きていたのではないでしょうか。j
お礼
塞翁が馬は昔から言われることで、ありえそうです。それを信じたいものです。
お礼
お兄さんの障害を不幸だという感想を持つ人は、その人自身が不幸を実感しているからそれがわかるということなんでしょうか?ここのところがちょっと難しかったです。後のお話は、「不幸」などと上っ面で議論すべきことではないということ、まったく同感ですね。深刻はお話ありがとうございます。