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頭の痛くなるような文章を作ってください。
「事物は記号化という行為を経て、つまりその表象の流動性を示唆することによって、直喩的な記号性と暗喩的な記号性を同時に獲得します。つまりそれは意味(A)の表象であると同時に意味(A)から任意の意味(A´)への移動のモーメントを、無限に暗喩することにもなるわけです。」 (村上春樹著「マタタビ浴びたタマ」より抜粋) みたいな、頭の痛くなるような文章を、「私の子供である花子という人間は」を主語にして書いてください。 自分では作れなくて困っています。 よろしくお願いします。
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「私の子供である花子という人間は、人間としていわゆる普遍的な共通概念の座標軸上に存在することをあたかも嫌厭しているかのごとき人間であると認識する客体の人間存在がいるとしてもそれは別に不可思議なことではないけれども、その人間性によって人間が人間であることを肯定しなくてはならないと周囲が理解するにやぶさかではない人間であり、花子という通称をもって周囲がその人間的実存を断定することに対しての反抗心というものがある点にその嫌厭を認識することができるだけの嫌厭と言えるのであって、なかんずくその人間を花子と呼称する私というものの人間性に欠陥が認められうるのかもしれないが、そうした嫌厭を人間性の点であげつらう私という人間について語るのは本題ではないし、ここにそれを貫徹せしむるに充分な紙幅があるわけでもないためにこのことを敢えて声高に諄々と語り続けるわけにはいかないので、この辺のことはとりあえず今のところは差し置いて、私という人間存在における人間性を語るための今後の課題とするのだが、その花子という人間と私という人間を関連づける尺度はなんであろうかとことさらに精神的な内容を包摂するわけでもなく考えていた時に、私という人間も人間であるし、花子という人間も人間であるといったような両者の肩書きをもって語るのは、譬えて言わばあまつさえ誕生日ケーキの上には蝋燭が立っており、蝋燭というものには火が点ることが当然であるという典型的な先入観による偏見から、誕生日を演出する表象としてケーキの上の蝋燭の炎があるものを、それを誕生日を迎えて奉祝されるべき当の本人の呼吸器官たる肺から排出される気息によってその蝋燭の炎を消してしまうというアイロニーな状態であり、人間という肩書きについても肩書きのついた人間がその人間の肩書きの存在意義を懐疑してみるというナンセンスと相俟って、花子という人間は一体人間なのであろうか、もしそうなら私という人間は花子ではない人間としてどういった人間性のある人間であるべきなのかをそぞろに気づかされずにはいられないのだが、私という人間と花子という人間が相互に違う肩書きを持っていることにより、私なる人間存在にとっての花子なる人間存在という観点および花子なる人間存在にとっての私なる人間存在という観点の双方において、ある特定の人間とそれと対峙するこれまた特定の人間を関連づける人間関係と俗に呼ばれうるようなものが出来上がるのであり、そこにそもそも人間とは何かという横車が入ってきた時に論破するためにあえてわざわざ一応念のため申し添えておくとするのならば、人間という個体の存在について意識することで人間はその人間性を持つ人間として認知されるということを確認した上でなからずんば人間の人間たるや如何というテーマに対する答はありえないのであるという確信を私という人間を学問する人間が持っているということが何よりの武器であり、こうした横槍の舌鋒に応戦する用意のあることを確認した上で、私が花子のことを子供と呼ぶ理由を持つことと花子が私に子供と呼ばれる理由を持つことという二点において相関関係が成立することを発見することができるだろうから、その範疇において私が花子と呼ぶことと私が子供と呼ぶことを同一の事物上に投射した行為と判断されることに賛成することはやぶさかではない以前にごくごく当然のことなのだが、そのくらいにまで私が花子として認識し、また私が私の子供として認識し、さらには私が人間として認識するに不十分なところのない唯一の存在であると言えるのだ。」(1474文字) この一文、「私の子供である花子という人間は、私の子供である花子という人間である」と言ってるんですよね。実は。 