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『自由意思』は存在するのでしょうか
『自由意思』は存在するのでしょうか。 最近の哲学の学者はこのことに対してどのような見解をもっているのでしょうか。最近の通説の傾向は、どうなのでしょうか... 。 暇なときに自分なりに考えてみましたが... 。 「人間の視点から見れば、『自由意思』が、あたかも存在するように感じるが、『神のごとく』最も高い視点から見れば、すべての現象は、原因によって生ずる結果(原因により生じた現象)なのかな」 という結論になりました。 最近の通説的な学説は、どうなっているのでしょうか。
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- nisekant
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意識の禁止権説と自由意思 だが、自由意思の問題はどうなるのだろうか?画鋲の上に座ったとき、つべこべ言う間もなく飛び上がることは、この際、脇に置いておこう。リベットの実験結果は、私達に自由意思はない、と言っているのだろうか。意識以外に、自由意思を行使できるものはありえないのだから。手を伸ばして物を取ることを決めたと思ったときには、すでに脳が活動しているのだとしたら、人間に自由意思があるとは言い難い。 リベットの〈準備電位〉の実験を振り返ってみると、実はこれまで話題にしなかったきわめて重要な事実が残っている。確かに意識が生じるのは脳が動いた後かもしれないが、それは手が動く前でもある。 決意を意識してからそれが実行に移されるまでには、0.2秒の余裕がある。だとしたら、意識はどうにかして実行を中止できるのではないだろうか? このこと、つまり意識は禁止権を持つ、というのが、リベット自身による自由意思の救済案だ。意識には、行為の実行までにその行為を禁止する時間が十分にある。事実リベットは、そうした禁止メカニズムが働くことを示す実験的裏付けを得ている。被験者が、実行しようと決めた行為を途中でやめたと報告したとき、やはり〈準備電位〉は発生していたが、実際に実行したときと比べると、終わりに近づくにつれて電位変化の様子が違っていた。被験者は自分の行為を思いとどまることができた。つまり、自由意思を持っていた。意識は行為を起こすことはできないが、実行をしてはいけないという決断はできるのだ。リベットは自由意思と意識機能に関する禁止権説を構築した。「個人の責任と自由意思に関連するプロセスは、自発的行為を起こすのではなく、意思決定の結果を選択ないし制御する目的で作動する」 この見解はたいへん興味深い。歴史的に見ると取分けそうだ。自由意思は選択を通じて働くのであって、立案を担っているのではない。自由意思は、環境が自然淘汰を通して生物進化を方向付けるのに似ており、日常生活における意識的選択の仕方を想像したときに、大抵の人が自然に思い浮かべるように、意識が計画や青写真を作るというわけではない。意識は、脳内の僕に指令を下す高位のユニットではない。無意識が提供する多くの選択肢の中から選りすぐること、それが意識であり、その結果、生じるのが意識だ。意識は提案を退け、無意識が勧める決定を拒むことによって機能する。意識とは、処分された情報、却下された選択肢、「折角だけれど、結構」なのだ。 意識を禁止権限と捉える考え方は実に鮮やかで含蓄に富んでいる。思想史をひもとけば、ダーウィニズムと自然淘汰以外にもこの見解の類縁を見出すことができる。 禁止の原理は、いつの世にも人間の道徳に見られる。「倫理的拘束は、十戒の殆どがそうであるように、ある種の行為を禁じるものである場合が多い」とリベットは1985年に記し、更にこうつけ加えた。「行動しようという最終的意図が無意識のうちに生じるのならば、体の動きという形での行為の成就は意識的に制御できても、そうした意図が生じること自体を意識的に妨げることはできない」 リベットは、体の動きとしての行為と、心的現象としての行為の衝動とを区別し、行為は制御できても衝動は抑えられない、と結論付けている。この区別はきわめて深遠な意味を含んでいる。してもいいことを説く道徳観と、したいと思ってもいいことを説くものとでは、大きな違いがあるからだ。 リベットは語る「他に、フロイトの言う衝動の〈禁圧〉が作用する仕組みが考えられるでしょうか?