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人の幸せのためのみに社会が動いていたら
教えてgooやっていて、自己満足のために回答しているひとが結構いるもんだなと思いました。質問をちゃんと読まないで答えたい事を答える。 社会も体勢はそうで、いらないものを売りつけたり、とにかく自分の利益のために人の満足感とか求めるものとか幸せをないがしろにするパターンの多い事には、絶望感も麻痺してしまうほどです。 もし、ユートピアかも知れませんませんが、 「人も企業も人のためのみに行動する」 という社会が実現したらどうなってしまうのでしょうか。
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bossamba様のご質問の意味は私もいつも考えていることです。 人が自己と他人を分離して考える時、そういう断絶が起こると思います。 つまり、自己の利益と他者の利益は互いに全く関係していない・・と錯覚するときに、そのような、社会に対して害を為すようなことが平気で行えるのだと思います。 自分と他人とは実は表裏一体の、同じ全体の一部である・・と認識するならば、自分にとって嫌なことを他人に対して為すことは出来なくなります。 この場合は、 他人に対して行うこと=自分に対して為される事・・だと自覚できます。 同じ社会の、あるいは地球の一員である限り、他者又は他国に対して行ったことは、回りまわって必ず自分自身、あるいは自国に巡ってくることを知っているからです。 この認識をさらに拡大していくならば、 他者に善を行うことが、自己にとって最高の幸せになると思います。 他者に奉仕したことが必ず巡り巡って自分自身に返ってくるならば、これ以上の喜びはなくなるからです。 (自分と言う存在を他者から分離して考えている限り、このことは理解できないでしょうね) しかし、この様な心理状態になるためには、現在の自己の心の状態をスッキリとシンプルに保てるように、自分でコントロールしなければならないと思います。 心からどろどろした恨み、妬み、憎しみ、貪欲な物質欲、傲慢を排除していかなければ、スッキリ、シンプルにはなれません。 努力が必要でしょう。 自分が真に幸福になるためには、心の状態が最も大切であることに気付いて 努力して心をコントロールすることが大切です。 自分の心の闇を野放しにすれば、自分自身の不幸の種を撒き散らしていることと同じだと自覚することが大切です。 人類はアメーバのような状態から現在の形になるまで進化してきました。 これからは精神(人格)が進化していく時代だと思います。 人類の精神状態が、現在の状態のままで、いつまでも変わらないとは到底思えません。 すべての人は、体験を積むにつれそこから学習し、さらに自己を改革していく能力を潜在的に持っています。 ですから精神のレベルがもっと進化して、殆んどの人が地球全体の一部としての自己を認識出来るようになったときに、ユートピアが実現すると思います。 このときには 自己中=自分の幸せのために他者に奉仕する人・・に変わっているかもしれませんね。 そんな日が人類の進化の先に必ずやって来ると信じています。
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あの、根本的な問題なのですが、 >教えてgooやっていて、自己満足のために回答しているひとが結構いるもんだなと思いました。質問をちゃんと読まないで答えたい事を答える。 質問者さんはこういう人を半ば批判というか例に挙げていますが、こういう人だってそういう答えを出さないといけなかった背景があると思うんですよ。 普段主張が認められない人だとか、(質問によっては)過去に同じような境遇の人が不幸になったのを見ていたり、逆にそういう境遇の人に不幸にさせられていたのかもしれません。 そういった自己満足の回答を思いやる心がこの問題の第一歩ではないのでしょうか。 自分の利益のために他人の利益をないがしろにするといいますが、企業の社員だって守るべき仲間や家族がいるはずです。売って利益を出さなければ家族を養えませんし、貯蓄しておかなければ万が一のときに困ります。 ですが、その人たちのことを思いやってあえて騙されたりお金をあげたり、ほかの仕事を紹介するなんてことは私にはできません。それは私がそこまで強くもお金持ちでもないからです。
