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人間の自由
人間の自由とは、又、自由とは何か?
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自分の発言に誤解を招きかねない点があったので、補足します。 >つまり、責任は自由にによって得られるものではなく、負わされるものであるということです。 また、責任によって得られるものでもありません。 あと、もうひとつ。 自由とは制限のないものだともし思われているのなら、ozapanさんの言われるとおり、 >純粋に形式的な自由は成り立たない。必ず、何らかの形で統制原理を要請します。自由は制約を受けて初めて成り立つ。逆説的なものなのです。 しかし、それは人間(人の間<つまり人間関係の中にいる>)にとってとするからであり、人にとってとすれば、制限などありません。 そして、そういった制限のはずれた人は社会に適合できませんから、 犯罪者となる可能性を強くはらんでいます。 ですから、「人間の」という言葉がつくかつかないかは大きな問題ですので、 「又」などと同意のような言葉遣いをするのはどうかと思われます。
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- hyoutantugi
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日々の暮らしは家と会社を行ったり来たり。 刑務所で独房と労働場を行き来するのと大差ありません。 しかし、「本当に行く気になればどこでも行けるんだ」というゆとりが自由、それがないのが不自由です。 脱獄の名手なら刑務所でも自由な心でいるでしょうし、刑務所の外でも自分の可能性を信じていない人は自由な心で生きていません。
- littlekiss
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自由とは、他から拘束・支配されないこと。 自分のおもうままにおもうこと。 辞書を引くとこう書かれてありました。 *自由は他から・・・・この他は誰を指すのでしょうね? ・自分以外の人~他人? ・自分の中に存在する自分? *自分のおもうままに・・・・この自分はどの自分なのでしょうか~? 単純に他から拘束されないことが自由なのでしょうか? それは、『空』なだけではないでしょうか~? 感覚において『空』であるときに、何がしかの圧力が生じることによって窮屈に感じているだけのことではないのでしょうか~? 窮屈に感じると・・・・ 人は、自由がないとか自由を奪われたと表現するだけのことであって、それを『自由』と呼ぶのは・・・ちと、違う気がします。 例えば、刑務所に15年ほど収監されていた人が、15年ぶりに解き放たれ出所した際 青空を見上げて『俺は自由だ―!!』と叫んだとしても窮屈な檻から出られてただ気分的に精神的にきもちがよくなっただけ。 しかし、気づかないうちに外界という大きな檻にとらわれている。 そのことに気づけばまた『自由』ではないと感じるのでしょうね。 私が思うところ自由とは、虚言・幻像・夢・あこがれを自分の中でつくりあげ それを意識の中に感覚的に思い込ませているに過ぎないだけのことである。 よって、自由とはじつは存在しない。存在しているようにあたかもおもいがちですが、自由というものは『絵に描いた餅』のように存在しないのです。
- tabio
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下のzaraさんと同じです。 自らの良心に問うてみて、恥ずかしくない思念をすること。 また、自らの良心に問うても、恥ずかしくない行動をすること。 このことが自由だと思います。 あくまでも「良心」ですよ。理性に問うとすれば、その時々の個人の都合や 社会情勢、また教育されたことによって変わってきますから。
- zara
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「自らの良心に従って行動すること」 につきると思います。
マルチポストになっているようです。「その他の学問」の方でも、同じ方の、同じ内容の質問があり、僕が見た時点で5件ほどの回答がありました。 どちらで答えたらよいのか、混乱してしまいます。どちらかにまとめて下さい。 「自由」はまさに哲学の重要課題ですが、法や政治の問題でもあります。「その他」の方で扱うのがいいかもしれません。 短く、抽象的に言います。 「自由」とは不思議なものです。純粋に形式的な自由は成り立たない。必ず、何らかの形で統制原理を要請します。自由は制約を受けて初めて成り立つ。逆説的なものなのです。
