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徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。
こんにちは。 私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。 徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。 他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。 江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。 それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。 教えていただけたら、ありがたいです。
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徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。 日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。 直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。 大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。 一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。 この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。 佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。 以上、参考までに。
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徳川家康は北条氏滅亡後、支配地である駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を取り上げられ、北条旧領の武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7ヶ国を与えられます。 この7ヶ国で250万石になりますけど、家康が直接支配できるのは100万石で、残りは配下に分け与えられます。 関ヶ原の合戦で、西軍大名を取りつぶして、結局家康晩年は200万石、その後武家諸法度による改易大名の領地を加えて、5代綱吉の時代には400万石、8代吉宗の時代に450万石を越えて、最大で463万石に達します。 分布は、関東102万石7190石、畿内67万6,340石、東海道73万2,610石、北陸27万7,440石、東北37万3,940石、中国41万180石、 四国九州12万3,860石となります。 これ以外に旗本領が存在し300万石、大名に貸してある領地と奉行支配を加えて、大体800万石です。 大名に貸してある領地は、例えば上杉は15万石ですけど、これに加え置賜郡内に3万石、越後の1万石を幕府から管理を任されているので、19万石になります。 城下町としては、江戸以外にも駿河、大阪など、徳川氏の城下町は何カ所もあって、けっこう大きいですよ。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 なるほどですね。歴史の流れから考えて、最初からそんなに持っていたわけではなく、どんどん増やしていったということですね。 そして、詳しい分布内容を教えて頂き、ありがとうございます。 800万石の謎が解けました! それに、大名に領地を貸していたのですねー。 勉強になりました、ありがとうございました。
補足
回答して頂いた皆様、どうもありがとうございました。 勉強になりました。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
「旗本を加えて 800万石」は反則っぽいなぁ~. 旗本と大名の違いはただただ「領地の (公称) 石高」でしかありませんから, 「大名の領地は加えないけど旗本の領地は加える」というのは「数字が先にあってそれにあわせる」という感じではないでしょうか.
お礼
ご回答、ありがとうございます。 ということは、やはり「800万石」は、幕府の改竄か、オーバーな表現ということなのでしょうか。 とんでもない数字だというのは、確かですね! ありがとうございました。
- gungnir7
- ベストアンサー率43% (1124/2579)
幕府は経済を支配できたというのが他の藩とは別格たる理由です。 従って財政の基盤となる金山、銀山、銅鉱などはほとんど幕府の天領になっています。 有名な石見銀山、佐渡金山などがあり武田埋蔵金で有名な甲斐は一国丸々天領です。 また、大名の取りつぶしで空いた土地も一時的に幕領となりました。 これらの土地はたいてい後日の人事で他人に割り当てたようです。 幕府の天領は約400万石なので800万石というのは旗本領を加えたものではないでしょうか。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 なるほどですね、石見銀山などお金になる土地は押さえていたんですね! お金になる土地を押さえていれば経済を支配でき、不毛な土地なんてあまりいらないですものね。 空いた土地も、一時的に幕領になったんですねー。 それから、八百万石というのは旗本を加えたものなのですね・・・。 いろいろ勉強になりました、ありがとうございました。
- imp-dsc
- ベストアンサー率25% (57/222)
これまでの回答者さんの追加補足になる形ですが・・・ 開墾や干拓などの政策で同一面積や旧国名の石高以上の収穫が見込まれた場合にそれらを追加してカウントした結果や軍事的に勢力を大きく見せ付ける為にあえて過大な数字を挙げた。(300とか400万よりも800万の方がインパクトありますしね。第一日本全体の石高を把握できる立場は幕府しか無いでしょう。それを実行したか否か?正確か否か?そうする意図の有無は別として)等の理由があると思います。 他には八とか八百というのは別の意味があり身近では八百屋(今では野菜販売店ですが昔は様々な商品を取り扱うコンビニみたいな店でした。)とか八百万の神々とか江戸の町は八百八町という表現もあります。共通しているのは沢山の・・・とか数え切れないという意味です。それを鑑みれば八百万石というのもそれらの概念の延長戦とも取れます。事実かどうかは別として。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 なるほど、八百万石とはそういう解釈もあるんですね。 驚きです! 確かに、断トツすぎだよなあとは思いました・・・。 幕府が改竄していたかもしれない、あるいはオーバーな表現だったかもしれない、か。そうやって考えると、面白いですね。 斬新な回答をありがとうございました。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
ある程度まとまったところには「代官」を置いていますし, その他いろんなところにちょこちょこと領地を持っていたはずです. 例えば大岡越前で有名な大岡忠相は大名になっていますが, そのときに加増を受けた三河の領地は幕府直轄地じゃないかなぁ?
お礼
ご回答、ありがとうございます。 なるほど、三河もですか。 確かに、徳川家康は生まれが三河なんですよね。 豊臣秀吉に追い出されたけれど、関ヶ原の戦いの後に手に入れた(?)のでしょうか。 参考になりました、ありがとうございました。
- keirika
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江戸幕府は幕府直轄地(天領)を持っていましたので、それを含めての ことだと思います。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 江戸以外にも、幕府直轄地があったのですね。 参考になりました、ありがとうございました!
- Reffy
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ほかにもあちこちに持っていたようですよ。天領と呼ぶ人もいますが、天領とは明治維新後に皇室直轄地について使われた言葉だそうなので、幕府のものは御領とも呼ばれたようです。金山の会った場所や長崎、大阪なども江戸幕府御領になるようです。 全国統一したお家なので、あちこちに飛び地は持っているし、おなじご一門の紀州水戸尾張などはみなさんものすごく大きな土地をもっているので、宗家はもっとあちこちに持っていたと考えるといいと思います。 確か埼玉のあたりの野火止も幕府直轄領かそのご近所だったかと思います。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 なるほどですね、御領というのですね。 金山、長崎なども、そうなんですね。 徳川家一族として考えたら、確かに広大な土地ですね。 勉強になりました、ありがとうございました!
お礼
ご回答、ありがとうございます。 全国の面積から考えると、徳川家はそんなに支配地を持っていたことになるんですね! 蝦夷地にも、ほんのちょっと天領があった時期があったんですね。 そして、詳しい直轄地を教えて頂いて、ありがとうございます。 本当に沢山あったのですねー!びっくりです。 10万石以上か否かで、派遣する人も異なったのですね。 丁寧なご回答をありがとうございました!