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仏教の根元

仏教の根元を4つの単語でいうなら、諸法無我,諸行無常,涅槃寂静,一切皆苦でしょう? これらの意味が分かっても、全く救われる気がしてこないのは私だけでしょうか?

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回答No.5

>>仏教の根元を4つの単語でいうなら、諸法無我,諸行無常,涅槃寂静,一切皆苦でしょう?これらの意味が分かっても、全く救われる気がしてこないのは私だけでしょうか?  アハハハハ。あなた素直な人ですねぇ。私も同意見です。  私も意味は知っていますが、救われる気がしない人間のひとりです。お仲間ですね?なぜかといえば、仏教は意味を理解するためのものではなく、真理を体得するためのものだからではないでしょうか。  いくら釈尊の言ったことを、意味として理解したからといって自分の生活に生かさなくては、まったくの絵に描いた餅です。私もそのなかなか体得できないくちの凡夫なんですが、ちょっと私の解釈を加えながら意味についておさらいしてみましょう。 諸法無我 私たちは自身の現に私がいるってことを通じて、そこに幼い時から現在にいたるまで成長して変化していることは認めるものの、そこに私と呼ぶ変化しない「我」を想定し、成長変化続けてきた私なるものをつかまえて、私は私であると考えています。しかし、それを仏教では「我執(自分への執着)」なのです。諸法無我は、この考え方をしりぞけて、変化するものこそ私なのだと説くのです。この意味で、「諸法無我」とは自己としてそこにあるのではなく、まわりの一切の力の中にお互いにお互いがさせあって生かし生かされる関係にあるとして、縁起(ご縁)のなかで生かされているということを解きます。  ようするに「お前は一人じゃないぜぃ」って教えな訳ですよ。 諸行無常  諸行無常は現実存在なんていわれるもの全部姿だとか本質なんてのも、いつもに流動的に変化しつづけるもの、一瞬といえども次の一瞬には違うものになってしまうい、同一性を一瞬たりとも保持することができないことをいいます。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいいます。  ゆうなれば、人のうわさも七十五日とか、「そのうち何とかなるだろう。」てなくらいでいいんじゃないかな。 涅槃寂静  仏教が他の教えと根本的に違うことを示すんだそうです。煩悩の炎を全て消し去った悟りの世界(涅槃)は、チョー安らかで静やかな心持(寂静)っていうことです。つまり、仏教本来の意味からすると、涅槃とはいっさいのとらわれ・辺見から解放された自由の境地である。  だから、「自由だぁ~!!」てな境地になるわけですよ。 一切皆苦 仏教ではこの世の中は一切皆苦って言うくらいでですから、世の中の出来事は全部苦なんでしょう。「苦」とは、「自分の思い通りにならない」ということなのです。苦にもいろいろありますが、日常的にかんじるくには、肉体的な苦と精神的な苦に分けたりします。しかしながらそういったものが苦ではありますが、楽しいと思ったりしてたことが壊れちゃったらその楽しいことが苦になったりしちゃいます。全てのことは無常であって壊れたりなくなったりするからこそ苦であるとされます。すなわち、苦になりえる可能性のないものは何もないってことです。  「ちっちゃいことで、くよくよするな」ってことだと思います。ひとつの苦にこだわっていると、次から次に出てくるわけですから嫌になっちゃいますからね。  まぁ、こんなところでしょうか。こんなふうに単純な言葉に置きかえてみても楽しいですよ。難しい言葉でで書いてあるなら、簡単な言葉にしちゃえばいいんです。もちろんこんな解釈学問的に間違ってるって言ったらそれまでなんですけどね。それでも自分で解釈するということにチャレンジしてみてください。何より自分で考えることが大切です。そのことが救われなくとも、何か得られるはずです。  そして得たものをどう生かすかはあなた次第です。  くだらん解釈を長々連ねましたが、参考にしていただければさいわいです。   合掌 南無阿弥陀佛  

pas26
質問者

お礼

>自分で解釈するということにチャレンジしてみてください。 まだ仏教を勉強し始めて日が浅いのですが、とりあえず出来るだけ頑張ってみます。 >何より自分で考えることが大切です。 そうですね、仏教は哲学的な一面も持ってますから、日々精進していきたいですね。 とても詳しい説明とアドバイスどうもありがとうございました!

その他の回答 (5)

  • 1katyan
  • ベストアンサー率18% (147/800)
回答No.6

これは経験と悟り、長い年月をかけて そして長いお経を凝縮させたもの、すぐに理解できないでしょうね

pas26
質問者

お礼

そうですかー、アドバイスありがとうございました!

  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.4

これらの言葉は単に単語の羅列で それ自体には意味はなく、 読むひとが意味付けをおこなっているだけではないでしょうか。 諸行(すべてのものという意味で)には それぞれに意味や目的めいたものはなく、 人が意味つけをおこなっていることで その意味や解釈の違いによる争いは虚しいと ある一面では 諭している言葉と考えます。

pas26
質問者

お礼

>人が意味つけをおこなっていることで その意味や解釈の違いによる争いは虚しいと ある一面では 諭している言葉と考えます。 なるほどー、そんな解釈もあるのですね。 アドバイスどうもありがとうございました!