お礼
いけなかった背景はちょっと想像できませんね。教えてgooで自慢したところで何も生活は変わりません。そこまで間口を広げるということは、うどん屋でスパゲティを食べるようなものではないかと。 家族を養うために詐欺をするというのは、非常に感心できないことです。往々そうなりますけどね。
- tyr134
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#7,20です。 >不自然な状態になっている気がします。社会マナーにしてもボランティア奉仕活動にしても。もっと日常生活的に身近な人を思いやるとか関心を持つとかちょっといい気分にさせてやれというものがないのでしょうかね。 これは、私も常々おもっています。 特に、「自己実現」と「自己中心」を混同されてる人が増えてきている気がします。 「派遣や契約社員で自分らしい生き方を」とか、「資格を取って自己実現を」なんてメッセージが踊ってますが、あれとて「自己満足」を刺激して企業が良い思いをしているだけですしね。 ウチの大学教授が講義で話してたんですが、とある環境ボランティアをしているリサイクル活動をしている婦人会に依頼されて講演をしたんだそうです。 その時に、「リサイクルするために沢山薬品を使わないといけない。それがまた環境を破壊する。それとのバランスを考えてリサイクルを進めなければいけない」という趣旨の話をしたんだそうです。 すると、講演会の主催者に「なんて事言うんだ」と怒られたんだそうです。 「リサイクル=環境破壊=リサイクルは無駄(とその教授が言った)」と勘違いされたんだろうなと言ってました。(しかも、講演をする度に出る苦情だそうです) そして、本当に「リサイクル」を進めたいなら、そのリスクも知ろうとしなければいけないし、それを説明しただけ。 なのに、こういったボランティア活動の組織は自己満足のために表面的に「良いこと」を行っているだけで理解しようとしない。 本当に「良いこと」をしたいなら、ちゃんと学ぶ意識を持つように、とがその教授の講義中の雑談でした。 ただ、ボランティアや奉仕活動なんて肩肘はらずに、ちょっとした挨拶だけでもしてもらえれば、お互いちょっと良い気分になれるのに、、と思うこの頃です。
お礼
お話、ほんとうにまずいですね。自己満足のための自己実現、何もできていないということでしょう。現実の認識ということからはじめないとなんにもならないのに。
N0.14です。 回答者の皆さんの言葉に考えさせられ、再度回答することにしました。 どんな物事であれ、何かが実現することを望むのであれば、 まず、目標というか実現させたい内容の条件設定をしておく必要があると思います。 他の回答者の方もご指摘しているように、その条件設定が「人も企業も人のためのみに行動する」 というものであった場合、少し違和感があります。 そのため、条件設定について考えてみましたが、多少曖昧な点はあるかもしれないですが、以下のようになりました。 「次世代の人が希望や可能性を感じ取れるくらいの社会的状態にもっていくこと。 また価値観については、これに反するものは見直されなければならないが、 社会的な不安材料が解決するために支障がないものであれば多様性自体は構わない。」 現状、自分がもっとも大事だと思うことは、 地球温暖化の視点から、誰に言われなくても自動車に乗ることを必要最小限にするくらいの良識と、 可能な人は自分自身を開花させて、自分に適した貢献内容をいかんなく発揮していくこと。 また、個人の理解として、「望まなければ何も起こらない。平和は多くの人の意志によって達成できるものだ。」 ということを知っている必要があると思います。
お礼
できる限り良心を持とうとするのと持たなくてもいいというのでは、やはり違ってくるでしょうね。
