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山之内一豊の弾圧について

 山之内一豊というと彼の妻・千代が嫁ぐ時に持ってきた金を夫の為に差し出して名馬を買った「内助の功」により《山之内一豊の妻》が彼女自身の名の「千代」を霞ませるくらい有名ですが、一豊は何故、四国で長宗我部の遺臣を弾圧したのでしょうか?山之内家の家臣を上士とし、長宗我部の遺臣を郷士と定め冷遇し、それに怒って一揆を長宗我部の遺臣を処刑したとか。何故、一豊は長宗我部の遺臣や民の心情を考え不満や恨みがそのような騒乱に結びつかぬような政策を取らずに、逆に彼らを虐殺したのでしょうか?乱を未然に防ぐように心を砕はず筈なのに。

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  • komes
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回答No.2

土佐は統治の難地と見られていたようです。 家康としては関ヶ原で功労のあった山内一豊に恩賞を与えぬ訳にいかずその器量を見る為統治の困難な土佐を与え、うまくいかねばそれを口実に取りつぶす事も視野のうちにあったのでは・・・ 統治の困難は兵農分離が進まず一両具足という制度が定着していたからです。 彼らは土地持ちの武士でその収穫を領主からみれば私していたので年貢の埒外でした。 既に封建制度での領主として土佐に着任した山内一豊にしてみれば行政上の癌であったわけです。 しかしなるべくならば騒動なく収めたかったでしょうが、旧主をうしなった一領具足達の反抗は激しく、山内自身も我が身を思いやむなく非常手段として一両具足中の強力なメンバーの排除をおこなわざるを得なかったのだと思います。 一種の恐怖政治といえましょう。 時間的に追いつめられた決断でした。 この時の難儀の記憶から土佐の旧臣を郷士の身分に落とし区別したのだと思います。

rosetta
質問者

お礼

ありがとうございました。  恐怖政治ですか。時間的に追いつめられ、保身と邪魔者の排除とが絡まり合ったものだったのですね。家康にとって一番都合の良い結果になったでしょうね、一豊の器量はしっかりと見極めるなど、いろんな意味で。  恐いですね。でも、一番気の毒なのは押し潰された郷士達(土佐の一領具足)です。家康と一豊の2重の弾圧を受け、今日の四国の歴史は彼らの「勝てば官軍」である勝者の歴史ですから。

その他の回答 (2)

  • tanuki4u
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回答No.3

明治期に於いて、土佐藩出身の郷士層が薩長土肥の一角として、発言力を付けたから、そのようなことが喧伝されている。 秀吉政権時代からの新任大名が、赴任地で土着の半農半士を弾圧するのは当たり前のこと。農村に於いて、現在のような個人単位の農業経営が基本になったのは17世紀後半以降。それまでは、地侍的な有力者が「村」の有力者として武力を持っていた。 他の新任大名で言えば 黒田家は豊前に於いて、豊前宇都宮・城井氏を謀殺。 木村家は陸奥に於いて、葛西大崎の一揆で失敗 ※ この場合の一揆は農民一揆ではなく地侍連合という意味 佐々家は庇護に於いて、一揆のために責任を取らされて切腹 のように、多くの大名家で行っている。

  • hideMUU
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回答No.1

長宗我部盛親は関ケ原の戦いで西軍に組したため改易になり,山内一豊に土佐一国が与えられました。一豊は信長,特に秀吉の譜代城主でしたから,家康は九州の外様大名の如く遠地に飛ばしたのでしょう。 一豊が入国しようとした時に問題が発生しました。長宗我部氏は「一領具足」という半農半兵という制度で強力な軍団を運営していましたので,遺臣達は土地の領有を主張したのです。時代はこの制度を認める状況でなく弾圧するしかなかったのではと思います。 その後,上士と郷士との対立が続くのですが,明治維新で多くの郷士が活躍したのは周知のことです。

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