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.3

>>これらの意味が分かっても、全く救われる気がしてこないのは私だけでしょうか? 「救われる気がしない」っていうのは、何か悩みがあるからでしょう?その4つの単語を知ることで、例えばサラ金の借金が消えるとか、明日から派遣だったのが正社員になるとか、プロポーズOkの返事がもらえるなんてことを期待しても無理ですよ。 その意味するところは、「この世で生きる意味を知って、人生に対する価値観を改めよ。この世は仮の世であり、本来、魂の生きる場所はあの世である。」っていいたいのだと思います。 信長が愛した幸若舞の「敦盛」の一節に「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一たび生を得て滅せぬ者のあるべきか」=(人の一生はせいぜい五十年。それも下天(六欲天の第五にあたる化楽天、あの世)においては一日一夜にしかあたらない。まことに夢幻のようなつかのまの一生であることか・・)とあります。 信長は分かっていたようですね。(でも、信長は地獄、光秀は天皇を守った?として天国に行ったようですけどね) つまり、この世の人生の意味・目的を知ってしまえば、悩み・苦しみの原因となる事象が消えるわけではないけど、その事象が自分の人生にとって意味あって用意されていることとわかり、逃げることなく正面から向かえるようになる、あるいは時を待って耐えられるような心境になれるわけですよ。 初めて、自転車に乗れるようになるには、それなりに練習する時間が必要ですよね。いくら「自転車の乗り方」ってテキストを読んで理解しても、乗れるようにはなれません。ある程度の練習時間が必要なんです。 その4つの四文字単語を本当に知るには、自転車の練習以上に長い学習や反省の時間が必要です。で、そうして学習を続けているある日、散歩している時とかお風呂に入っているとき、あるいは月を見ている時などに、突然に理解ができます。それは1年後か、10年後かは分かりませんが・・・。

pas26
質問者

お礼

>その4つの四文字単語を本当に知るには、自転車の練習以上に長い学習や反省の時間が必要です。 そうですかー、何分仏教を勉強して日が浅いので、分からないことだらけです。これから、いろいろと精進していきたいと思います。 アドバイスどうもありがとうございました!

回答No.2

pas26さん、こんばんは。 どこぞで耳にしたことのある四字熟語… 諸法無我 諸行無常 涅槃寂静 一切皆苦 さっきからこの四字熟語とにらめっこしてますがなんなんでしょうね?うーん、わかんなぁーい。むずむず、ムズガユクなってきます。かぃーぃ!ったりゃありゃしない。難しいなぁー。だんだんみてるこっちの顔が険しくもなってきます。あっ、いま笑った?まだ笑ってない。そですか、 ●意味がわかっても、全く救われない気がしてこないのは私だけでしょうか? はい、約一名ここに意味がわかると救われる気がする者が…います。だってムズムズしてかゆいんだもん。私が思うにこの四字熟語はきっと、我慢比べの指標ではないでしょうか?仮説です。そうでも思わないと、顔がどんどんへんてこりんに…クニュグニュデヘェー あっ? いま笑った? http://www.jri.co.jp/pro-eng/struct/basic/in-yo/index.html

参考URL:
http://www.jri.co.jp/pro-eng/struct/basic/in-yo/index.html
pas26
質問者

お礼

とりあえず、アドバイスありがとうございました! 参考URLは、私の質問となんら関係ないと思われるのですが・・・。 それと、私の質問にプラスにならない文章はご遠慮ください。

  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.1

こんばんは。。  身もフタもない、という感じに受け取られたのですかね??  仏教では「法」(この場合の法は諸法無我の法とは異なり、「真理」のこと)が重要視されるので、四法印で説かれるのは、本当に身もフタもない「真理」であって、それだけ聞いて小膝を叩いて「そうだったのか!」と救われた(?)気分に到達できる人は、ごくまれでしょう。  仏教の歴史は、ある意味、そのあまりに身もフタもない真理を、どうにかして解ってもらおうとした人々と、どうにかして取り付く島を得たいと願った人々の、とても熱い、四苦八苦(?)の歴史だと感じています。  個人的には、仏教には誰か(仏や自分以外の他者)が誰か(迷える人)を「救う」とか、他者によって「救われる」という構図はない、と思っています。  仏教は個的内的な傾向が強く、「救う」という表現が適切なのかどうかはわかりませんが、自分で自分を救うという感じの宗教だろうか、と思っています。  仏教でも他者救済(利他行)を説きますし、とくに大乗仏教では非常に重要な点ではあるのですが、世界を心の造作したものであり、本来無我・無常なものと捉えている仏教では、自も他もないわけで、「救う」立場も「救われる」立場もないわけです。  アプローチの仕方を変えてみてはいかがでしょう?それと、どういう形であれ、ご自身が法に触れた機縁を生かそうとし続けることが大切なのかな、と思いました。では。

pas26
質問者

お礼

>どういう形であれ、ご自身が法に触れた機縁を生かそうとし続けることが大切なのかな そうですね、詳しく的確なアドバイスありがとうございました!

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