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中島 敦の山月記について
山月記についての質問です。 『なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、 このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠ける ところがあるのではないか』 という部分の欠けるものとはなんでしょうか?? お願いします。
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文学作品の解釈はいろいろあっていいと思うのですが、この作品に関してはかなりはっきりしていると思います。 要するに李徴には「心の広さ、大きさ」がたりなかったのだと思います。お手元に山月記のテキストがあれば見ていただきたいのですが、「山月記」でこの部分を解釈する上で、ヒントになるのはその袁サンの台詞のすぐ後の部分です。もっと言えば、袁サンのこの発言は、あとの李徴の発言を導く為と、とれないこともないです。 袁サンのこの発言を受けて、李徴は「何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない」と、自己分析を始めます。 例えば師匠につかなかったこと、友達と詩の品評をしなかったことなどは、「臆病な自尊心」から来ています。小説でも絵でも音楽でもそうですが、芸術作品を作るうえでは、「他人の評価に耳を傾けること」がとても大切です。李徴は他人からの非難を恐れるあまり、これを怠ったのです。 つまり、他人のことはバカにしているくせに、自らは他人と関わるのが怖い、という小さな人間だったのです。こんな人間に人を感動させる詩が書けると思いますか。 裏返せば、謙虚な心を持って、他人の批評に耳を傾けていれば、李徴にもチャンスはあったのではないか、ということです。 ただし、文学作品に正解はないですから、これも一つの解釈ととらえてください。質問があればどうぞ。
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日本人ですよね? 第一流の作品にならない=欠ける の意味だと思いますが・・・。 その具体的に欠ける部分はどうか言われても 中島に聞く以外分からないことです。