• ベストアンサー

臨済録

臨済録の臨済の四料揀について教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.5

#3です。  補足有り難うございます。  自分は、お寺さんと接する機会のある仕事をしていますが一般人です。少しばかりかじった程度の者ですので、実際「何もわかってない」のですけど・・・  臨済録は、時折無性に読みたくなるといいますか・・・あの禅僧ならではの鋭敏な切れ味と強烈な扇動性は、常に読むには毒がありすぎますけど、たまに読むといいなと思います。  基本的に、臨済録は「ストレートで味わう」ことが良いと思っています。わからなくても何度も読んで、自分なりに感じるというところが良いかと。説明・解説でもって言を重ねて理解するというのは、「禅」的ではないだろうと思うので。  とエラそーに言いつつも、凡俗の哀しさで、四料揀のあの例え話は、原文を読むだけではさっぱりチンプンカンプンで、何かないかと見てみたものが前回ご紹介した本です。  禅系の僧侶さんなど「関係者」であれば、宗派学問(宗学)的なアプローチも必要かと思うのですが、一般の場合むしろかえって害になるかと思い、臨済録関係の本は、入矢氏の訳注と、前田氏の本しか読んでいません。  わかる・わからないよりも、とりあえず「四料揀」が主・客の関係を便宜的に示して見せたものであるということと、例えの意味合いとを押さえられれば、それでよいのではないかな、と思います。  そこから先は、もう正解があってない禅問答の世界であり、自身によってのみ探求できる「無事の人」への道になるのかと思います。  自分にとっても臨済録は、はるかな高みに仰ぐ難しい書物ですが・・・天守閣を陥とすには外堀・内堀から埋めて、というところかと。  ご質問者さんはかなり仏典に触れておられるようですが、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』はお読みになりましたか?これまた一生かかって取っ組み合うぐらいの天守閣級の書物ですが、仏教の「空」はこの書籍に尽きます。  流れとしては「空」があっての「禅」になります。臨済録のような言語超越や、四料揀の部分に見られるような論の立て方は、空思想の背景が大きいでしょう。概説書からでももちらん構わないですので、空思想から禅へ向かった方が良いと思います。  インドでは「無」と「空」は異なるものですが、道教を取っ掛かりに仏教を理解した中国においては、無はかなり空に接近した感じになっていますので、そのあたりも少々話しがややこしくなります。(取りあえず空と無は「同義」としておいた方がよいかと。)  自分もよくわかってないので、すみませんが・・・では。

dogendd
質問者

お礼

お答えありがとうございました。 とにかく中論を読むよりも参考になりました。(笑) なぜ大乗仏教が空を説くのか、といった空の大乗展開から禅の流れがでたというのはなるほどと思いました。仏教は用語が多すぎて、しかも皆大事みたいで、なにがなんだかだったんですが、やっぱり「空」そのものの論理って一番大切なんですね。 空が大乗の中心思想でそこから禅も現われ始める、しかし禅はともすればへんなかんじがする、つまり「空」の思想が中論のように(八不中道しか知らないんですが)読み取ることが困難きわまりない、読み取っても不立文字だし、ならば禅宗も大乗ならば中論や般若経や空の理論は絶対学んでいるはずだと(学んでいなかったり)。禅や公案をただしていても、「空」やまさに「中論」とかを知っていないと、「空しい」ものになるという感じはしており、しかし自分は実際の現場は知らないのでそういった「空」に関しての指導はしていないとおかしいような違和感は感じていたのですが、「空から学ぶ」というのは「空」を学ばない禅の危険性みたいものが分った気がいたしました。ていうか「空」なんですよね。やっぱ。 よくわからせていただきました。ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.4

>>N0.2補足 >どちらにしろ、「人を奪う」とか「境を奪う」の意味が入矢義高さんの「臨済録」ではよく分からなかったものでして。  人(主体)、境(客体)として考えたとき、主体を奪うとか、客体を奪うとかあんまり言わない気がしますよ。  この説法は、争いごとのことを言っていると思うので、無理に主体、客体のことについて話ととらえない方がいいんじゃないんすか?  主体、客体の話とするならば、無我とか真我、因縁、仮我、無自性とかの話にもっと関連している方がいいですよ。

dogendd
質問者

補足

お答えありがとうございました。 アングリマーラの話で仏陀を殺そうとしたが、いくら追いかけても、仏陀が滑るように動いていってしまうため、追いつけなくて、「おかしい」と思ったアングリマーラが「止まれ」と言った。すると仏陀は、振り向きざま、「私は止まっている。動いているのはおまえのほうだ」と言った。自分が動いていて、つかまえられないのだから、相手が動いていないわけはない。それなのに相手は「私は動いていない。動いているのはおまえのほうだ」と言っている。なぜなんだ」ときょとんとしたという話があるんですが、それで回心したらしいが、よく考えるとそんなことぐらいで「ああ、お許しください」なんていうかとも思いますが、そうした主客逆転みたいなことをいって相手を悟らしめるのが禅の起源らしいです。これが「空」や「無」の思想に繋がっていくらしいですが。とくに「無」に関係しているらしい。

