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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:鎌倉公方と関東管領)
鎌倉公方と関東管領の変遷とは?
このQ&Aのポイント
- 鎌倉公方と関東管領の職名が異なる時期があったが、何が原因で変わったのかを知りたい。
- 関東管領が鎌倉公方に変化し、関東執事が関東管領に変わった時期について、史料の発見や学説の修正などがあったのか疑問である。
- また、上杉氏憲の関東執事の職名だけが変わらなかった理由についても知りたい。
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質問者が選んだベストアンサー
鎌倉の行政府の流れとしては、北条執権家の没落以降は下記のようになります。 建武期 将軍:成良親王 執権:足利直義 (中先代後) 管領:足利義詮(後の二代将軍) 執事:斯波家長・高重茂 管領:足利義詮 執事:石堂義房・犬懸上杉憲藤(→椙谷上杉憲顕) 管領:足利義詮 執事:高師冬・椙谷憲顕 (観応の擾乱) 管領:足利基氏(尊氏の四男、以降は世襲) 執事:畠山国清 管領:足利基氏 執事:高師有・椙谷憲顕 以後、上杉家(椙谷氏、宅間氏、犬懸氏、山内氏)が関東執事を独占。 その後、足利持氏が鎌倉公方を名乗ると関東執事の上杉家も関東管領を名乗るようになりました。ただし、京都では相変わらず「管領+執事」扱い。 次代の足利成氏以降は現状追認の形で「公方」の名乗りが許されるようです。対抗馬として関東へ下向した足利政知は「公方」として着任しています。
お礼
回答ありがとうございます。 室町幕府本来の職名としては鎌倉府の長が関東管領で、補佐職が関東執事だったのが、足利持氏が鎌倉公方を自称して以降、一つずれたかたちになった、ということですね。 とすると、持氏以前の基氏などを鎌倉公方と呼ぶのは厳密に言えば間違っている、ということになるのでしょうか。 初等中等教育においてはそこら辺の事情を簡略化して鎌倉公方・関東管領に統一し、それに合わせて年表も修正されたということでしょうか。 こういった職名などは自称他称などで複雑そうです。