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隋・唐長安城と同じような都市
隋・唐期の長安城は都市全体が牆壁で囲まれていたそうですが、同時代の中国で同様の形態の都市は存在していたのでしょうか? また他の時代、他の国ではどうでしょう。それなりの規模の都市がまるまる壁で囲われているケースはあったのでしょうか? さらに長安城は外周だけでなく、各区画(坊)も高い壁で仕切られていたそうですが、こういう形態はどうでしょう?他の時代や国で例はあるのでしょうか? よろしくお願いします。
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近代以前の都市は、防衛のため市街地を城壁で囲むのが当然でした。城壁という用語は、誤解を招きますね。専門的には、囲郭都市と呼ぶことがあります。城壁のない都市は、甲羅のない蟹のごとしというたとえがあります。 ヨーロッパの大都市では、19世紀末に城壁の撤去が始まり、その跡地は環状道路に使われる例が多いようです。典型例はパリです。なお、パリの地下鉄にはポルトという言葉から始まる駅名が環状道路近くに沢山分布していますが、これは城壁の門を意味しています。鉄砲や馬車の時代には城壁は重要でしたが、大砲と鉄道の時代に入ると、城壁で守る、出入りをコントロールするという意味は失われてしまいました。しかし、地方の小都市には、なお城壁を残しているところがあり、貴重な観光資源になっています。ドイツのロマンチック街道などがその例でしょう。 なお、都市が発展すると城壁のなかに収まりきれなくなりますが、その場合は、外側に城壁を新たに設けます。それこそ、蟹の脱皮ですね。アムステルダムは、何重にも古い城壁の跡が残っています。 外国からの敵に攻められる心配が少ない日本では、市街地全体を壁で囲む必要が乏しかったようです。その例外が堺ですが、姫路も壁で囲われていました。 身分や職業で住み分けが進んでいた日本では、壁で市街地を仕切ることはなかったのではないかと思いますが、江戸は町内を木戸で仕切り、自身番をおいて警護に当たりました。また、主要街道の入り口には大木戸を設けました。
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- Tacosan
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規模では勝てないけど重要性なら匹敵するかもしれないアテネとか. こちらもローマ同様外港のピレウスまでの道も城壁で囲っていました. ペロポンネソス戦争で負けたために壊さざるをえなくなっちゃいましたが.
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ご回答ありがとうございます。 アテネもそんなに囲ってたんですか。 考えてみれば高い建物造るのは難しいけど、壁は労働力さえあればいくらでも伸ばせますもんねえ。 攻められるよりはいいですよね。
- a-koshino
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日本では、安土桃山時代に惣構えという工夫が流行します。 城下町を城の一部に取りこむもので、秀吉の作らせた大坂城が代表です。大坂の町全体が、城の中にありました。 ちなみにバグダード城内には、黄金門宮と大モスクを中心に諸官庁、親衛隊の駐屯所、カリフ一族の館などがあり、市場などは城外にありました。城外も含めての100万都市です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 調べました。 冬の陣とか、ちゃんとこの惣構えで戦ったんですねえ。 負けたけど…。 日本の場合、堀と塀のセットで仕切ることが多いんですかねえ。
- tanuki4u
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補足 古代の巨大城壁都市というと 前70年の段階で 古代ローマは人口50万 アウグストゥスの段階で、100万 ご丁寧に、外港であるオスティアまで道路を城壁で囲っておりました。 東ローマの コンスタンティノポリスで 30万~40万程度(十字軍直前) バクダッドも最盛期には100万を超えていたようです。 この辺の都市は、城壁都市。 日本の城壁では、ちょろちょろ検索したら 平城京:なかった説強し 平安京:なかった のようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 バクダッドは時代的にも長安とかぶりますし、長安の碁盤目に対してバクダッドは正円形と、対比が面白いですねえ。 だけどバクダッドの正円は直径2.35キロメートルということで、面積は4.3平方キロメートルくらいですか?長安の84平方キロメートルの20分の1くらいだから100万人収用はキビしいと思うのですが…。 バクダッドの城壁は都市全体を囲ってはいなかったのではないでしょうか?
- sudacyu
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No5さん、訂正有難うございます。 芥川龍之介の作品名にもあるように「羅生門」=羅城門が、京の入り口です。 朱雀門は、大内裏(朝廷:政府機関のある区画の入り口)の南に面した正門で、朱雀大路の始点です。 尚、平安京の場合は、内裏(宮、いわゆる宮中で、大内裏の中にあります。)への入り口は、南から建禮門を通って承明門が正門になります。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
平城京や平安京では, 南側の一部と北側の一部 (宮が接するところ) にだけ壁 (羅城) があったんじゃないかな. 日本の場合「京の壁にある門」が (朱雀大路の終点の) 1個 だけなのでこれを「羅城門」と呼ぶんだけど, 本来は壁 = 羅城にある門は全て「羅城門」. ちなみに「朱雀門」は宮の正門かつ朱雀大路の始点であり, 羅城門ではありません.