下のは長すぎる。 21ですが、わからないと言われると困りました。 現在の善ではなく「現在だけの善」を追求すると衝突や矛盾が起る、ということが、本当にわからないとは、考えにくいのです。 あなたも含め、現在の中に、人は満足や幸せや快適そのものを求めてはいけない。 ただ、人は生きなければならない。誰も殺さずにです。地球の裏側ででもです。 「人の心を大事にする」とあなたは簡単に言います。 価値観によって支配されるために、人の心というのは壊れることがあります。 別に軍国主義とか変な社会にかぎったことじゃありません。どんな時代やどんな場所のどんな価値観であっても、 真善美めいた正しさを、今という時間の中ではかろうとすると、心が傷つくことがあるのですよ。 いまは間違っていてよい心もあれば、間違いを保ち続けなければ壊れる心もある。 あなたは、自分は今何かをもとめずとも、他者の心を大事にしなくてはいけないですよね。 「現在と未来は断絶」などしていないです。 過去を未来へ通過させるということがわかるでしょうか。 あなたのさっきの気分を人が妨げないこと。あなたの体の姿勢を人が無理に変えさせないこと。あなたが言う言葉、唄う歌を人がさえぎらないこと。あなたが大切にとっておいた物の価値を人がなくさせないこと。 こうしたことは、現在の止揚というもので、それが、満足か不服か、幸せか絶望か、快適か苦痛は、はかることができませんが、あなたの未来があなたの自由な意思にあるということだけ、それだけを、守っているのですね。人の心と体から、過去を奪ってはならないし、未来を奪ってもならないべきであるのに、現実には、大きな戦争は言うに及ばず、満員電車の中まで、人は他者をそれほどには受け入れていないのですよ。 「人のため」と言うからには、私は無害なすべての人間のためと考えます。人に非ず、という断罪が、社会には実在してきました。今もあります。社会の理想に叶った人だけを人とすることが、たくさんあるのです。 「人も企業も人のためのみに行動するという社会が実現したら」、 それが大義名分にさえならなければ、非常に寛容な社会でしょうね。 快適なのではなく、変化や傷をつけない、 幸せなのではなく、望むことのできる、 求めるのではなく、選ぶ、 精神的に今と異なる社会でしょうね。
お礼
さまざまな摩擦衝突があるのは避けられないのでしょうね。 たいへん示唆に富んだ回答ありがとうございます。 良かれと思ったり、自他のためと思ったりすることが、予想とは違う方面に言ってしまうこともあり、人の能力の限界をつねに認識したほうがいいのでしょう。
- tokytime
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NO.18です。 再度補足いたします。 >人は現在ある能力で「良心」を持つことは可能だともいます。 それがあれば心の能力をアップできなくても、ほとんどの問題は消える、 のではないでしょうか。 能力のなさというより心の持ち方、良心の持ち方を誤っているために、人に不利益憤りを与えるような事態が起こる面のほうが大きくないでしょうか。< 勿論、人は常に現在持てる能力(人格)で「良心」を発揮することを目標にすべきだと思います。 この点においてはbossambaさまに賛成です。 しかし、 >心の能力をアップできなくても、ほとんどの問題は消える >能力のなさというより心の持ち方、良心の持ち方を誤っているために、人に不利益憤りを与えるような事態が起こる面のほうが大きくないでしょうか。 については少し違う考えを持っています。 「心の視野」というのは、ものごとすべての事象をはるかに見通す心眼のことです。 その範囲を視野という言葉で表現しました。 善を為す側だけでなく、受け取る側にもこの心の視野の広さが求められます。 善意をありがたく受け止めれれば、お互い何も問題はおこりません。 でもときには、自分に悪意、又は意地悪がむけられることがあります。 そんな時、受け取る側が広い心の視野を持っていれば、その悪意を抱く相手の心の状況をよく理解し、同情し、許すことが出来ます。 そして相手もいつか体験を積んで、心の広い人になるであろう事を考え、「今はこのレベルだからしょうがない・・・」 と、許すことにより、自分自身の心にもストレスを残さないようにその悪意を振りはらうことが出来ます。 又、他者に心から善意でおこなったことに対し、相手が自分勝手な思い込みから誤解し、善意を悪意と判断し誹謗中傷しても、その悪意を抱く心根と狭い心に憐れみを覚え、諦めて許すことさえできます。 ご指摘の「日常の人間関係」とは「心のやりとり」だと思います。 一般人の中で、根っからの悪人は殆んどいないと思います。 それでも何かしら日常的に互いに摩擦が起こり、ストレスを掛け合い、お互い疲弊してしまいます。 