まわりくどく話を脱線させたり、副詞や接続詞を多用したり、二重三重の否定を使ってみたり、読点に来る時に読者が予想したと違う番狂わせを起こすことによって読者を混乱せしめたり、若干古語めいていたり堅苦しい持って回った言い回しを使うことによって文章の理解を曖昧にすることを助長したり、もったいぶった表現で読者を焦らしたり、同じ語を比較的近い場所において密集させたかのように頻繁に利用したりすることによって、結構簡単に長い文章を作ることはできます(と、この文章は構造がわかりやすいので、構造を複雑に練るというのも手ですね)。 今回はほとんど使いませんでしたが、外来語、とりわけ英語をカタカナ語として導入するという方法もあります。 今ので十分経験させていただいたので、「経験者」で。
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- aster
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>私の子供である花子という人間は、存在論的規定において、私の子どもであるが、私の子どもであるということが彼女の本来性である以上、彼女は超越論的にも私の子どもであるかと云えば、必ずしもそうは言えないという可能性が、その精神の現存在的な姿勢次第で出てくるのであり、この問題は私にとって超越的であるのみならず花子自身にとっても超越的で、そこには、人間の世界了解の存在論的問題と、自己同定の現象学的精神病理学の吟味基準を考慮して検討する必要があるが、「了解」とは何であるかという哲学の根本問題に重畳して、存在者の先験的構造の解析が必要になり、超越的認識は、前験的に可能であるかどうかの疑問が暗喩的に先行して存在し、その疑問の存在において、人間の実存はその本来性を回復できるという展望において、超越論的構造における主観認識の統整的了解手順において、自己同定と他者認識の可能性が存在的に保証されているという考えはまったくその通りであるが、自己が他者でないという命題が前験的に普遍的真理であるかどうか、なお存在論的に疑問があり、しかし、命題の形式的内包が、その命題の普遍真理概念であるという構想では、花子が私の子どもであるということは、表現のトートロジーに過ぎず、分析的命題は超越論的構造に存在的に内在する以上、「了解」の超越的問題は、統整的に解決されるというべきであるので、このような言表に関する意味論的解析は、哲学的解析をまつことなく、存在論的に自明的に答えが出ていると云っても差し支えないのであるが…… これは、「私の子どもである花子」という部分だけに着目し、「私の子ども」「である」「花子」というコプラ結合の存在論的哲学的な分析を行おうとしている文章で、かなり適当ですが、無意味なことを述べているのではなく、また、同じ内容を別表現で述べて、読者を混乱させ、話を延ばしているのでもありません。 長い文章で込み入った構造など、何を言っているのか分からないのは、当然なのです。しかし、短くても、例えば、上の文章の冒頭の: >私の子供である花子という人間は、存在論的規定において、私の子どもであるが、私の子どもであるということが彼女の本来性である以上、彼女は超越論的にも私の子どもであるかと云えば、必ずしもそうは言えないという可能性が、その精神の現存在的な姿勢次第で出てくるのであり…… この最初の部分は、もう少し丁寧に云うと: >私の子供である花子という人間は、哲学における存在論の見地からは、存在論的に私の子どもであるが、存在論的に私の子どもあるということが彼女の存在的本来性である以上、彼女は現象学的直観了解の超越論的主観構造においても私の子どもあるかという問題を考察すると…… 更に詳しく述べて云っても、何かよく分かりません。別にでたらめを書いているのではないのですが、「存在論的に私のこども」というのが、そもそも、考えると何のことか分からなくなるはずです。 「私の子ども」である云う「存在的事実」があれば、「存在的に私の子ども」であるのですが、その存在事態の根拠は何かというと、例えば、「私の子ども」という「存在性」を超越的に付与または分与されているからであるとすれば、この根拠解釈では、「存在論的に私の子ども」であるという表現が、この根拠解釈において成立するのです。 「存在的・存在論的」、「超越的・超越論的」、「先験的・前験的」などは、どう違うのかが分かっていないと、意味不明の文章で、理解し難くなります。