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ジェンダーと仏教

お世話になります。 こういうサイトを見つけたんですが(↓一番上のところ)、 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/tagen/tagen-mirai/hokoku2.html 概略、ジェンダーフリーは仏教の思想の基本にそのまま通じるということが書かれています。(論者は大学教授の方らしいです) しかし、なんだかうなづけないような気がします。果たしてこれって仏教としては受けいれられる見解なんでしょうか。教えてください。 原文はこちら www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/socho/mirai/mirai-matsumoto.pdf

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  • neil_2112
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回答No.2

問題の論考があまりに低レベルなので、逆にコメントしづらいのですが(笑)。 仏教で特に「空」を精緻化した中観哲学では、この世の存在や現象が「自性」を持っていないことを強調しました。自性というのは、「そのもの自体」とでもいうべき実体的な本質を指す言葉ですが、すべてのものが縁起によって成立するとみる仏教では、それだけで成立する自性なるものを認めず、一切は無自性だとするのです。 この「無自性」という言葉は「空」と同義でもあります。有名な「一切皆空」という言葉は仏教の旗印のひとつですが、この言葉は、「すべてのものごとや現象は自性を持たない」ということの別の表現です。 さて、問題の論考(?)では、「男」「女」というジェンダーが仏教の「自性」にあたること、そしてその「自性」では捉えきれない「ヒト」の部分なるものが「無」「空」にあたる、という認識が示されています。「自性」以外の部分に「空」がある、というのですから、自性がないことをもって則ち空とする仏教の見解とは全く相容れないことがわかります。「自性」や「空」は全存在を貫く原則なのですから、何かについてのみ限定的にこれらの用語をひきあてたり、これらを排他的に対立させて論じようという試みは、最初からナンセンスなのです。 そもそもこの論考は、ジェンダーの束縛を否定せんがために、「ヒト」という新たな概念を持ち出しているわけですが、これは何も問題を解決したわけではなく、新たな専制的概念を提示しようとしているだけにすぎません。ジェンダー、つまり社会的な構造化を経た存在としての「男」「女」という概念を問題にする一方で、その構造化から超越した「ヒト」なる存在を無条件に称揚していますが、そもそも社会的構造化を経ない人間が社会の構成主体になりえるのか、その答えは決して自明なものではないはずです。 このことを仏教に引き当てていえば、「無自性」や「空」を語っているかのようにみせつつ、新しい言葉をポケットから出してみせ、それにさも有意義な実体が伴っているかのごとき幻想をふりまいているともいえるわけで、これはまさに「ヒト」に仏教的な意味での「自性」を認めたスタイルの論考になってしまっているのです。それがいかに自家撞着であるか、指摘するまでもないことだと思います。 「空の論理はすべてを切り倒すものだから、一旦その刀を抜けば自分をも切らないわけにはいかない」。「空」の論理の陥穽をよく認識していた中観の論者たちは、このような言葉をもってその乱用を自戒していました。「古代の叡智」という言葉で仏教を締めくくられたこの先生におかれては、安易にして軽率な引用の前に、真摯に学ぶ姿勢をせめてもう少し身につけられてはいかがかと感じます。

noname#24690
質問者

お礼

どうも有難うございます。大変勉強になりました。 >自性がないことをもって則ち空とする仏教の見解とは全く相容れない なるほど、空や自性という言葉で一部分だけを論じるのが、もうその時点でおかしいということですね。 >「ヒト」に仏教的な意味での「自性」を認めたスタイルの論考 確かに矛盾していますね。男が悪くて、男をなくしたヒトの部分がいいなんて、一体どこに根拠があるんだか。

