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江戸時代
時代劇を観ていて思ったんですが、 (1)三つ葉葵の紋所は将軍家、御三家の他に何処が使っていたんでしょうか? (2)御三卿はどのような地位で、何処に住んでいたんでしょうか? (3)水戸黄門の印籠の紋所は水戸家本来のものなんでしょうか? (4)隠居しても官位は変わらないんでしょうか? (5)権官の場合名乗る時、権は付けないんでしょうか、また、何故武家の官位は権官ばかりなんでしょうか? たくさん質問して申し訳ありません。
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(1)基本的に御家門(親藩・連枝)や松平姓をゆるされている家には用いる資格があるのですが、ちいさなところは遠慮して別の紋を使うことが多かったようです。また御三家ではかたちはいっしょで葉脈の数が違う紋をつかったそうです。江戸時代、将軍家と関係のない家が葵の紋所を用いることは厳重に禁じられていました。意匠や模様としてでさえ関係のない人が使うことがありません。なお、家紋とは別に幕臣や大名ですとご褒美の一種として葵紋の紋服が下されることがあります。着用しても問題はないのですが、たいがいは恐れ入って秘蔵していたとか。 (2)御三卿は将軍家の連枝で十万石格(十万石はもらえるけれど領地を持っているのではなくて、幕府の収入のなかから渡してもらえる)、住居は江戸城の域内にあります。家族扱いです。したがって子飼いの家臣というものもなく、大半が幕府の役人の出向のようなものです。ちなみに当主がいなくなっても(死亡、もしくは将軍家に養子に入る)家がとりつぶされることはありません。しばらくほうっておいて(家臣はもとの職に戻る)手ごろな養子を迎え入れ、再興します。幕末の一橋慶喜などがその例です。領地を持たないのでもちろん大名ではありません。華族制度の内規でも、公家、将軍家、御三家、諸大名、琉球王家、維新の功臣のほかに「御三卿」という一項が別に立っています。官位は従三位、八省の卿をもらうのが通例だったようで、「御三卿」というのはここに理由があるのかもしれません。幕府内での仕事は特にありません。司馬遼太郎が「生きて子供をつくるのが仕事」と言っております。 (3)水戸家も家康の息子の家系なのですから、本来将軍家と同じ紋を使う資格を持ちます。しかし水戸家の遠慮で多少の違いを持たせているわけですので、もし本当に水戸黄門の印籠があったとすれば多少違っているのかもしれません(ただし同じであってもだれも文句は言えないのが実際)。あとは実際に葉脈を勘定してみるしかありませんね……。 (4)隠居すると基本的に朝廷の官職は返上します。位階は残ることもあるようです。しかし、朝廷の官位は「かつてこうであった」(前権中納言)というのでも充分に権威を持つものですので、あまり不都合なことはありません。 (5)名乗るといってもいろいろな場合があるわけですが、公文書などにはきちんと権をつけます。権官は鎌倉時代ごろから出たふうで、朝廷の官位をないがしろにしないためという権威主義から本官を用意に与えず、権官を出したもので、武家だけでなく公家の世界でも同様です。藤原定家も権中納言です。そういうわけですので権官といっても鎌倉期以降は実質的に本官と何のちがいもありません(ただ位階との照応が本官と権官ではややちがう場合がある)。武家が公家の制外ということもありません。江戸幕府の風習というよりは、鎌倉期以降の朝廷の風習です。
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- junt
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三つ葉葵ですが、全部家ごとに違っていたようです。水戸は水戸三つ葵、紀州は紀州三つ葵、尾張は尾張三つ葵で、徳川宗家や松平家の徳川葵とはみな微妙に違います。それから松平家どうしでもまた微妙に違います。(みな徳川葵という家紋ですが) 家康の四天王の一人、本多忠勝の家紋は本多立葵と言って徳川家とは全然違う形ですが葵の紋を使っています。
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ご回答ありがとうございます 松平同士でも紋様が違うとは始めて知りました。
- koruku0127
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補足ですが、一橋家二代当主・徳川治済の「従一位准大臣」というのは十一代将軍徳川家斉の実父という事で、例外中の例外と思います。
お礼
補足ありがとうございます 准大臣って初めて知りましたが辞書で調べてみると、大臣よりは下で大納言よりは上って書いてありましたから随分と偉いですね。
- koruku0127
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>御三家より将軍家の血が濃いからなんでしょうか? 私には分かりかねるのですが、御三卿の創設は紀州出身の徳川吉宗によるライバル尾張家封じの側面がありますから、その辺も関係しているのかもしれません。 御三卿は尾張と同じく将軍に世子がない場合のスペアですから、尾張に準ずる官位にする必要性もあったのかもしれません。 参考にならなくてすみません。
お礼
何度もありがとうございます 紀州家は尾張家に対して同格意識を持っていたみたいですね。
- koruku0127
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>従って、御三家は大名には含まなかったようです。 御三卿の間違いでした。
お礼
ご丁寧に修正ありがとうございました。
- koruku0127
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(1)会津松平家や越前松平諸家、高松松平、久松松平などです。 家康の外孫にあたる鳥取池田家なども使用を許されていたようです。 御三家の連枝は八角形に三葉葵の紋所だったみたいですね。 (2)御三卿は御三家と異なり、将軍家の別居家族の扱いでしたから、江戸城内の屋敷に住んでいました。田安門・一橋門・清水門の近くに屋敷があったので、それぞれ田安家・一橋家・清水家と呼ばれてます。 天領の内十万石を賜り、家老以下の重臣も旗本の出向でした。従って、御三家は大名には含まなかったようです。 (3)葵の紋も、将軍家・尾張・紀伊・水戸と家々によって微妙に紋様が異なります。 (4)官位は隠居しても変わらないと思います。 (5)なぜ権官が多いのか私には分かりませんが、元々、武家の官位・名乗りは公家の制外のものですので、権官の意味はあるのでしょうかね・・・
お礼
ご回答ありがとうございました。 ご紹介いただいたページ私もよく利用しています。 田安門・一橋門・清水門なんてものがあるとは初めて知りました。
補足
御三卿は御三家より格下のようですがやけに官位が高いのは別居家族ってことで御三家より将軍家の血が濃いからなんでしょうか?
お礼
わかりやすいご回答ありがとうございました 御三卿は跡継ぎがいなくても取り潰されなかったんですね。
補足
ふと思ったんですが、色々なものに葵の紋所が付いていますがその模様が真っ二つになっているものを使って良いんでしょうか?