- ベストアンサー
北条貞顕(金沢貞顕)
北条貞顕は、なぜ足利貞氏と仲が良く、しかも、貞氏の方が目上なのでしょうか? また、連署の地位にありながら、 内管領の長崎円喜よりも権力がないのでしょうか?
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
1.足利氏は、当時武家源氏の筆頭格(血筋と勢力の総合評価)だったようです。北条家は源氏に使えていた家なので、足利氏が目上に当たると思います。 2.制度上の上下と実際の権力の大小も異なるケースは多いです。 得宗家は、時頼以降、執権職に付いていてもいなくても当主が子供でも、他の北条家より権力を持っていたわけで、執事である内管領が実力を持っていてもおかしくありません。 今も、副総理より与党幹事長が力を持ってますよね。
その他の回答 (1)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2
大ざっぱにいうと、鎌倉時代の権力構造は 12世紀 頼朝と関東の有力武士の連合体 13世紀前半 執権を中心に関東の有力御家人の連合体 ※ 北条家による他家排除がすすむ 13世紀後半 北条家嫡流である得宗家が最高権力者 有力御家人の連合体ではあるが、その有力御家人には、北条家の支流が多く存在した。 というのが、理解の前提で、ご指摘の人物たちの時代は13世紀後半。 非北条家で有力御家人として残れた数少ない一つが足利家となっていて、他の支流の北条家も含めて、それぞれ仲間を作っておくのが、生き残りの必須手段です。 たまたまその時の組み合わせで金沢流と足利家が結んでいたというだけ。 また、得宗家の独裁時代ですから、得宗家の家宰である内管領が権力があるのが当たり前。 最近の例で言えば、小泉純一郎が首相の時、秘書という国会議員でもなんでもない飯塚氏が権力を持っていたのと同じです。