しかし、無意味なことを書いているのでも、また本質的に関係のない修飾などを入れて、読者の把握力を混乱させているのでもないのです。 一般に、一つの文章のなかに、複数の命題を入れると、何を述べたい文章か、主文が分からなくなり、理解困難になります。「。」で終わらせている文章を、適当な接続詞などを入れて、どんどん続けて行くと、何が言いたいのか分からなくなります。 また、「説明不足」の文章、「書き手の独りよがり」の文章なども、何を言っているのか分かりません。例えば、「暗喩」というのは、たいへん難しい言葉・概念です。これを論じるだけで、小型の本が書けます。どういう意味で「暗喩」を使っているのか、作者が的確に説明していない場合、何を言っているのか分からなくなります。 また、同じ「暗喩」を使っていて、実は、途中で、意味が別の言葉になっていることがあります。暗喩のような曖昧な言葉だと、書いている人間も気づかず、そういうことが起こります。書いた人間は、意味を分かっているので、おかしいと思わないのですが、読む方は、相当に分析して行くと、この「暗喩」と次の「暗喩」は、意味が少し違っているなどという解読で、意味が分かるようになります。 >「事物は記号化という行為を経て、つまりその表象の流動性を示唆することによって、直喩的な記号性と暗喩的な記号性を同時に獲得します。 「事物の記号化」とは何か、色々な考え方があり、これだけでは、何を言いたいのか、特定できないのです。 「つまり……」というのは、前の文章の説明補足になるべきなのですが、ここでは、「表象の流動性の示唆」などという、また訳の分からないことを述べています。というか、「表象の流動性」も色々な解釈が場面ごとで可能で、「事物の記号化」と「表象の流動性の示唆」が、「つまり」では、結びつかないのです。 「説明不足」だとも言えますが、言い方では、「でたらめを書いている」ということになります。
お礼
どうもありがとうございました。 とても勉強になりました。 わたしにはまだ意味もありなおかつ頭が痛くなるという文章は作れそうにないので、「無意味なことを書い」たり「本質的に関係のない修飾などを入れて、読者の把握力を混乱させ」たりしようと思います。 意味のある文章を書くのはそれが出来てからにします。 ところで、私の引用した文章は、「なんのことかわかりますか?言っている僕にもさっぱりわかりません。あ、頭が痛い」と続きます。 つまり、作者が故意にでたらめに書いたものです。 説明不足でごめんなさい。
- mellon
- ベストアンサー率34% (94/272)
私の子供である花子という人間は社会諸科学、すなわち政治学、法学、経済学、商学という伝統的な学問分野では、その発展過程で絶えず細分化、専門化を進捗させながら、個別的な領域での理論の精緻化、厳密性、論理整合性を高めていった。 だが、このことは同時に個別的学問相互間の交渉をますます希薄にし、個別理論の自己閉鎖性を強めることになったようだ。彼女のような社会科学的な総合的学際的研究・教育を受けた人間は社会に閉ざされた性質を余儀なくされ社会人になってからもその経験的実践を経て、それをさらに高いレベルで理論に反映させていくという循環プロセスでさらに助長されたようだ。 というのはどうでしょう。 ちなみに全く意味はありません。 それと、まったく興味本位でお伺いしたいのですが、どうしてこのような文章が必要なのでしょうか。
お礼
激しく頭の痛くなる文章をありがとうございます。 一文を長くすると効果的なんですね。 このような文章が必要な理由ですか?おもしろくもなんともありませんよ。 今、練習で物を書いていて、その中で冗談として、頭の痛くなるような文章を扱いたかったんです。 でも、どうしても自分では書けなくて、練習するのにもサンプルがほとんど見つからず、ほとほと困り果てたのでサンプル集めのために質問しました。 mellonさんの文章を参考に勉強させていただきます。 どうもありがとうございました。
- nyozegamon
- ベストアンサー率45% (895/1969)
例文にあるように、「○○化」「○○性」「○○的」などと言った表現や専門用語をつなげていくと、それなりに頭の痛くなるような文章が構築できると思います。
お礼
そうは思ったんですが、私がやってみてもどうしても頭が痛くなる文章にはならないんです。 ごめんなさい。 どうもありがとうございました。
お礼
すごいです! 私も練習してるんですがなかなか・・・。 語彙が少ないんでしょうか。 勉強せねば。 どうもありがとうございました。