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キリシタンへの弾圧

「島原の乱」について調べています。 過酷な年貢が原因の一つであったと聞きますが、できるだけ正確に書かれた 資料をご紹介いただければと思います。よろしくお願いします。 また、キリスト教に対して、信長や秀吉は初期の頃は好意的だったと思いま すが、なぜ禁止するようになったのでしょうか。 何らかの脅威を感じるようになったということでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • takato-k
  • ベストアンサー率35% (77/215)
回答No.6

当時、秀吉を悩ませた問題が、「西洋(ポルトガル、スペインら)とどう付き合うか?」でした。 主な問題は次の2つです。 (1)貿易問題 (2)宗教問題 秀吉は、(1)の貿易をぜひ続けたいと思いました。西洋の技術や産物は日本にとってとても魅力的だからです。そして、(2)のキリスト教についても当初は質問者の仰るとおり、秀吉はたいへん好意的でした。秀吉の身近な者にもキリスト信者が少なくなかったそうです。 また、民衆の中にもキリスト教の信者が増え、当時数十万人も信者がいたといわれています。 日本人には、新しいものや外国からの文化を広く受け入れるという民族性がその背景にあったからとも思います。 しかし、ここで問題が起きます。 キリストを信じるようになった大名(キリシタン大名)が、自分の領国の民衆に「キリスト教を信じろ」と強制するようになったのです。 しかも、領内にある神社やお寺を破壊し始めました。 そこで、秀吉は1587年に次のような法律をつくりました。 ◇キリストを信じるかどうかは、個人の自由とする ◇キリシタン大名は、領地の民衆にキリシタンになることを強制してはならない。 秀吉は、この法律をキリシタン大名の高山右近と宣教師のコエリョに見せ、意見を求めました。 すると、二人はこの法律に猛烈に反対したそうです。 なぜなら、キリシタンにとっては自分の信じる神様が絶対の善であって、他の神様は悪だからです。 日本にはもともといろんな神様がいても良いという考えです。だから、神も仏も奉っていましたが、キリスト教はそれを許しません。 信じたい人が信じればいいのではなく、みんながキリスト教を信じなければならないのです。(*もちろん、これは当時のキリスト教の話です。) では、この法律に猛烈に反対されてしまった秀吉はどうしたのかというと、この法律をやめました。 なぜなら、とてもバランスが取れていると思える法律に、しかも、主人である自分に猛烈に反対するとは、かなり手ごわいと考えたからです。 こんな緩いルールでは早晩、日本の神や仏が滅ぼされてしまいます。 そこで、次のように法律を改めました。 ◇日本は神と仏の国であり、キリストこそ邪悪である。 ◇大名はキリスト教を民衆に強制してはならない。また、神社や寺を壊してはならない。 ◇キリスト教のバテレン(宣教師)は日本から追放する。 これが有名なバテレン追放令です。 秀吉は『あれもこれも、いいものはいいだろう』と考えていたが、キリシタンの猛烈な宗教心にオチオチしていられないと覚悟を決めたのです。 この法律は、最初の法律を高山右近らに見せた翌日に作られました。 秀吉の頭の回転の速さと決断力を伝えるエピソードの一つと言えると思います。 ただ、この法律は実際にはあいまいにされてしまいます。 なぜならフェリペII世が圧力をかけてくるからです。 なお、日本人も奴隷として売られていたことがあるのをご存知でしょうか?主犯格はポルトガルです。バテレン追放令の第10条で「日本人の南蛮への売り渡し」を禁じています。 最初日本人の奴隷売買をやめるように、秀吉はコエリョに口頭で申し入れたのですが、コエリョは「日本が悪いんだ」と居直ったために、秀吉は激怒したそうです。 そういった背景もバテレン追放令制定には、あったようです。 あとは、みなさんが仰るとおり当時のキリスト教は世界中を侵略していたからですね。

tng1701
質問者

お礼

大変詳しい解説をありがとうございました。 天草四郎が奴隷貿易に関わっていたという話は最近まで知りませんで した。 秀吉の姿勢がキリシタン迫害の方向に変質していったことに、やや奇異 な印象を持っていましたが、それらの事柄がどのように関係しながら 島原の乱につながっていくのかという点に興味を持ちました。 もっと多面的な教育がなされれば、日本人の歴史的バランス感覚を養う ことができると思います。

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その他の回答 (6)

  • Big-Baby
  • ベストアンサー率58% (277/475)
回答No.7

キリシタンへの弾圧についてはOkwaveですでに多くの質問、回答がなされています。質問者さんはどうしてそれらをまったく参照されないのでしょうか? 例えば、 江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの? http://okwave.jp/qa1477523.html キリシタン迫害における真実とは? http://okwave.jp/qa2482395.html 豊臣秀吉の「バテレン追放令第10条」と奴隷貿易をしていたキリシタン大名・天草四郎 http://okwave.jp/qa2869029.html  その他、島原の乱についての質問もいろいろされています。

tng1701
質問者

補足

まったく参照していないわけではありませんが・・・、 (あなたのように)過去に書かれた回答だけで満足できる人もいれば、 そうでない人もいるというコメントでご満足いただけるでしょうか。