これらの大方は、当事者自身の未熟さ(一般人は私も含めこのレベルです)が引き起こす誤解、曲解、ストレス発散、自己嫌悪、嫉妬などが原因ではないでしょうか。 この自分にとっての苦しい状況の原因を理解し、分かることによって手放すこと(平気になり、影響を受けなくなること)が出来るようになるために不可欠の作業が心の視野を広げていくことだと思います。 ものごとの道理が見通せるようになれば、多分(私はその域に達していないので)すべての苦しみから解放され、影響を受けなくなると思います。 心にストレスが無くなれば、人に意地悪をして発散する必要がありませんし、心に曇りがなくなれば、人の善意を素直にありがたく受け取ることが出来るようになります。 かくして、世の中が徐々にユートピアに近づいていくのではないでしょうか。 (心の視野の広げ方は、以前にアドバイスしました。)
お礼
たしかに、心を大きく持つことには、能力の問題はあるでしょう。能力を持たないで心持だけ変えたいというのは理想論ですが、なかなか難しく、能力を介する事でスムーズに移行できるものかもしれません。
- kigurumi
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>ただ、面白いと思いましたのは、私の今回質問した事とほとんど関連性のない言葉尻を問題にされていらっしゃるので、ちょっと悪い事をした気がしています。 「社会一般」はあまり関心がなかったといっていいので。 ただ、新しい方面で考えさせられました。 この多様な価値観というものをどうまとめて行ったらいいものか? それは大事な事です。 そうです。 人間は多様な価値観があり、戦争が起こる理由も それぞれが自分の認識を絶対的な正義 と勘違いして、戦争をする両国にそれぞれ 絶対的な正義 なるものが存在している。 絶対的な正義は一体 いくつあるのか? 国の数だけ 集団の数だけ 人の数だけある。 絶対的じゃなくて共通の正義はあるはずだ? うーーん、 その表向き <善意> というものの背後にうごめくものが見えてしまう。。。無視できない。 「人と人が助け合って生きていこう。 そのためには片方が多少は辛い思いも我慢する」 小学生ならそう聞いても なにもおかしいと感じないでしょう。 でも、、、、、 例えば日本はある時期アフリカに10年間に何兆円と無償援助をした。 無償援助ってことは、返さなくっていいですよ ってことです。 日本政府は赤ん坊から老人まで全員に対して何百万かの借金を負っている。 絶対返せそうも無い額だ とか問題視されています。(今は返せないが将来は返せる見込みがある) 貧乏なくせにアフリカにお金をあげている。 これぞ ユートピア? 日本人が我慢して世界にユートピアを広めようとしている? いえ、その無償援助の結果、アフリカでは大量の難民 大量の餓死者が出ている。 アフリカの知識人は平和ボケの日本の若者に大変厳しい顔で「あなたは知らない!」と結果アフリカがどういうことになったか教えてあげました。 ユートピア? 日本政府だって全くの善意でお金をあげたわけじゃあない。 アフリカで日本の家畜の飼料を作ってもらい、安く仕入れれば、日本のお肉が安くなる 結果 日本国民がお得になる って計算だった。 だったら 日本に家畜の飼料としている食料を輸出せずに、自分たちで食べればいいじゃないか? そうなっていないから、土地なしの難民 餓死者が出ているわけです。 じゃあ 親切は人のためならず? 日本の政治家は本当の目的を隠した工作員? 悪者? いえ、政治家の役割は日本国民が総合的に豊かになるため働くので、その担った役割通りに動いたまで。 国民は勝手です。 自分も豊かになりたいし、善意の人でもありたがる。 正義な人でありたがる。 その方が安心だから? 絶対的な正義がわからないのに。 そして、両方欲しがる。 どっちか少ないと 政治家に文句言う。 物質的豊かさと精神的豊かさ どっちも欲しがる。 表面上は日本はいいことをしているとすればいいじゃないか? アフリカの人が大量に毎日死のうが、日本がいいことをしたって思っていれば、それが真のユートピアってことでいいじゃないか? ええ、もう片方の真実を知らなければね。 残念ながら北朝鮮のように情報操作ができにくいので、現地の情報が聞えてしまいます。 って、、、あの、、、これ 極論じゃないですよね? 