当時、秀吉を悩ませた問題が、「西洋(ポルトガル、スペインら)とどう付き合うか?」でした。
主な問題は次の2つです。
(1)貿易問題
(2)宗教問題
秀吉は、(1)の貿易をぜひ続けたいと思いました。西洋の技術や産物は日本にとってとても魅力的だからです。そして、(2)のキリスト教についても当初は質問者の仰るとおり、秀吉はたいへん好意的でした。秀吉の身近な者にもキリスト信者が少なくなかったそうです。
また、民衆の中にもキリスト教の信者が増え、当時数十万人も信者がいたといわれています。
日本人には、新しいものや外国からの文化を広く受け入れるという民族性がその背景にあったからとも思います。
しかし、ここで問題が起きます。
キリストを信じるようになった大名(キリシタン大名)が、自分の領国の民衆に「キリスト教を信じろ」と強制するようになったのです。
しかも、領内にある神社やお寺を破壊し始めました。
そこで、秀吉は1587年に次のような法律をつくりました。
◇キリストを信じるかどうかは、個人の自由とする
◇キリシタン大名は、領地の民衆にキリシタンになることを強制してはならない。
秀吉は、この法律をキリシタン大名の高山右近と宣教師のコエリョに見せ、意見を求めました。
すると、二人はこの法律に猛烈に反対したそうです。
なぜなら、キリシタンにとっては自分の信じる神様が絶対の善であって、他の神様は悪だからです。
日本にはもともといろんな神様がいても良いという考えです。だから、神も仏も奉っていましたが、キリスト教はそれを許しません。
信じたい人が信じればいいのではなく、みんながキリスト教を信じなければならないのです。(*もちろん、これは当時のキリスト教の話です。)
では、この法律に猛烈に反対されてしまった秀吉はどうしたのかというと、この法律をやめました。
なぜなら、とてもバランスが取れていると思える法律に、しかも、主人である自分に猛烈に反対するとは、かなり手ごわいと考えたからです。
こんな緩いルールでは早晩、日本の神や仏が滅ぼされてしまいます。
そこで、次のように法律を改めました。
◇日本は神と仏の国であり、キリストこそ邪悪である。
◇大名はキリスト教を民衆に強制してはならない。また、神社や寺を壊してはならない。
◇キリスト教のバテレン(宣教師)は日本から追放する。
これが有名なバテレン追放令です。
秀吉は『あれもこれも、いいものはいいだろう』と考えていたが、キリシタンの猛烈な宗教心にオチオチしていられないと覚悟を決めたのです。
この法律は、最初の法律を高山右近らに見せた翌日に作られました。
秀吉の頭の回転の速さと決断力を伝えるエピソードの一つと言えると思います。
ただ、この法律は実際にはあいまいにされてしまいます。
なぜならフェリペII世が圧力をかけてくるからです。
なお、日本人も奴隷として売られていたことがあるのをご存知でしょうか?主犯格はポルトガルです。バテレン追放令の第10条で「日本人の南蛮への売り渡し」を禁じています。
最初日本人の奴隷売買をやめるように、秀吉はコエリョに口頭で申し入れたのですが、コエリョは「日本が悪いんだ」と居直ったために、秀吉は激怒したそうです。
そういった背景もバテレン追放令制定には、あったようです。
あとは、みなさんが仰るとおり当時のキリスト教は世界中を侵略していたからですね。
お礼
大変詳しい解説をありがとうございました。 天草四郎が奴隷貿易に関わっていたという話は最近まで知りませんで した。 秀吉の姿勢がキリシタン迫害の方向に変質していったことに、やや奇異 な印象を持っていましたが、それらの事柄がどのように関係しながら 島原の乱につながっていくのかという点に興味を持ちました。 もっと多面的な教育がなされれば、日本人の歴史的バランス感覚を養う ことができると思います。