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本能寺の変の謎
本能寺の変にまつわる議論といえば、光秀が謀反に至った動機、また光秀の独断なのか背後に黒幕が いたのかどうか、といった事件の背景を問うものがほとんどだと思います。 しかし何故かあまり指摘されないのですが、この事件それ自体が良く考えればかなり不自然ではないでしょうか? 光秀は何故二万もの膨大な軍勢で警備手薄な信長を襲撃しようと考えたのか?古今東西、反乱を起こすのならともかく油断している相手を狙って暗殺するのに、 こんな軍勢で襲撃したなどという例は他に知りません。 手勢が多ければそれだけ察知されやすくなるし、途中で抜け駆けして信長にご注進に及ぶものが出ればそれでアウトです。 もちろん光秀は秀吉の援護を命じられて中国へいく途中に謀反を行った状況ですが、それにしても何か理由を付けて少数の 手勢だけ連れて京へ向かう方が理にかなっているでしょう。 500人もいれば十分すぎるはずです。 そもそもいくら夜陰に乗じてとはいえこんな大軍が京まで進軍してくるのに、どうして誰にも気づかれなかったのでしょうか? 本能寺自体にはわずかな近習しかいなかったですが、治安維持のため市内各所にはそれなりの兵が駐屯していたはずです。 彼らは本能寺が完全包囲されて信長が討ち取られるまで何をしていたのでしょうか? しかもこれだけの軍勢となれば先頭の部隊が京に入っても、まだ最後尾はかなり後方という状況でしょう。 間には加茂川等の河川もあり、全軍が京に入るまでには何時間もかかるはずです。 それなのにどうして全軍が集結して十重二十重に包囲するまでのん気に待っていたのでしょうか? 信長に察知されて逃げられるのは何より避けるべきなのですから、到着次第打ちかかってもいいはずです。 何より疑問は光秀ほどの知将がなんでこんな無理のある計画を実行したのか。そしてどう考えても無理のある計画が何で成功してしまったのかです。
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- tanuki4u
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戦場は常に、深い霧の中である BY クラウゼビッツ 光秀の判断 信忠が、手勢500を率いて本能寺に向かったとあります。 http://www.wdic.org/w/CUL/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89 前日、信長と信忠は本能寺で一緒に茶会をしている。 つまり、可能性としては、500程度の信忠の手勢と一緒にいる可能性もある。決して、信長+近習の数十名レベルと決めつけることはできなかったはず。 さらに、関ヶ原の島津の逃走例では、1500の兵で東軍10万の陣中を「主君を生き伸ばせる」事に成功しており、信長の場合も上記の500の兵があれば、逃げ切れる可能性が高い。しかも、逃走先は隣国近江。 全兵力で向かうべきだ。 また、過去の成功例も、似たような状況だ>義輝を殺した 三好三人衆、松永ら。 過去の成功例から、1万3千あまりの兵力で向かうはあたりまえだ。 信長 永禄の変でも同様に京都で囲まれて、殺害された義輝。 とすると、気づかないのが普通であろう。 そのほか、南北朝時代 高一族の直義包囲、院政期の平家の行動など、意外と京都に大軍を率いての軍事行動は成功しているが、少人数での暗殺行動は成功していないようです。
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お礼
確かに光秀側としては信長の周囲が手薄だという認識は必ずしも無かったかもしれません。 しかし信長一人をとにかく討ち取りたいのなら、何か理由を付けて身辺に近づいていきなり切り殺すなりする方が まだしも理にかなっているでしょう。 まるで合戦を行うように軍勢で押し寄せる必要は無いと思います。 そんな事をすればかえって信長に警戒されるという考えもあるでしょうが、だからといって大軍で行動する のにも無理があるのは親発言で書いたとおりです。 それでも歴史上の人物の行動を後知恵でどうこう言っても、そのときはそういう判断をしたのだから 仕方ないのかもしれませんが、一番不思議なのはそれで成功してしまったという事なのです。