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幸せの条件とは
月並みですが「幸せ」という言葉からかもし出してくる心理状態でもって生活できる条件というのはどういうものなのでしょう?「充実感」とか「生きる張り」と言い換えてもいいと思います。 自分なりに考えますのは2つの大きな柱があるように思えます。健康は大前提として。 まず、家庭的配偶者的に感じられる幸せ感。この人のために苦労も進んで忍んでしようという感情でしょうか。 そして、やりがいのある仕事社会生活を送ること。 言って見れば、外でも家でも充実感があれば条件はほぼ満たされているといってもいいのではないでしょうか。またどちらか一方でも満たされれば、一応幸せの範疇に入る事ができると見ていいのではないでしょうか。 逆に言うとこの両者がない場合は、幸せの条件を絶たれているといっていいのでしょうか。
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私個人の考えですが、一番「そうじゃないかなぁ」と思えるたのは、質問者のbossambaさんの意見でした。 批判するつもりは無いのですが、Syo-yaさんの意見のなかには、自分自身の理想像的な将来を夢見て、日々頑張っている人の充実感が抜け落ちているような気がしているのです。 たとえば、「ホリエもん」みたいな人は、仕事にある種の充実感を覚えているでしょうが、だからといって「世のため、人のため」という崇高な観念に沿ったものではない気がするのです。結局、自分の会社がちょっとずつ大きくなることを俯瞰するたびに、彼は幸せを感じているのではないでしょうか。 横やりを入れてすいません。 実は、私自身、「幸せ」というのは「不満足な状態から満足な状態への好転」から派生する感情だろうと思っています。 ホリエモンの幸せも、会社で認められる幸せも、家族や人への愛情を注ぐことの幸せも、このキーワードがポイントになっていると考えています。 たとえば、勉強をして成績が上がる。運動を繰り返してタイムを縮められる。残業をして給料が上がる。ホリエモンのように将来の理想的な自分を愛でることによって幸せを得ている場合、それは逆を返せば、現在の自分は不満足な状態であり、努力によって少しずつ、満足な状態に好転しているため、大いに幸せなのです。 また、配偶者間や親子間で芽生える幸せは、ときとして日常生活の「あたりまえ」として埋没してしまいがちです。 それは、一般の家族生活は長期に渡り「ある程度満足」な状態に置かれるため、「好転」する余地が生まれないためです。そのため、将来の理想像を愛でるほどの快感にはなりえません。 それでも、いい配偶者や親子関係を結ぶことは、過去の「もっとも満足」していた状態(つまり赤ん坊のころの状態です。何をしなくても、母親から愛情をかけてもらえ、食事と安全を与えてもらっている、人生のなかで最上の満足の状態)に一歩近づくことが出来ます。逆に言うと、「現在」は赤ん坊のころよりも「不満足」な状態であり、まだ「好転」する余地があるのです。そのため子供を生んだり、愛する人と暮らしたり、自分にも昔あった「最上の幸せ」を彷彿とさせる出来事を再現しようとします。 これは精神的に「過去のような幸せな状態への好転」を求めているためだろうと思うのです。 また、Syo-yaさんの言ったとおり「私心なき献身」から感ずる幸せも当てはまると思っています。明らかに不幸せな人を見ると、人は無意識のうちに相手と自分とを同一視してしまい、一時的精神的にですが「不満足な状態」になります。(一時的でなければ聖人君子なのでしょうが)そこから「好転」するのは、短絡的に不幸せな人を救ってあげることに他なりません。結局、相手を救うことによって、自分を救っているのだろうと思います。 結局、こまごま言いたいことを言いましたが、質問者のbossambaさんの意見に賛成です。 現実の幸せは、「過去へむけての好転」である家族関係。そして「未来にむけての好転」である仕事社会生活。 この二つしかありえないのですから。
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- Reiher
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外的要因による心理状態の変化、という事であればなおさらその人の内面が問題になるでしょう。 人は起こった事柄をそのまま受け取る事は出来ません。必ずあるフィルターを通します。つまりは「理解する」という事です。 例えば私は数年前火事に遭いました。全焼だったのですが、犠牲者は出ていません。火元はうちではありませんでした。 私はこの件を特に不幸だとは思いませんが、似た例を持つ知り合いの知り合いはノイローゼに陥ったそうです。 私は「生きていて」「明日があれば」それでもう幸せです。後は抗う事の出来るものです。死んでしまうとなれば後の事に思い悩む必要もないのでそれはそれで幸せなのではないかとも思っています。 こうなればもっと幸せ、というのはありますね。幸福感は絶対値でなく変化量が重要ですから。 給料日とその前ではやはり違いはありますよ。 ですがフィルターが充分に鍛えられていれば外的要因は大したものではなくなると思いますよ。このフィルターをなんと呼ぶのかは分かりませんが。