お礼
ご回答ありがとうございます。 知りませんでした。
- sudacyu
- ベストアンサー率35% (687/1961)
規模は小さくても、中国の古代都市は皆、ミニ長安だったと思っていいと思います。 三国志を読めば解ると思いますが、地方でも政治の中心地はみな、城壁で囲まれていました。 ヨーロッパでも城壁で囲まれているのが普通で、城壁がないのが例外的と思ってもいいほどです。 有名なのは、古代ローマでしょう。長く城壁で囲まれていたのが、有名なジュリアス=シーザー(カエサル)によって、城壁を穴だらけにされ、事実上「城壁のない都市」になりました。 これは、ローマが強大になり領土も増え、首都に住む人口が50万を超え(一説には100万以上とも)、城壁の中に都市が納まらなくなり、道や建物を作るときに、邪魔になった部分の城壁を取り壊したからです。 また、彼はローマは国境で守る政策を取り、大規模な野盗集団などは皆無・攻め込む外国軍もない国の基礎を作りました。 この城壁のない都市、ローマもシーザーの時代から300年ほどたった頃、国力の衰えがみられるようになったので、ローマ全体を囲む城壁が作られました。(アウレリアヌス城壁) もっとも、この城壁が作られてからも100年以上、異国の軍勢がローマの城壁をみることはありませんでした。(さすが、腐っても鯛) ローマの城壁の中に、異国の軍勢が入り略奪を受けたときには、戦いはほとんどなく、衰退するローマ人の意識そのものが戦闘意欲を欠いていて、あっけないほどでした。 尚、日本の平安京・平城京では門はあるが、城壁と呼べるものはありませんでした。(朱雀門の両脇などには、塀程度のものはありましたが、都市全体を囲っていたものではないようです。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 さすがローマ帝国、何百年も後の長安と比べても全く見劣りしませんねえ。 都市に壁があるのは昔のスタンダードで、むしろ壁以外の部分で長安やローマは突出していたため比肩する都市が少なく見えるんですね。 長安にせよローマにせよ、ちょっと現代では景観が想像し難い規模で、大いに惹かれます。 ところで仕切りはどうでしょう?洛陽とかにもあったんでしょうか?
- nemosan
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高い壁でなく、深い堀で囲まれた都市ですが… 信長時代の国際貿易&自治都市「堺」はどうです。 http://www.city.sakai.osaka.jp/kyoiku/_syougai/_maibun/book/sakaikan.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 魅力的な都市ですね。 ただ、やはり堀だと結構往時が想像できてしまいます。 ダイナミズムの面では長安ですかねえ…、勝手な感想ですみません。
- tanuki4u
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都市というものは、城壁で囲まれているのが基本です。 日本のように、城壁の意味をよく分からずに形だけまねて、平城京・平安京を作ったという方が、世界的に見れば レアです。 都市丸ごとの籠城戦が当たり前だったからです。 近代以前からある都市は、基本的に城壁内のみが都市であったと考えて間違いないです。 ※ 城壁がないのは、1701年に作られた ベルリンの壁があったベルリンとか、ウォール街のあるニューヨークとか(この辺はだじゃれみたいだ、まぁウォール街の壁も、ニューヨークがめちゃくちゃ小さな街だったときの壁なのですが) 日本でのレアな実例を考えると、まねしただけの平城京・平安京以外では、弥生時代の環濠村落か、戦国期の総構えくらいです。京都では、秀吉によって御土居がつくられました。
補足
ご回答ありがとうございます。 私自身、深く考えずに質問してしまったのですが、考えてみれば都市という概念自体時代と共に変化しますもんね。 やはり曖昧になってしまいますが、現代的な意味に近いイメージの「都市」ではどうでしょう? つまり、城の中にまるごと一族や領民を抱え込んだようなイメージの都市ではなく、それなりに人口(市民)があり、ある程度開放的に人が行き来するような感じの都市です。 例えば長安は人口100万(これは多過ぎですが)で、複数の民族が行き来する交通の要衝で、複数の宗教の寺院が混在していました。 こういう国際都市といっていい都市が、外周全部を防御柵とかではなく、「壁」で囲まれ、仕切られているのは結構珍しいように思ったのですが…。 そういう長安と比較対象になる「壁に囲まれた都市」が存在したのかどうか教えて下さい(曖昧ですみません)。 平安京、平城京は城門はありましたが壁で囲ってはいなかったように思いますが…。
- Scull
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この時代の物に限らず、世界的に都市全体を防壁で囲んだ「城市(城塞都市)」という形態は比較的多く見られると思います。逆に、「ある程度の規模であれば大抵は城壁で防護されていた」のではないでしょうか。 たとえば日本では平城京や平安京がそうですし、ヨーロッパでも多くは城塞都市であったと聞きます。 外敵から市民を防護する事で人口を確保する事は、為政者として権力基盤を安定させる事になります。また、物資の出入りを城門で管理する事で徴税をもれなく行う事が可能です。各地で発達した城塞都市はそう言うメリットがあると思います。 各区画が区切られていた例としては、江戸の「木戸」があると思います。他国の例は存じません。すみません。
お礼
ご回答有り難うございます。 よろしければ、No.2の方の補足欄に書かせて頂いた内容にて再考頂ければありがたいです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 勉強になります。 だいぶ都市と城壁の関係への理解が深まってきたように思います。 確かに城壁という言葉はまぎらわしいですが、それだけ城と都市の境界が昔は曖昧であったということでしょうね。 ただ、都市の「城」的な要素や機能、つまり外敵に攻められたときのことを考えれば、どこまでを囲うか、何を囲うかは結構難しい問題だったでしょうね。 その点、長安は結構無駄に空地まで囲ってたみたいですし、その規模や、左右対称で仕切りまでつける「余裕」がなんかカッコいいなあと思います。べつにどうしても長安をヒイキしたい訳では(たぶん)ありませが…。 江戸の木戸って、長安の仕切りと造りなんかはだいぶ違いますが、目的はほぼ同じな感じがしますねえ。