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中島敦の帰国

中島敦の帰国 作家中島敦が南洋庁を辞め日本に帰国したのは1942年の何時なのでしょうか。「南洋通信」によれば、3月2日にパラオから帰国を告げる電報を打っていますが、実際に帰国した日がわかりません。

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  • ベストアンサー
  • yanhua
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回答No.1

帰国時期は1942年(昭和17)3月としか分からないのですが、月日を知る必要は、レポートに書く必要なのでしょうか。回答が付かないことからも一般には分からないのでしょう。 日付までは分かりませんが、幅を絞って見ましょうか。レポートだと何か書かねばなりませんから。 私は「海路を前提として、早ければ3月2日出航、11日内地(横浜)着。便待ちで中旬乗船、戦況のため航路不穏で日数がかかったとしても月末までには帰着」と考えます。 理由: ・1941/7パラオ着任(6月着任説あるも僅少)。 ・1942/3/2帰国連絡電報打電「南洋通信」。 ・役人の異動は発令後速やかに実施の慣例故、直近の便を利用した筈。 ・パラオでの日記は1941/9/10から1942/2/21まで(いわゆる「南洋日記」)。⇒2/21には帰国辞令が出て便の手配など着手していたのでしょう。帰国の便が決まっても、当時の状況では直前まで出航が確定しなかったと考えます。よって出航確定後打電したのだろうと推測します。それが3/2乗船日当日だったかもしれません。 ・昭和11年の運行表の一部がありますが、以下の通り。17年には減便の可能性があっても大差ないと推測します。  船便は月2便、所要日数10日間前後(安定運行時)。  空路は月2便、足掛け2日間ですが、現貨幣価値で100万円かかる。 ・1942年は既に南洋航路は米軍による日本の商船の被災が始まっていますから、海路空路とも便数の安定運行に疑義がある(出航遅延、寄港地で戦況による待機)。 ・多くの記事が帰国は三月としている。  「7 月から翌年3月半ばにかけての8カ月間にわたって」  「約八ヶ月滞在し、翌年三月に帰国」  「7月から翌年の3月までの約9か月」 ・彼は一応官吏なので空路の可能性もありうるか?その場合上旬に内地着も。空路で帰国したなどの記事はどこかにあるでしょうか。 以下参考URL(上述各項の材料): 1.中島敦 http://www.koryu.or.jp/08_03_03_01_middle.nsf/2c11a7a88aa171b449256798000a5805/e2ba7922e4008293492576f50024e2f9/$FILE/liaoxiujuan2.pdf 「中島敦は昭和16 年7 月から翌年3 月半ばにかけての8 カ月間にわたって」 2.日本東洋文化論集(6): 中島敦の「南洋もの」 http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/2377/1/No6p181-201.pdf 一九九○年五月)で、「昭和十六年六月末に南洋庁赴任のためパラオに向けて出発、約八ヶ月滞在し、翌年三月に帰国するが南洋では気候と病気のため一行も密けず」と霞いていた。 3.中島敦と南の島  http://www.mgssi.com/terashima/nouriki0303.php 「中島敦の南洋での生活は、1941年7月から翌年の3月までの約9か月」  ・・・典拠不明、「南洋通信」からの逆算か? 4.文責不明  http://www.littlemore.co.jp/magazines/mayonaka/blog/2010080471.html 「中島敦は官吏として日本語教科書編集のため、1941年この南洋群島へ派遣されました。この地でのおよそ9ヶ月の経験をもとにした作品は、」 5.パラオ-内地 海路定期便 2便/月:10日間前後  海路:昭和11年パラオ-内地 復路予定表   http://www.tt-museum.jp/tairiku_0150_nyk1936.html  昭和十一年度南洋航路定期豫定表  1936(昭11)年4月 日本郵船 546mm×390mm 1枚 (画像は部分)  画面で見える範囲で、   パラオ丸 ダバオ5/1-パラオ5/3,4-・・・横浜5/13・・・神戸5/18   横浜丸  ダバオ5/12-パラオ5/14,15-・・・横浜5/25・・・神戸5/29 6.パラオ-内地 空路定期便 2~4便/月:飛行時間17時間+乗継時間  空路:   http://iyasaaca.exblog.jp/11404170/  サイパン経由南洋群島への定期便は1939年に就航する。午前05:30発、  パラオ到着は翌日14:00であった。横浜からは飛行時間だけで17時間。  1940年3月には出発空港が根岸飛行場の拡張工事が完了し月2便から4便  にと増便されている。 *中島敦の部屋 <中島敦の会> ご存知ですか  http://aomori.cool.ne.jp/michimana/nakajima/n_kai.html  ⇒正確に知る必要があるならばこ

cpbr
質問者

お礼

大変ありがとうございます。 「南洋通信」を読んで1942年の中島敦が気になったので質問しました。ひょっとしてなかなか帰国できなかったのではないかというようなことを考えていました。レポートのためではありません。 「中島敦の会」知りませんでした。

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