情報不足というか、、、、結局 絶対的な正義ってものを人間は知らないし、まさかこのようなことになるなんて って予想していなかったが、その予想もしなかったことが確率が高かったので自然というか、、、当然として起こったわけですよね。 創世記の話は一つじゃなくて 他にもある。 それには 神は人間に幻を見せ ユートピアで暮らしていると思わせて、こき使っていた となっています。 しかし 蛇が知恵を与えて、目が開き 神によって幻を見せられていたと知ることになり、そして今までもあった悲しみの存在を、この目が開いた時にやっと知った。 人間 エデンから追い出されてしまった となっていますが、実はエデンじゃあなかったので、逃げ出した? (確か ナグ・ハマディーだったと思います。) で、何事をやるにしても、人間は絶対的な正義を知らないので、いいことをしたつもりでいたのに、相手に怒鳴られてしまうこともあるので、自分がいい事をした って有頂天になっていると、なった分だけ手痛い目にあっちゃう。 自分が正義とするものは、必ずしも相手にとっても正義 とはならない。 >この多様な価値観というものをどうまとめて行ったらいいものか? 日本の場合は、痛みわけ ってものがある。 なんかごまかされたような気になる怪しげなものですが、なんとなく 損をした人が怒りまくって相手を殺すまでになりにくい共存の哲学 というか、、、 よくわかりませんが、なんか そんなものが日本には存在していますよね。 古代かなり争ってきた結果 こういうものを生み出したのかもしれない。 >それが「道徳性」なのかなと。 カントだったと思います。 情けは人のためならずな善意を偽りの道徳だと批判した人は。 カントは、自分が都合がいいとき親切をし、都合が悪いとやめるような条件付の道徳を批判した。 真の道徳とは 普遍的 定言的でなければならない。 としたと思います。 ただ。私に言わせれば「カント あんた 絶対的な道徳って何か知っているの?」です。 人間は絶対的な道徳がわからない。 それで、ルールってものをもうけた。 ひとまず、一つの共同体でそれをルールと定めたら、それを守っている限り、とやかく他人から言われなくてすむわけです。 (ルールを守っているだけで、善意じゃあない。) ところが、国によって、集団によってルールが違う。 そして認識も違う。 もめごとが起こるわけです。 お互い「あっちがおかしい」と批判する。 どっちも自分から見てしかできない。(私も他の人もそれから逃れられない。プラトンは「知らないから教えて」という質問をし続けることで、自分と違う見解を持つ相手の中に、自分が思う真理と同じものがあるかもしれないとし、あれば、それは普遍的な真理の可能性が高い としてアプローチしたらしい。) が、それでも、絶対的観察者じゃないから絶対的な正義がわからない。 もし、人類が絶対者で普遍の正義を認識できたら、国際紛争・内乱など起こらないわけです。 人間は絶対的な正義をしらない。 絶対的な普遍のユートピアがなんなのか知らない。 じゃあ どうするか。 自分がよかれと認識するものを、気が向いたらやる。 感謝など期待することなど無い。 相手が喜べば「自然のことです」といい、相手が逆におこれば「私 こう思ったからこうしたんだけど」っと一応説明する。 相手が理解して怒りが収まれば、「ふーーよかった」 だし、「お前の言うことは納得いかん!」となれば、気が向けばまた 「えっとですね」というし、やる気がうせて「もう いいや」って思えば、相手から悪者と認識されたままでもかまわないわけです。 (つまり関心が消えてしまったから) もちろん 裁判沙汰になれば、自分のために徹底的に争います。 正義のために戦うんじゃなく 自分のためにです。 ジャッジは絶対的正義を知らないが、一応 私よりマシな脳を持つでろう人間に任せる。 >そのために各人が普遍的に「思いやると」「謙虚になる」「マナーを気遣う」などの常識的意識が植え付けられなければと感じるわけです。 以前 仏教をやっている人に偽善について問うたことがあります。 「例えば自分がよかれと思ってボランティア献金したら、それがやくざの資金源となって、人が死んでしまったら、私は善をやったつもりで、悪人になるの?」と。 その人は「仏教の言う偽善の解釈はちょっと違うんです。 善意のつもりでやったのに悪の結果になったとき、その善は偽者になってしまう。だから 我々は善をやるにあたっても注意が必要。予想もしない悪になってしまう可能性もあるのだから。