これはかなり深くて重い問題ですね。 歴史を振り返って見れば、例えば徳川時代以前は一般庶民は政治に対して全くと言っていいほど自由がありませんでしたし、職業を選ぶ自由も、結婚相手を選ぶ自由も現代と比べるとかなり制限されていました。明治になってからも参政権は所得によって制限されていましたし、女性にはその自由はありませんでした。そして思想の自由も制限されていました。戦後になってそれまでの制限の大部分が取り除かれましたが、法律や法令、制度といったものである程度の自由は制限されています。それでも現代の日本の社会は社会的自由という面では歴史上最も自由な時代と言ってもいいでしょう。中学を卒業すれば学校に行っても行かなくても自由ですし、職業を選ぶのも、結婚相手を選ぶのも自由、セックスも自由、離婚をするのも会社を辞めるのも自由、どんな考え方を持っても良いし、政治活動をするのも自由です。つまり、法律などで制限されている事柄以外は何をやっても原則的には自由なのです。 しかし、個人というものは何も外からだけ自由を制限されるものではないのです。学校や会社、地域社会の中で自分だけ他人と違う行動や考え方を持つことはなかなかできないものです。それは人間は社会の中で生き、社会に適応、順応していこうという傾向があるからです。日本の社会は先進国の中でもその傾向が特に強く、自分の意思や主義を曲げてでも自分の所属している社会に自分を合わせていこうとする傾向があります。一見自由そうに見える若年層でも自分の友人たちや仲間といった小さな社会から疎外されることを怖れ、自分の自由を自ら制限しています。 では本当の自由とは何か? 私は心の自由だと思います。社会の中で自分の自由を制限されている中で、心の中まで制限されてしまったら自由社会に生きている意味はないと思います。自分の心の中は唯一自由を保てる部分だと考えます。特にこれからの世の中は社会が大きく変わろうとしています。大手企業や銀行、保険会社等がつぶれ、会社といったものに頼り、すがって生きていくことが必ずしも幸福ではないという社会になりつつあります。そういう社会の中で自分自身の心の自由を失っていたら、国家や社会が自由の権利を認めていたとしても、その人にとって本当のFreedom(束縛からの自由)やLiberty(選択の自由)といったものは得られないと思うのです。 これからは心の自由の時代だと思います。ひとりひとりが自分の心を解放して自分の思い通りに生きていく時代だと思います。
自由とは責任であるとはみなさん言っておられますので、 僕としてはこうもいっておきましょう。 自由とは不自由なことであると。 無責任になることも自由の一側面ではありますが、 それは社会によって必ず規制をうけます。 つまり、責任は自由にによって得られるものではなく、負わされるものであるということです。 つまり、責任をも回避できるほどの完璧な自由などというものは存在しないともいえます。
- Row
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自由って言うのは、この世の中で一番「責任感」というものが 必要なものだと思います。 自分でしたことは、自分で始末する。 これが「自由」の最低ルールでは無いでしょうか。 無責任に何でもできるのが「自由」では決して 無いと思います。 自由に生きるためには、常に命がけの心構えと、 周囲へのやさしさ、気配りが必要では無いでしょうか。 うまくいえませんが、「自由」を取り違えると、 とんでもない人間になると思います。 気をつけたいものです。
- pierre
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あなた自身が自由について思い悩んでいるのでしょうか?それとも単なる宿題? どちらでもあるとすれば、ヒントは福沢諭吉の「西洋事情」と「学問のすすめ」でしょう。自由は訳語として必ずしも適当ではないと鋭い指摘をしています。 Liberty と Freedom の区別をきちんとすること。~への自由 と ~の自由を区別すること。 西洋の自然法思想についても理解が必要です。 宿題だとしたら、いい宿題なので、宿題を超えて考えてみてください。
- kudou
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自由ですか 自由とは、私の考えですが 自由と孤独 自由と責任 だと思ってます。 一番は責任ですね、自由にする事によって生じた責任は自分で取らなくてはならない事だと。 自由は一見気楽そうなのですが、本当は大変なのではないかと思います。 こんな感じの回答でいいですか?