お礼
同じ目にあっても人によって捕らえ方が違う、それはフィルターのせいがおおきな要因なのでしょう。挙げていただいた例は大変見識にとんだものだと思いました。大変だったでしょうね。
- aburakuni
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それこそ人間の永遠のテーマなので、「麻薬(宗教)による幸福感とは」「物的・心的どちらが重要か」から最近では「バーチャルリアリティと現実」まで様々な意見や学説があります。 有名なものではマズローの段階と言うのがあって、生物的充足から自己実現まで、満足(幸福)を感じる5段階という分け方があり、家庭・仕事の充実感というのは、高位であるがその先に「自己実現による充実」があるとされています。 質問が最後の部分とすると答えはNOで、反例としては仏陀が家庭も仕事(?)も捨てて解脱を得た事があげられるでしょう。 もっとも「絶たれる」訳ではないのであって、逆に両者が無くても幸せを得る事はでき、両者を持っている場合は勿論「幸せだ」と思う事が出来るはずという事ですが・・・。
お礼
両者を持たなくても、崇高な非常にまれなことのできる精神構造の持ち主ならありえますね。
>外でも家でも充実感があれば条件はほぼ満たされているといってもいいのではないでしょうか 外でも家でもユーモアを忘れない。微笑みや笑うことが幸せの条件ですね。その点では遊びの達人、子供達は誇り高く笑える。幸せの天才ですね。 逆に言えば不幸になるのも簡単です。人のせいにして誇りや潔さを失したり、ユーモアを失くせば誰でも即不幸になれます。 喜びは悲しみよりも深い。その証拠に、幸せの後で不幸が起こると、その幸せがより一層、現実を絶望的に感じさせます。 しかし、今幸せだと過去の不幸などいいネタ話程度となります。
お礼
幸せが自立的なものであるとのお考え、目が覚めるような思いです。 幸せのほうが不幸より大きな存在なのですね。私自身前者も後者も経験ないので実感はわかないのですが、「今の幸せ」=絶対!過去は何するものぞという感覚、おそらく心理でしょう。それほど今の幸せは重いものなのでしょう。 ここでまとめて言わせていただいて申し訳ないですが、投稿していただいた皆様の洞察力に感じ入りました。おしえてgooってちょっと凄いです。
- Syo-ya
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この世のあらゆることには、その反対の性質、二律背反が存在すると想いますので、幸福感にも二種類あると想います。 たとえば、甘いお菓子を食べて得られる幸福感。 これは、幸福感を与えられている状態です。 お菓子の奴隷。味の奴隷。なされるがままの状態です。 外部刺激に身を晒して得られる幸福感です。 テレビなんかも、この範疇に入ると想います。 こういう至福の時というのは、喜怒哀楽の感情のように一過性のものです。 客体・受動的・奴隷的幸福感とでもいいましょうか。。。。 この反対が、甘いお菓子を人に食べさせて得られる幸福感です。 「これ、おいしいね!」と言われたときに得られる幸福感です。 「よし、次は、もっと、おいしいものを作ってやろう!」とか「改良点はないかな?」と考える自律した支配者的な状態です。 こういう状態の幸福感であれば、その喜びも一過性ではなく、永続性のある「信念」「志」になると想いますので、本当にそれが職業になってしまったりもすると想います。 子供のころにサッカーが上手な人がサッカー選手を志すようにです。 主体的・能動的・支配者的な幸福感です。 >>「充実感」とか「生きる張り」と言い換えてもいいと思います この状態を獲得できるのは後者です。 やっぱり共通点は、お菓子にしても運動にしても誰かに感動与えるとか、刺激を与える、感銘を与える、・・・・自分の仕事・存在が認められるところにあると想います。 つまり「愛」を受けた場合、人はそれに応えようとするんです。 なんとかそれに報いようとするんです。 そうすると「世のため、人のために頑張ってみよう」という気持ちになるので、充実感、活きる張り合いが生まれるのだと想います。 でも、なかなか自分の仕事にしても存在にしても認められないのが現状です。 周囲の人からの「愛」を受けられないので、それに応えようとする気持ちも衰弱してしまうんです。 だったら、自分から「愛」を与えれば良いんです。 「汝の欲するところを与えよ」です。 「xxさん、いつも頑張ってますね!」といえば、相手だって嬉しいですから、それに応えてくれるんです。 与えれば、自分に返ってくるんです。 そうすれば、それがやりがいになり、張り合いになり、支配的な精神状態になり、充実感が得られるようになって自律した本物の幸福感が得られるんです。 こんな風に、みんなが認め合って、受け入れあっていけば、社会全体が前向きに好転していくんだと想います。 ・・・ここまでは質問者さまの幸福の条件と一致している発想だと想います。 ところが、社会全体が好転しないのが現実です。 足の引っ張り合い、罵りあいばかりしているんです。 