  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.3

こんばんは。  ご説明できるほどの者ではないのですが・・・  入矢義高訳注の『臨済録』というと、岩波文庫のものですかね?  同じ岩波文庫の前田利鎌著『臨済・荘子』(青179-1)はご覧になられましたか?(もし既読であればすみません。)  量的には数ページですが、端的な解説があります。自分にはもう一段解説してほしい・・・と思うぐらいなのですが、取り付く島にはなりました。  ご質問者さんは、臨済録本文をかなり読み込んでおられるようなので、もしもこの本を未読であれば役立つかな、と思いまして。  お邪魔しました。では。

dogendd
質問者

補足

お答えありがとうございました。 もしよろしかったら、その本からどういったことが分ったのかお教えいただけないでしょうか。それから臨済はアマゾンの評価ではおもしろいみたいだったので、やさしいかと思ったら、超超超超超超超上級ではないですか。もしかして臨済宗の関係の方なのでしょうか。

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.2

>>No1.補足 >どの歌も詳しく説明してもらえればありがたいんですが、とくに最後がちょっと状況がわかりづらいのでお願いします。あと悟りの境涯の高さを示しているのかどうかがよくわからない 確かに、この歌は悟りの境涯の高さを示していると思います。 「人を奪って境も奪うと、へい州と汾州とは断絶して、独立の地盤を築いた。」というのは、今まで良い関係だったのに、個々の国同士でいがみあって争い生むので、最悪の境地だと自分は思います。  また、「人を奪わないで境も奪わないと、国王は命令せずに老農は野に歌う。」という場合が、国王は一生懸命命令をする必要もなく、老農も苦しまず、安穏とした最高の境地であると思いますよ。 >「人境倶不奪」が無事の人を現わしているのでしょうか。 人を修飾している訳ではないと思いますよ。 どうも「倶」という言葉は「共に」と同じ意味であるようですから、「人境倶不奪」の意味は人と境共に奪わないという意味になるのだと思います。

dogendd
質問者

補足

仏教ではもともとこのように人(主体)と境(客体)といった考え方をしないもので、主体とか客体ではないのかなと思いまして。 しかし、人を奪うケースとして、 臨済言う、「煦日発生して地に鋪く錦、ヨウ孩髪を垂れて白きこと糸の如し」(境を奪わない) (意味)風景として一体となっている。調和している。外の世界。 臨済言う、「へい汾絶信、独処一方」(境を奪う) (意味)謀反して中央政府との連絡を絶った、二つに分かれる。外の世界。 >個々の国同士でいがみあって争い生むので、最悪の境地だ。 人を奪わない時は、 臨済言う、「王、宝殿に登れば、野老謳歌す」(境を奪わない) (意味)王を仏として、野老を凡夫とすれば、仏我一如となる。王と野老は一つ。 >安穏とした最高の境地であると。 臨済言う、「王令已に行われて天下にあまねし、将軍塞外に煙塵を絶す」(境を奪う) (意味)仏法を学んではいるが、仏にはなっていない。王と将軍は区別される。 ということかなと。 無事の人とは、 臨済言う、「君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ」という、自己と釈迦は別ならず、といったことでして。 どちらにしろ、「人を奪う」とか「境を奪う」の意味が入矢義高さんの「臨済録」ではよく分からなかったものでして。

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.1

>臨済録の臨済の四料揀について教えてください。 この質問だと範囲が広すぎるのではないのでしょうか? もっと臨済の四料揀の具体的内容を記述すれば、回答しやすいと思うのですが。

dogendd
質問者

補足

人を奪わないで境を奪うと、国王が出てきて命令をして、将軍が辺境を見張る。 人を奪わないで境も奪わないと、国王は命令せずに老農は野に歌う。 人を奪って境を奪わないと、大地は錦、みどり児の髪は絹糸のように白い。 人を奪って境も奪うと、へい州と汾州とは断絶して、独立の地盤を築いた。   どの歌も詳しく説明してもらえればありがたいんですが、とくに最後がちょっと状況がわかりづらいのでお願いします。あと悟りの境涯の高さを示しているのかどうかがよくわからないのと「人境倶不奪」が無事の人を現わしているのでしょうか。

関連するQ&A