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回答No.5

#1です。もはや仏教の話を大幅にそれることを承知で書かせていただきますが。 先日、面白いCMを見かけました。 居間でくつろいでいるご主人(ちなみに演じるのは地井武男さん)に、台所で作業をしている奥さんが「あなた、電球換えてくれる?」と声をかけるのです。ご主人は「あいつ、俺がいなけりゃ何も出来ないな」と心の中でつぶやき、電球を探し始めますが、どこにあるかわかりません。そこで「お~い、電球はどこにあったかな?」と奥さんに声をかけると、奥さんが台所で「あの人、私がいないと何も出来ないのね」と独り言を言う、という内容です。 私は男女の関係とはこういうものだと思うのです。男の領域、女の領域がそれぞれにあり、それぞれが自分の仕事に誇りを持つ。 しかし、ジェンダーフリー論者の考えるのはそうではないようです。とにかく、男女が同じことを同じようにこなすのがジェンダーフリーだといっているように、私には見えます。 ジェンダーフリー論者は、言い訳のように「男性が家事労働をこなすのもジェンダーフリーだ」と言いますが、彼らが強烈に求めているのが、実は社会における利潤獲得競争に男性と同様に女性も参加することであるのは彼らの行動から明白であると思います。その証拠に、社会における利潤獲得競争に女性も男性と同様に参加できるように、元々不利な条件に置かれている女性に優遇措置を設けよ、という主張は彼らはうるさいほどにしますが、家事労働に男性がスムーズに入れるように、男性の家事労働に対して優遇措置を設けよ、という主張は彼らは絶対にしません。 結局、彼らは、社会における利潤獲得労働を「優れた仕事、価値の高い仕事」、家庭における家事労働を「劣った仕事、価値の低い仕事」と見做して、女性にも「優れた仕事」をさせろといっているに過ぎません。差別差別と叫ぶ人間こそが最大の差別者、という実例をここでも見ることが出来ます。 彼らの求めるのは、社会における利潤獲得競争という「優れた仕事」に、誰もが「平等に」、言い換えれば「同じように」参加し、同じように振舞う世界であると私は思います。某半島北部の某国で、みんな同じ顔で笑いながらみんなで同じ動きをする、あれを社会に拡大したものを理想社会だと見做していると言ってもかまわないと思います。 「男は仕事、女は家庭」という、現在では下手に口にするとボコボコに叩かれる価値観にしても、実は「男は外での仕事をすることに誇りを持つべきだ」というメッセージと、裏面で「女の家庭労働に敬意を払うべきだ」というメッセージとが同時にこめられています。これは女側から見た場合も同様です。 そういう「表メッセージと裏メッセージ」といいますか、多面的な価値観でそれぞれが誇りをもって自分の役割をこなす社会、というのが、ジェンダーフリーに限らず差別解消をことさらに声高に主張する人たちにはしばしば見えていないようです。結局、ひとつの価値観で同じように規格化された人間を大量生産してベタ一面に陰も陽もなく平面的に並べるのが、彼らの言う「平等」であると私は思います。 人間、生まれたときは誰でも主観的には「自分がすべて」です。自分以外の存在を知らないわけですからね。しかし、やがて自分以外の存在を知り、自分の立場をこなすことで精神的に成長し、相手の立場を思いやることが出来たときに、一段階「普遍」への階段を上るのだと思います。そうやってひとつひとつ「普遍」への階段を上りながら、社会性を身につけていくわけです。それでも普通は「人間」なんていう人類すべてを包括するレベルまで到達するような達観者はほとんどいません。極端な話、人間みな同じ、なんて台詞を言っていいのは、自分が殺されても「ああ、殺す方にもそれなりの理由があったんだろうな、良い良い、私は理解しますよ」と言える人間だけだと思います。 男女の役割が分けられている程度のことにキーキー言いながら、「人間」なんてほとんど抽象概念に等しいものを振りかざすなんて所業は、要するに「自分の与えられた役割をこなす意欲も能力もないが、自分のやりたいことでは無条件にみんなに褒められたい」というエゴイズムを言い換えているだけだと、私は思います。要するに、「みんな平等のはずなのに私は虐げられているのは誰かが悪いからだ」という自己正当化ですね。 ゴータマ・ブッダに始まる仏教においても、幾人もの偉大な覚者がいるわけですが、いきなり「人間」なんて普遍概念を持ち出して「みんな一緒だよね」なんて形で教えを説いた人間はたぶんいないでしょう。修行という名の強烈な理不尽を自らの体に強いて、はじめて「この仏法の下では誰も彼もない」という境地に至るのだと思います。私はそれを「肉体の有限性と精神の無限性のギャップに悩むことだ」と考えていますが。ほかの世界宗教も事情は似たようなものでしょう。 やはり、「男」と「女」どころか「あなた」と「わたし」の違いを「認識しつつ乗り越える」のではなく「最初からないものにする」という、ご紹介のURLの記述みたいなものは、私はどうしても、差別者という敵を作ってそれさえ排除すればこの世は楽園、というアジテーションのためにあるものとしか思えないのです。