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  • putitetan
  • ベストアンサー率19% (9/47)
回答No.5

先ほどのNO1の回答者です。 NO4さんの回答の通り、宣教師は、侵略の先兵です。 戦略的に十字軍の遠征口実になるだけでなく、信仰の侵略ですから 私は、熊本出身で、天草四郎の話等よく聞いていましたが、NO2さんの 『フリーター武士」』やNO4さんの『天草四郎は工作員』等 初めて聞きました非常に興味深いです。 ただ、そうなると リンク先にあるような、天草四郎の身内の人質とかが気になります。 それに、一揆の責任を負わされた松倉氏は、捨て駒なのかな 色々かんがえますね http://www.shimabarajou.jp/rekishia.html

参考URL:
http://www.eurus.dti.ne.jp/~miyabi/shiroh/rebellion-lapse.htm
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  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3634/18947)
回答No.4

No.1 No.3に賛成。 昔宣教師 今コカコーラ なんて言われるように侵略の先遣隊としての働きがあったのです。 宣教師たちは純粋な気持ちだったでしょうが彼らを送り出す教会は植民地主義者の傀儡でした。 教会が建つとそこは聖地となり一朝事有れば「十字軍」が押し寄せるのです。 これを防ぐために断固たる姿勢を示す必要があったのです。 天草四郎は幕府の工作員に踊らされて反乱を起こしたという人もあるそうです。

tng1701
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 当時の宣教師が侵略の先遣隊というのは、面白いですね~。 高校の日本史でこういう話をすれば、居眠りする生徒はもっと減ると思い ます。

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  • outerlimit
  • ベストアンサー率26% (993/3718)
回答No.3

当時のキリスト教の布教がそのまま侵略行為であり植民地化であることに気づいたからです フィリッピン、中南米諸国の15~17世紀の状況を少し調べただけでわかります

tng1701
質問者

お礼

回答ありがとうございました。ご指摘の部分も調べてみます。

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  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.2

信長などの戦国武将がキリスト教に好意的だったのは、単純に商売上の利権を求めてのことだったと思います。 最終的に禁止したのは、様々な理由はあるでしょうが、一向一揆のように強い信仰心が時として権力者に対する大きな脅威になることも一因だと思います。徳川幕府は、仏門に対しては寺院諸法度で支配しましたが、当時のキリスト教はカトリックですから、教皇を指導者として強く崇める態度は危険だと思われたのではないでしょうか。現世に生きる宗教指導者が強い権力を持つと信者はなんでもやるのはオウムを見ればよく理解できると思います。 また、島原の乱というのは単なるキリスト教信者の乱ではないという側面があります。当時、天下統一が成ると武士の失業問題という深刻な社会問題が起きました。戦乱の時代は、ひとりでも多くの将兵が欲しいと多くの「フリーター武士」が活躍しましたが、戦乱が終るとこういったフリーター武士は浪人となり、仕事にあぶれて大阪などの大都市をウロウロします。なにしろ「戦争のやり方を知っている人間」が仕事にあぶれてウロついているのですから権力者としては不安でなりません。 ですから、幕府は島原に戦乱の世の復活を望んで浪人たちが集まるのをあえて止めませんでした。そして、そういった失業者たちを「一掃」したのです。島原の乱鎮圧に幕府が手間取ったのも、反乱側には経験豊かなベテランが多く参加していたのに対し、幕府軍には合戦の経験が皆無な者が多く、経験差から苦戦したのです。

tng1701
質問者

お礼

「フリーター武士」の加勢により、島原の乱の鎮圧に幕府が手間取ったとい う部分は興味深く読ませていただきました。 回答ありがとうございました。

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  • putitetan
  • ベストアンサー率19% (9/47)
回答No.1

信長は、最初から死ぬときまで 好意的です。 なぜならば、信長はキリシタン(イスパニア)を利用して 海外貿易をしようと思い洋風の文化を気に入っていたからです。 秀吉、家康がキリシタン弾圧に踏み込んだのは、当時の諸外国の侵略のい仕方が、精神的なものつまり信仰によって、精神的に侵略しその後、武力で侵略するという図がわかったからです。 現に、ローマ法王に寄進するということは、ローマ法王に属することになるからです。 現代もたくさん信仰による戦争や紛争がおこっているでしょ? それを避ける為、秀吉は弾圧したのだと聞きました。 江戸幕府は、 スペイン(イスパニア)の武力による侵略を防ぐため1624年に、スペイン人の来航を禁止にし きっかけは、重税が原因ですが、1637年にキリシタンによる島原の乱がおきたことで、信仰の怖さを実感したので 1639年に鎖国を行ったのです。

tng1701
質問者

お礼

島原の乱の発生から終焉までを調べておりますが、早速回答ありがとうござ いました。 キリシタン弾圧=侵略的な脅威を恐れてという観点では皆さん大体共通して ますね。

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