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山月記 李徴の苦悩について

国語科から『山月記』について800字以内の感想を書く、という課題が出されています。 そこで李徴について改めて考えてみたのですが、私自身は割と李徴肯定派のようで、李徴に都合が良い様に解釈してしまいます。 作品の意図をより深く読み取りたいので、ご指摘があれば宜しくお願いします。 また新しい切り口があれば、教えていただけると助かります。 《李徴について考察》 ・俗悪な大官に膝を屈する事を潔しとしなかった ⇒実際のところ、李徴は人間的なバランス(愛情や野望等の比重)においては欠けているという事実はあったが、かといって道徳的・人間的な部分が無かったわけではない(妻子への愛情にも見られる)。むしろ当時の官吏が俗悪であったとすれば(小説内のみだが)すなはちエンサンは彼らの下命を拝し膝を屈してきたのだから、彼こそ本当に善人であったと捉えて良いのか、が疑問に思われる。 ・李徴の社会的権威に対する執着 ⇒科挙試験に通るということは、それなりに裕福な家の出。幼少の頃から科挙のために黙々と勉強してきた人間である、という事を踏まえると李徴が社会的権威に執着するのはある意味当り前の事であり、これは科挙制度の悪面である。また現代の受験システムについても同様である、と言えはしないだろうか。

みんなの回答

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.2

参考までに下記サイトを紹介します。回答にならなくて済みません。 当時(戦前)信託統治地になっていた「パラオ諸島」に役人として赴任していましたが、夭逝しました。

noname#36252
noname#36252
回答No.1

思わず、もう一度山月記を読み返しましたが、この作品の主題は、己の中の猛獣、性惰というもの、この場合李徴の場合は尊大な自尊心、と羞恥心であり、どんな人にも潜む心の闇について言及していると思います。 猛虎の姿が何を表しているのか、制御することも抑えることもない、名誉に対する欲と傲慢な考えが、猛獣の姿となり、世の中で暴れている、その例えなのです。 俗悪な大官に屈することがなかったのは、そういう意味でなく、自分にはもっと詩才があり、大官より上だ、今にひれ伏させて見せるという野望であり、自尊心からなのです。エンサンの方は、性情から人と争うことができないおとなしい性格で、この場合虎になった旧友の思いを汲み、偲ぶ役割りを担っています。 よく高校のお友だちで、ニコニコ笑って人と争うことがない平和主義の方がいるでしょう。ああいう人なのです。 小説中に、李徴が、世間と交わることをしなかったと告白していますね。ここでは、いくら学業ができて秀でたとしても、孤高になるな、と作者は説いているのです。 中島敦という作家は、確か東大の方だったように思いますし、この作品一作きりしか書いていません。私の高校の教員も東大出身者が多かったですが、なぜかこの作品に対する評価が高いのが意外でした。(読みにくいし、現代から考えると変な表現のような作品ですが) 李徴の科挙の件は、これは昔の中国の秀才なら当然、受験するもので、何々の卿で一位の秀才と言うと名乗りを上げて通ったものです。 これは、李徴が、並外れた才覚の人間であったことを示しているのです。 現代の国家公務員上級試験(一種)のように、並外れた秀才なら、国を担うために採用試験を受けるわけで、何も社会的権威への執着ではないですよ。 中島敦が東大生だったことや、世の中から落ちぶれていく秀才の姿を、猛虎の姿になぞらえて、戒めとして出したわけです。 ご参考になれば、幸いです。

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