noname#24690
質問者

お礼

どうも有難うございました。 長文の回答、感謝いたします。おっしゃることは非常に納得できることが多いとかんじました。

  • kigurumi
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回答No.4

No.3です。 >別に天地人にあてはめル必要ないのではないですか >体、ジェンダーフリーの人たちは、その男性原理とか女性原理をとりさればヒトという理想の関係が生まれる、それが仏教に通じる、といっているわけで。 どういえばいいのでしょう。 ジェンダーフリー は性を無くすことじゃないと思うんです。 性を無視することじゃないと思うんです。 存在を否定せず、両方の特徴を理解しながらお互い認め合う。 これがジェンダーフリーだと思うんです。 中道とは、どっちの性も放棄してなどいない状態だと思うんです。 放棄せずに中道でいられるのか。 男性よりの思考、女性よりの思考。 男性は男性原理だけ、女性は女性原理だけ持っているのではなく、両者が男性原理も女性原理も一つの体の中に両方持っている。 ただ、どっちかが若干強くなる。 ほんのわずかな差らしいが、それが結果に繁栄されるころには、かなり決断に影響を与えていると思います。 「男性の決めることはわからない」「女性の考えていることはわからない」ではなく、中央に歩み出てどうしてそうなるのかを知ろうとする。 これが中道のありかだと思うんです。 これがジェンダーフリーの座じゃないかと。 性を無視するのがジェンダーフリーじゃなくて、性差を認めるのがジェンダーフリー なんじゃないでしょうか。 だから  ↓ >その男性原理とか女性原理をとりさればヒトという理想の関係が生まれる  ↑ では、理想の関係は生まれないと思います。 取り去るんじゃなくて、理解しようと一歩 また一歩と歩み寄ることがジェンダーフリーじゃないんでしょうか? 歩み寄れたら理解できるので、心が騒がなくなりますよね。 これが中道なんじゃないかと。

noname#24690
質問者

お礼

どうも有難うございました。

  • kigurumi
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回答No.3

ジェンダーフリー・・・それに関連づけて考えてみます。 天・人・地 天を男性原理、地を女性原理とするなら、人間が住まえる領域は天と地の狭間の領域のみだと思います。 究極の男性原理は、人間というよりもはや命というものが無いロボットです。 プログラムに沿ってただこなしていくロボット。 軍隊は男性原理で、命令・即実行。行進など没個性です。 一人の支配者+大勢の被支配者で構成されており、上の支配者のインプット通りに動く。 究極の女性原理は、混沌 なにがなんだかつかみどころがなくてわからない。 個性だらけでめちゃくちゃ。利己的。 統率しようとしても無理。 バラバラ。 それに近い人たちは、何故か集団でかたまっていて「うふふふ クスクス」と、言葉ではなく意味深な笑いで交信して うんうんとうなずきあう・・・・ エルリック・サーガに白き神々と混沌の神々というものが出てきます。 いわゆる俗的に言えば前者が善玉、後者が悪玉。 でも、本当にそうだろうか。 白き神々は法で、物理の法則や安定性、確固とした形式などを司る。 主人公は虚弱な者ですが、魔剣を手に入れたことで、超人的なものとなった。 彼はその魔剣を嫌っているが、手放すことができなかった。 魔剣は法則があり、愛するものすら、法により刃の犠牲になる。最後はその法則により自分もその魔剣により死ぬ。 例外は認められない徹底した法です。 混沌の神は、その法則をひっくりかえしたりできる。 いわばヘルメスメルクリス・ジョーカー・水銀みたいなもの。 両者とも究極すぎて人間が住める領域じゃありません。 そこに灰色の神々がいて、どちらか強くて世に不均衡が起こると、片方に加勢して、世の均衡を保つわけです。 仏教ではなくヘブライ語のゲマトリアでいくと、男性は45、女性は19、そして神はその両者の中間の26になります。 これでいくと神は男と女の中間にいるわけです。 つまり来世ではなくこの我々が生きている世界にいるというわけですね。(あくまでゲマトリアでいけばですが) 「女は人間ではない=非人」←結構 キツイ言葉ですが、軽蔑ではなくいい方に捉えるとすれば、天と地の中間にいる者。 いわば聖霊みたいなもの? 笑 そう考えると女性群はむかっぱら立たないと思おうし、実際男だけの会社に女性が入社した途端、鬼と言われた人が他人をねぎらったり、思いやりを見せたりする行動を取るようになり、殺伐とした職場がなごんだ空間に変化したそうなんです。 逆に女性とばかりで、授業を聞いちゃ射ないというぐちゃぐちゃなクラスに統率力のある男子が一人投入されると、ちゃんと集団をまとめてくれ、授業が進むと。 >果たしてこれって仏教としては受けいれられる見解なんでしょうか。教えてください 仏教では、死後天国にいくなど教えておらず、人が感覚で取られることができることをもって、生きたまま悟りを開けるって言っていたと思います。 つまり天と地の間において可能だってことです。 天を男性原理、地を女性原理とするなら、我々は中間にいるわけで、ジェンダーフリーに既になっていると思います。 仏教は中間の現象をありのままに捉えるという教えだと思ってます。 諸行無常なので、昨日okだったものが、今日はNG。 それすらむかつかず、そうか・・・と思う。 ここに中道の安らぎがあるということを言っているんじゃないかと。 中道を薦めたのが仏教だったと思います。 究極の男性原理と究極の女性原理の中間も中道だと思います。