だから仏教では 善をやったとした人が 善をほどこされたとされる人に対して『ありがとう』と感謝する。」と。 謙虚 とか マナーとかとはちょっと違う。 徳を相手に積ませてもらった と相手に感謝する。 個人に帰依する。 これが情けは人のためならず。 相手に親切にすれば めぐりめぐって自分が徳をする というのともちょっと違う。 発生したと同時に完了する。 生まれたと同時に死を獲得するのと一緒。 >「無関心無理解無マナー」という常識?が「関心理解マナー」という常識に変わることが大事です。 関心を持つ。 だから私 質問を読んで関心を持ったので返信かきました。 問題が提起されたので、私が関心を持ったわけです。 そして、私は上のような考えに至ることを頭の中に持っていたので、なんとか言おうとして書きました。 が、お気づきのように、頭の中をくっきり整理して、文章化するのが苦手。 要するに頭があまりよろしくないんです。 ^^; (そんな私につきあわされたあなたも災難 笑) 最初の返信に一言「あなたは絶対ユートピアという幻に対するパトス、私は疑ってかかることでわかりっこないはずの真理に近づこうとするパトスによって存在している」 ってこれだけ書いてもよかったんですけどね。 まあ どっちに転がっても変わった人という認識にされるしかないような気がしますが ^^; では では。
お礼
ありがとうございます。 とても共感いたします。3回は読みましたので、とにかくいろいろな角度から書いていただいたことは、すべて柔軟な心を持つべきだという姿勢があることがわかりました。 関心を持ってもらったという一文が嬉しいです。
もう見てないかもしれませんが、 >「人も企業も人のためのみに行動する」 > という社会が実現したらどうなってしまうのでしょうか。 がご質問だとしたら、質問が、不器用と言うか、あまり上手ではないですね。 ドラスティックな答えしかお望みでないように受け取れます。ご自分の仮定の範囲でしか、答えがでなくなってしまう。なら、自分で考えればいいということになります。 人のため、を、なぜ目的にすべきと思いました? 人、というのは、個人ひとりひとりのことですか? 種としてのヒトのことですか? 現在生きている皆ですか? ヒトは、過去を抱えるように現在を生きていますが、また、未来へつながるために、ひとりひとりが現在を生きていますから、未来の利益をないがしろにしてはいけない生き物です。 もし、現在だけの善を追求すれば、善はかならず矛盾し、衝突します。 人は、生物的営みのほかに、芸術や学問を通して、過去を未来へ、自分の中を通過させる生き物です。音楽や、美術や、舞踊や、言葉はとくにそうですね。 人や企業が人のために行動する、ということは、あなたの想像する満足感や求めるものや幸せをたてるということと、直接はつながりがないです。 けれども、長く使えるもの、未来を汚染しないもの、システムとして長く有効なもの、過去をおろそかにしないもの、という根本理念をともなった物と行動の社会は、いずれ、実現します。 だが、その社会は、物の売り方や、利益の分配や、自己中心的考えが改善された個人社会や全体社会なのではなく、いまとはことなる科学と思想を持った社会ということです。
お礼
人のためというのは、実際に身近で、「人のためでない」行動をされると不快感を催すからです。そういうプラグマティックな問題から想起しました。未来の利益のためにも、人の心を大事にして生きるべきじゃないでしょうか。それは現在の善と衝突するとは考えられません。 芸術は現代をよくするのに役立つはずです。 >人や企業が人のために行動する、ということは、あなたの想像する満足感や求めるものや幸せをたてるということと、直接はつながりがないです。 いやあつながっていると思います。そんな価値観の転換が未来に訪れるとは信じられない。 >けれども、長く使えるもの、未来を汚染しないもの、システムとして長く有効なもの、過去をおろそかにしないもの、という根本理念をともなった物と行動の社会は、いずれ、実現します。 まさに現代に役立つものです。 なぜ現在と未来が断絶してしまうのか、よく分かりませんでした。
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