たとえば、お笑いでも、昔は背が低い、顔が悪いと、身体的な欠陥を笑ったりしていました。 その代表格が吉本興業ですね(いまでもやっているんでしょうか?) こういう刺激でお客の中に眠っている奴隷的な幸福感に刺激を与えて興奮させて、笑わせるという手法をとってきたんです。 こうやって奴隷的な幸福感になれてしまった人たちは、自律した発想を持ちませんから、芸人を真似て、人の身体的欠陥をバカにしたり、ネタにしていじってみたりする、いやらしい心の持ち主になってしまうんです。 そうして、こういう奴隷的な幸福感を求める人が増えれば、社会全体が、憎みあうようになって、悪転するようになってしまうんです。 ここには「世のため、人のため」という発想はありません。 自分さえよければいい。 人が傷つこうが、なにしようが知ったことじゃない・・・という心しか存在しません。 こういう状態が幸福の条件が絶たれている状態だと想います。 つまり、「慈悲喜捨」「世のため、人のため」「私心なき献身」・・といった精神状態になることこそが、幸福感の条件だと想います。 ちなみに吉本興業も反省してか、数年前に、人の欠陥を笑うのではなく、お互いに認め合う、褒めあうという笑いの形態を試したそうですが、その効果やいかに・・・・。
お礼
与えた愛が帰ってきて結局はやりがいにつながっていく、そういう図式で行動できれば理想なのですが、なかなか思うように体が運んでくれないですね。 現状の悲観的な皮相的なまたは悲愴的な社会が、人の幸福感を貶めていくというのはなんと残念で空恐ろしいことだと思います。私も被害者妄想的あるいは実際に奴隷的評価を受けていることを心が感じて卑屈になって、幸福にはこれこれの条件が必要なのではないかなどというけち臭い考えにとらわれていったのかもしれないです。自分の城=配偶者が!なんてまさにその傾向ですが。
- Czerny
- ベストアンサー率34% (93/271)
私は、幸せの柱は唯一だと考えています。 それは心です。 その人の「心が満足している状態=幸せ」だと思います。 人それぞれ、価値観や感じ方、考え方・・・等、千差万別ですよね。 ただし、心が満たされていれば、誰もが幸せだと感じるのではないでしょうか? あなたが仰る「家庭的配偶者に感じられる幸せ感」は、各人の価値観で変わるものだと思います。独身生活のほうが気楽でいいと仰る人も居ますので。 後者の「やりがいのある仕事社会生活を送ること」は、万人に共通した幸せであると思います。なぜなら、「やりがいがある」とか「充実感がある」いう言葉は、心が満たされているからこそ口に出るものだからです。 私は、些細なことにも喜べる心を持ち続けることが、「幸せな人生を送る絶対条件」だと考えています。
お礼
家庭的な幸せ感を個人差によるもの、社会的なやりがい的幸せ感を共通のものとする考えかたには新鮮さを覚えました。つまり、より社会的活動のほうが基本になっているという見方ですね。私は人恋しいたちなので両方とも同レヴェルで見てしまうのです。 些細なことに幸せを感じることができることは、すばらしい資質だと思います。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
#2さんのご指摘の通り本当の幸せは内的なものなんですね。つまり、外的な要因が幸福の絶対条件にはならないんです。これは、2500前に釈尊が、生老病死からは誰も逃げることが出来ないので外的な幸せは、夢幻でしかないと言い切ったことですね。人間は誰しも老いていくのでいつまでもやりたい仕事が出来るわけでもないし、子供も独立していくのでいつまでも楽しい家族でもいられませんね。つれあいだって先立っていきますね。必ず一人になるときがくるわけですね。このことは、いつの時代でも変わらないことですね。だから、いつでも、どんな環境におかれても今を有意義に幸せにすごして過去にとらわれ無いことが大切なことですね。これは心の問題なんですね。外的環境の問題では無いということですね。
お礼
今ある外的条件による「夢幻」的な幸せとしても、その「夢幻」がどう外的条件によって変化するかなんですね。俗な幸せ感かも知れませんが。
- Reiher
- ベストアンサー率26% (102/385)
必要なのは外的要因ではなく、精神状態ではないでしょうか。
お礼
外的要因によって精神状態がどう変化するかなんです。
- 9ma
- ベストアンサー率24% (193/800)
幸せの条件とは、自らの力ではコントロールできないのに、自らの感じ方で決定するものではないでしょうか。
お礼
その「感じ方」がどういうときに「幸せ」と感知するかなんです。
お礼
未来と過去に向けての幸せを、私が提示していたとは思ってもいませんでした。そういう考え方もあるのですね。私自身は現在この一瞬で両方ともくくれる幸せの気がしたのですが、時間軸的な心理表を書くとすれば、未来への過去へのという傾向はあるのかもしれません。まだあまりピンとは来ませんけど。 結局世の中、個人の「幸福の追求」の寄せ集めとみるべきなのかもしれません。そして「道徳」の真髄が浸透してませんよね。「情け」は結局自分に返ってくる利己的なものという、からくりみたいなものが、世の精神的姿勢として一般的になればまた違うのかもしれません。