行為の衝動と行為そのものの間に違いがないのなら、〈禁圧〉など機能しようがありません。〈禁圧〉のための時間が、どうしても必要なのです」 〈禁圧〉……不快な、或いは不都合な観念や情動を、意識から締め出そうとする精神作用。同じような作用をもつ抑圧が無意識的プロセスであるのに対し、禁圧は意識的プロセスである。また、禁圧された内容も、無意識の領域に押し込められるのではなく前意識にとどまるため、思い出すことが可能。 ユダヤ教は、他人に対して酷薄な思いや望みを抱くことを許す、魂の免罪符となる危険を孕んでいる。自分がされたくないことを人にしないかぎりにおいては、何を考え、何を感じようと構わない。ユダヤ教の思想に心の倫理規定がないために、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』で描いたような内面の無慈悲や邪悪さが生まれることになる。それでも、相手に影響を与えるのは行為だけなのだから、内面的な問題は全て許容される、とユダヤ教は語る。確かに数十年前までならば、科学的に見てそう信じる根拠はあったかもしれない。しかし、これは断じて間違っている。 問題は、閾下知覚やプライミングといったものが存在するのなら、実は私達は自覚している以上に他者の考えや気分がわかっている、という点にある。だから、お互いについて何を考え何を感じるかは、本当は重要な問題なのだ。例え「あんな奴は叩かれて当然だ」と心の奥底で思っているだけなら誰にも害はないというのが、意識の告げる常識だとしてもだ。 他者に影響を与えるのが言葉と行動だけなら、何を考え何を感じようと問題にはならない。だが、この見方は人間の実像を正しく捉えていない。実際、ユダヤ人であるリベットの発見は、ブーメランのようにユダヤ教の倫理観に跳ね返ってくる。意識は遅れるというまさしくその理由から、どれだけの思考が現実の行動と化すかはなかなか制御できないのだ。ユダヤ教の難点は、意識が本当は抑制できない内面の酷薄さを容認していることだろう。私達が自覚する以上のものが、ボディランゲージなどを通じて表に現れることを許すからだ。 近年、意識の意味合いについて新たな認識が生まれつつあることを受け、基本的な道徳の問題を抜本的に見直す議論をする必要性がある。 とはいえ、禁止権説が興味深いのは、高尚でスケールの大きい道徳的議論との関連のみからではない。この説は、いたって日常的な問題を考えるうえでも、実に面白い視点を提供してくれる。 リベットの禁止権説は、意識が機能する仕組みを鮮やかに記述する一方で、日常生活における人間の実像を、根本的に誤解させる説明
- nisekant
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〈私〉と〈自分〉と自由意思 しかし、それでは自由意思はどうなってしまうのだろう。行動は、意識の関与無しに引き起こされ、遂行されうる。それどころか、私達の日常的な行動の多くは、そういうものだと言える。私達の行動には、意識の支配下にない大きな領域が幾つもある。しかし、意識の概念は自由意思の概念と切り離しては考えられない。それならば、意識ある〈私〉は、自分が何をするのかを決めることが全く出来ないのだろうか?意識を伴わない〈私〉など、定義のしようがない。〈私〉の特徴は責任能力と一貫性だ。行動の責任を負う能力と、行動を引き起こす能力は、〈私〉という概念のきわめて重要な構成要素だ。しかし、〈私〉が本人の行動の傍観者になることも多い。 彼はいつものように遅れていた。自転車に飛び乗った時には、会議に遅刻するのがわかっていたので、通常30分弱かかる道のりで、出来る限り遅れを取り戻すことを願うしかなかった。 エステルブロ通りを行く途中、ストランド大通りを渡る時、彼はバスのずっと前を走っていたので、待っている客がバスに乗り込もうと自転車道に群がり出てくる前に、難なく停留所を通り過ぎるはずだった。そう彼は思っていた。 ところが突然、男の子が自転車道に踏み出した。自転車は高速で動いていて、彼にはどうすることもできなかった。まるで夢の中にいるかのように、時間の流れが緩やかになるのを感じ、彼の〈私〉は自分自身の行動の傍観者となった。男の子と衝動する、判断が必要だ、わざと自転車を転倒させるべきか?他の選択の余地はない。まるで映画でも見ているように、彼は男の子を守る決断が下されるのを見ていた。横倒しになり、彼は男の子との残された距離を滑っていった。