#7です。 補強をしてみたいと思います。 >しかし、もっと日常的な場面における「良心、寛容、やさしさ」みたいなものがどうも足りないでしょう?足りないと思います。 前回(#7)で回答したことは、確かにマクロ的な視点から書いています。 こちらは、ミクロの問題ですね。 日常で個々人が接する、数少ない人との関わりでの問題ですね。 もっとも、これとても集合すれば大きな社会問題化するわけですが。 (公共広告機構の、「電車は貴方の部屋ではありません」ってのが良い例ですね) リンク先は、公共広告機構の該当ページ http://www.ad-c.or.jp/campaign/self_area/06/index.html 確かに、こういった場面は増えた気はしますね。 私は、賃貸マンションで一人暮らししていますが、同じマンションの人とすれ違った時に「こんにちは」と挨拶しても無視されるか鬱陶しそうに睨まれるかのどちらかですしね(苦笑) お互いがお互いに干渉したくない社会になってるのでしょうね。(「私は貴方の生活に干渉しないから、貴方も私の生活に干渉しないで」って事でしょう。) 社会学的にも、成熟した社会はこうなる(個人主義化する)という説があるようです。 そして、その行き着く先は「大衆社会」であり「衆愚政治」です。(特に民主主義社会では) こうなれば、あとはその社会の崩壊が待ってるだけです。 どうも、今の日本はこのシナリオを迎えつつあるのではないか、と個人的に感じることはありますね。 ただ、これと逆の社会とも言える現象もあります。 貧困国にボランティア活動として、食べ物・衣類・家・飲料水etc...生活に必要なモノは全て無料で分け与えます。 そうすると、その国に生きる人々は働かなくなります。 そして、これら必需品の「配給」が滞ると文句を言うようになります。 つまり、「タダ飯喰らってるくせに、口は達者」状態になるわけです。 その結果、その国は貧困国から脱却するどころか、ボランティアの支援なしでは生きていけない人々で溢れかえることになる訳です。 ボランティアとして生活必需品を与えた人々は、「人のため(のみ)に行動」したはずです。 しかし、「貧困国からの脱却を手伝う」という目的とは対極の「貧困国の固定化」に手を貸したことになってしまった。 これは、嘘ではなく本当の話のようです。(アフリカを支援したNGOの話だったと思いますが、ちょっと情報ソースは失念してしまいましたが、NGOの課題を調べていたときに知った話です。) >もし、ユートピアかも知れませんませんが、 >「人も企業も人のためのみに行動する」 >という社会が実現したらどうなってしまうのでしょうか というご質問の参考になれば、幸いです。
お礼
不自然な状態になっている気がします。社会マナーにしてもボランティア奉仕活動にしても。もっと日常生活的に身近な人を思いやるとか関心を持つとかちょっといい気分にさせてやれというものがないのでしょうかね。 列車マナーについて、広告機構の言う事はまったくその通りなのですが、もっと疑問に感じていることがあって、次の電車が20分くらい来ない駅で駆け込み(駆け込みとまで行かなくても急ぎ足)のりしようとしている人に、なんで道を空けないんだと思いますね。私は無意識によけるんですけど。
- shift-2007
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#5です もちろん私は絶望感によってこの回答をしたわけではありません。 >本当に「改心」は不可能でしょうか?そんな事はないと信じてます。 確かに光がないところに影なしですが、光のみが存在していてもいいのではないでしょうか。 おっしゃるように改心が必要なのです。例えが悪かったかもしれませんが、影が追いかけている光は自分自身の理想なのです。言い方を変えれば、影が光を作っているのです。ゆえに本当の光とは違うものなのです。影は自分自身を影と認めていません。理解していないといってもいいです。もし、理想としての光を追う事をやめて、影が自分自身を影と認識し理解したとき、その時影は影ではなくなるのではないでしょうか。影でないもの、それが光ではないでしょうか。私はそれを「改心」だとおもいます。光を追うのではなく自らが光となるのです。光によって作られた社会こそが理想ではない社会、影が本当に求めていた社会ではないでしょうか。 影による一人芝居に終止符を打たなければ影は永遠に影のままだと思います。そして光(ユートピア)は永遠に実現しないと思います。 bossambaさんの質問に戻るならば、我々自身が社会(影)の一部であり全体であることを理解しなければ社会を変えることはできないと思います。まず我々が変わることが必要なのではないでしょうか。