noname#24690
質問者

お礼

どうも有難うございます。 えーと、どうお礼を書いていいのか・・・ 男性原理が秩序、女性原理は混沌というのはわかりますが、 >天を男性原理、地を女性原理とするなら、我々は中間にいるわけで、ジェンダーフリーに既になっている 別に天地人にあてはめル必要ないのではないですか?大体、ジェンダーフリーの人たちは、その男性原理とか女性原理をとりさればヒトという理想の関係が生まれる、それが仏教に通じる、といっているわけで。 >究極の男性原理と究極の女性原理の中間も中道 だから、これはちょっと違うのではないでしょうか?

回答No.1

私は仏教系の高校を出て、その後ちょっと興味をもって禅宗の勉強を自分でして見た程度の人間なのですが。 基本的に、こういうジェンダーフリー論者は、仏教だろうがキリスト教だろうがイスラム教だろうが儒教だろうが神道だろうが…いくら並べ立ててもきりがないですが、とにかくそういう古い思想の中から、自分たちの主張を強化してくれそうな部分だけをピックアップしてきて、「ほら見ろ!昔の人もそう言っているじゃないか!」とばかりに喜んで、過去の歴史がいかにもそればっかりであったように誇大広告し、論敵に「いかにも狭い価値観にとらわれている化石人間」とレッテルを貼って罵るというのがデフォルトのやり方なので、思いっきり眉に唾をしておいた方がいいと思います。 言い換えれば、仏教思想を解釈して、その思想がジェンダーフリーにそのまま通じると結論付けたのではなく、ジェンダーフリーありきで仏教思想の中からそれに見合いそうな部分だけをピックアップしてきて再構築し、それがあたかも仏教のすべてであるかのように主張しているということです。 本来の釈迦(およびその他の昔の思想家)がどんな主張をしていたのかは専門の研究者に任せなければいけませんが、私はそういう思想家たちが人間の多面性について悩まなかったはずはないと思います。また、そういう思想家たちの思想に触れてそれを脈々と伝えてきた人たちも、いろんな角度からその思想に付け足しをしてきたと思います。ですから、どんな古い思想にも、男女は等しくあるべきだ、と解釈できる部分と、男女はそれぞれの役割を果たすべきだ、という部分とがあるはずです。 ご紹介のURLにかかれたことは、それ自体間違ってはいないと思いますが、ただそれが仏教における男女論のすべてだ、と思ってしまうのはあまりにも競作した視野であると、私は思います。

noname#24690
質問者

お礼

ご回答どうも有難うございます。 >ジェンダーフリーありきで仏教思想の中からそれに見合いそうな部分だけをピックアップ やっぱりそうですよね。ただ、どこがおかしいのかはっきりピンポイントでわからないところがくやしいわけで。 >思想家たちが人間の多面性について悩まなかったはずはない 全く同感です。安易にひとの思想のいいとこどりをした発想をみるとなんかむずむずした違和感を感じるんですが、そういうことなんですよね。ひとの悩みを素通りして切り貼りする安直さが違和感のもとだったんだとわかりました。おかげ様ですっきりしました。