痛みはあったが、それだけですんだ。彼にはかすり傷と、会議に遅刻した絶好のいいわけができた。そして話の種も 決断したのは誰か?彼の〈私〉ではない、〈私〉は傍観者だった。 彼の中の何者かが決断した。その経験は明確で紛れもないものだった。〈私〉は傍観者として蚊帳の外におり、そして前もって発言を封じられていた。何しろ考えている暇がなかった。 彼の〈私〉には、この決断に関して自由意思が全くなかった。しかし決断を下したのは間違いなく彼であった。 この状況は、ベンジャミン?リベットが研究した状況に酷似している。実際に行動を引き起こしたのは、意識ある〈私〉ではない。だが、その人自身であることは明白だ。〈私〉はその人の全てではない。「私は、自分が自分の〈私〉以上のものであることを知っている」 しかし、〈私〉はそれを認めたがらない。意識を持ち、考える〈私〉は、あくまで自分が主役であり、現に物事を牛耳っている者であり、管理者であることにこだわる。だが、それはできない相談だ。リベットの研究結果を真剣に受け止めるのであれば、それは無理な話だ。彼の研究結果は、意識ある〈私〉が人の行動を引き起こすのではないことを、はっきり示している。意識が禁止権を行使する暇などなく、〈私〉が蚊帳の外に追いやられるような状況はたくさんある。〈私〉は自分が行動していると思うかもしれないが、それは錯覚にすぎない。 こうなると自由意思はどこかに消え去ってしまうように思える。〈私〉は風と天気に翻訳される、意思を持たぬただの一片の流木、それも、「進路を決めているのは私だ!」としかりに自分に言い聞かせている流木なのだ。 リベットの実験は、人には自由意思などないという説を裏付ける究極の説明と解釈できるかもしれないが、それは誤った解釈だろう。なぜなら、選択行動が無意識に引き起こされるのは、自由意思が存在しないことの証明だ、と言えるとすれば、それは〈私〉信仰という前提があるからだ。人の何たるかは、〈私〉という概念によって完全かつ明確に説明しうると主張したら、リベットの発見した0.5秒の遅れに照らし合わせると、自由意思について、どうしようもない問題を抱えることになる。人が決定することは全て意識的に決定される、或いは、人が成すことは全て意識的に成される、と主張しようとすると、自由意思という考え方が立ち行かなくなる。なぜなら、意識の帯域幅は、人がやること全てを制御するには、なんとしても小さすぎるからだ。 リベットの発見した遅れが示しているのは、いつ行動を起こすかを決めるのが自分自身ではないということではない。肝心なのは、行動のプロセスを始めるのは人間の意識ではなく、他のもの、つまり無意識である、という点だ。決めるのは本人だが、決める力を持っているのは、その人の〈私〉ではない。〈自分〉なのだ。 これで、自由意思に対する解答を定式化することができる。人には自由意思があるが、それを持っているのは〈私〉ではなく、〈自分〉である。 私達は、〈私〉と〈自分〉を区別しなくてはならない。〈私〉は〈自分〉と同一ではない。〈自分〉は〈私〉以上のものだ。〈私〉が決断しないときに決断するのは〈自分〉だ。〈私〉は意識ある行為者であり、〈自分〉はその人全体である。〈私〉に支配権がない状況は多い。例えば、急を要する場合がそうだ。〈私〉の担当は、考える時間がある無数の状況だ。だがいつも時間があるとはかぎらない。 〈自分〉という言葉には、〈私〉、意識ある〈私〉が引き起こすことのない、或いは実行することのない、体の動きや精神作用すべての主体が含まれる。〈私〉という言葉には、意識に上る体の動きや精神作用がすべて含まれる。 意識の帯域幅の測定や、閾下知覚、そしてリベットの実験から得られる実験的証拠から、〈私〉は、自分で思っているほど多くの決断を下していないことがわかる。〈私〉は、〈自分〉が行なった決定や計算、認知、反応を、自ら行なったような顔をしがちだ。それどころか、〈私〉は、〈私〉自身と同一でない〈自分〉の存在を頑として認めない。〈私〉にとって〈自分〉は得体の知れぬもの、説明のつかぬものであり、〈私〉は自らが全てを取り仕切っているふりを続けている。 これは、リベットの発見についての解釈としては決して目新しくない。実験の結果から生じる自由意思の問題について、その解決の可能性をどう見るかと訊かれて
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