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内管領、平頼綱のせりふ
得宗北条貞時のときの内管領、平頼綱(得宗の家宰)が、「得宗の力が隆盛をみせたのは誰のおかげだというのだ!?」といいます。こういったのはどういう理由からでしょうか?
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こんにちは。 頼綱はその家宰として得宗家と身内人の利益を追求し、得宗専制体制の強化に力を注ぎました。 行動から見て動機が野心だったとしてもその点にかわりはないと思います。 元寇以来困窮する御家人達は過去のように御家人代表の合議による体制を望み、且つ身内人ばかりが重用されることに反発を抱いていましたが、それは頼綱の考えと大きく対立し遂には御家人代表である安達泰盛らと争い「霜月騒動」に至っています。 泰盛は貞時の外祖父でもあることから発言力も影響力もあり、身内人にとっては脅威でしたが、これを滅ぼすことによって頼綱はその地位を確固たるものとし、より得宗専制体制を強固なものにしていった訳ですから、彼がそれを「自分が勝ち取ったもの」と思ったとしても何ら不思議はないでしょう。 結局はやり過ぎて貞時に滅ぼされていますが、彼の働きによって得宗専制体制が強化されたことは事実です。 そのような自負が言わせた台詞のように思いますが如何でしょうか。
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- tanuki4u
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回答No.1
徳宗家が歴代早死にしたせいではないでしょうか。 時政、77歳 義時、41歳 <一番長生きで、この人の法名得宗から嫡流を得宗という 泰時、39歳 時氏、27歳 経時、22歳 時頼、36歳 時宗、33歳 貞時、39歳 高時、30歳 < これは鎌倉幕府滅亡ですが 驚くべき事に、一人として40歳まで生きていない。