お礼
「反省」の精神ですよね。それが質を180度転換させるかもしれません。 「理解」「反省」「内省」 そういう言葉が他の日常用語と同様の頻度慣用性を持つ社会こそ、求められるものです。
- tokytime
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No.6です。 他者のため・・と言う場合 本当にそれが他者ならびに自分のためになるのか・・ その他者にとって最も大切なことは、本当に本人が望んでいることでいいのか、それで本当に幸せになれるのか・・ 自分自身が他者のためと思って一生懸命に行動していることが、本当にその人のためになることなのか・・・ などど色々難しい問題が起こります。 これを解決できるのは当事者の「視野の広さ」です。 トンチンカンな善を為す場合、原因は当事者の心の視野の狭さだと思います。 心の視野が狭いから自分からみた解釈しかできないのです。 別の考え方があることが分からない・・。 他の間違った考え(のように見える行為)もその立場にたてば、それなりの事情と原因を抱えていることが理解できない。・・ 人は誰でもこのような心の視野の狭さを抱えていると思います。 だからこそ争いが起こり、戦争が起こり、世の中の不平等が存在します。 世の大宗教家、哲学者などと呼ばれている方々は、歴史上最も視野の広い人たちでしょう。 でも、一般人はその狭い心の視野の中で、精一杯意考えて、誠意を尽くすしかないでしょう。 そして、そのトンチンカンな行為によってかえって恨まれたり、非難されたり、大切な人と決裂したりします。 そして相手のことを、何て酷い人だろう・・と憤慨し、自分の不幸、災難をなげきます。 中には人間不信に陥って、二度と人の為になんか尽くすもんか・・と言う人もいるでしょう。 しかし・・です。 人はその失敗の繰り返しの中で何かを学んでいきます。 時には逆の立場になって、ありがた迷惑を経験し、少しずつ相手の立場に立って考えられるようになります。 いつも心の中に「誠実さと思いやり」を持っている限り、心の視野を拡大していけると思います。 そして何時の日か、世の大宗教家や哲学者と同じくらい広い視野を持つことができるでしょう。 他者に対する思いやりや誠意をもたない人は、遅々としてなかなか進歩がないかもしれませんね。 心の状態は本人にしかコントロール出来ないので致し方ありません。 人は所詮、精神のレベルがマチマチで、他人を本当に理解するなんて出来ないと思います。 それぞれのレベルで理解して、努力するしかないでしょう。 そして、自分の考えに沿って、 人生一度きり・・と思っている人は死ぬまでに出来る限り視野を広げ、達成感と幸福を味わう・・ 「輪廻転生」を信じている人は、魂が人生の数だけ、その努力の数だけ視野を広げていける事を信じて、すべての努力がいつか実ることを確信しながら努力すればいいのです。 とまあ・・現在の私の視野の狭さでは、これくらいのことしか書けません。 他の色々な考え方も有るとおもいます。どうか悪しからず。
お礼
最後ご回答ありがとうございます。 人は現在ある能力で「良心」を持つことは可能だともいます。 それがあれば、心の能力をアップできなくても、ほとんどの問題は消えるのではないでしょうか。 能力のなさというより心の持ち方、良心の持ち方を誤っているために、人に不利益憤りを与えるような事態が起こる面のほうが大きくないでしょうか。
お礼
結局「人との断絶」感が原因なんですよね。 なぜなら「人を理解する事ができない、能力を超えている」 その結果お互いよろいを着て生きている。 しかし >自分と他人とは実は表裏一体の、同じ全体の一部である・・ この認識は妄想ではないはずです。 >心からどろどろした恨み、妬み、憎しみ、貪欲 穏やかにならないと、無理ですよね。どうしても自分が損してなるか!という飢餓状態ですからね。 そして「善行」が必ずしも宗教上の教条でなく、実生活上の必要事項であることが「理性」で悟る事ができるくらいの精神レヴェルに、人間が平均的になることが必要なのでしょうね。