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幕末の尊攘志士たちは・・
先日飲み会に参加するため、大学から四条河原町まで歩きました。 ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、同志社大学は薩摩藩邸の跡地にあります。ということは、西郷隆盛や大久保利通も四条に飲みに行く時はこの道を通ったのかな・・と思い歩いたものの、40分くらいかかりました(^^ゞ さすがに西郷や大久保なら駕籠や馬が出そうですが、下級武士ならそうはいきませんよね・・。彼らは四条で飲む時はがんばって歩いたのでしょうか?それとも、近場に飲み屋があったのでしょうか?単に現代人化している僕が徒歩40分を「遠い」と思うだけであって、当時の人にとっては普通だったのかもしれませんが・・。しょうぶない質問ではありますが、その辺りの事情をご存知の方お教えください。 ルートは、烏丸今出川から今出川通を東に、河原町今出川から河原町通を南に歩きました。
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車が日本中に普及した今では日本人は健康に影響が出るほど歩かなくなりましたが、昭和時代まではみんなよく歩いたんですよ。 団塊の世代くらいまでなら「歩いて一時間かけて学校まで通った」なんて話はザラですしね。 京都にお住まいですと分かりづらいと思いますが、江戸も東京湾に近い下町あたりと吉原までは結構離れています。寛政の三奇人のひとり林子平は江戸と仙台を三日で歩いたとか。幕末の志士たちも江戸に京都に国許にと精力的に歩いて回っています。 ちなみに、当時は今から比べるとかなりの~んびりした一日です。武士であれば、おおよそ勤務時間は午前9時頃から午後2時頃まで。おおむね4時間程度の勤務時間でさらに一勤一休が原則。町人も大工なんかのガテン系は午前中のみの労働だったそうです。 午後1時か2時には退勤ですから、それから「ちょっと飲みに行こうや」となっても時間は充分にあるわけです。ただし、夜は早いです。街灯もないので物騒ですしね。
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- yakyutuku
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>江戸ならともかく、京都にも複数藩邸があったのは驚きです。 幕末に大阪藩邸は藩の特産物を売るべく、京都藩邸は外交の舞台として重要な意味を持ちます。幕威盛んなころはたいした意味を持たない京都藩邸ですが、幕末は京都朝廷が雄藩と幕府との取り合いになった背景もあり、対朝廷工作、対幕府折衝、諸藩同士の外交などに重要な意味を持ちます。そのため幕末には大阪藩邸、京都藩邸とも雄藩は次々強化していきました。特筆すべきは老中や慶喜などが長期大阪城に駐屯したり、たとえ大阪を離れるときでも腹心を城代として置いたり、すでに政治が京を中心として動き始めていたことだと思います。こうして強化された藩邸にいる藩士は、鳥羽伏見の時の戦力を供給する役目を担っていたので、これらの藩邸が無ければ簡単に雄藩による畿内(天皇)制圧はできなかった事でしょう。 実際酒などを飲むときは、幕末初期のころは気軽に遠くまで歩き、自分の寝所まで帰っていました。ただ新撰組が活動し始め、京の治安に不安を覚えだしてからは(客の安全も含め)、安全のためになるべく近場の藩邸を利用し、明るくなってから自分の部屋へ帰った模様です。とはいえ薩摩は雄藩の中でももっとも力が強かったので、新撰組の直接の対象とはほとんどならなかったようです。
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アドバイスありがとうございます。 京都が重要視されるにつれ、藩邸も整備されていった。治安が悪くなってくると、近くの藩邸で飲む・・イメージできました。ありがとうございました。
- tanuki4u
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歩くのが苦にならなかった。 というのが、正解かなと。 京都ではありませんが、火付け盗賊改めでおなじみの長谷川平蔵の役宅は、現在の江東区でありました。一方、同心などの家は現在の文京区だったそうです。同心は毎日平蔵の役宅、片道6キロくらいをふつうに勤務していたそうです。
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回答ありがとうございます。 片道6キロ勤務ですか・・「歩くのが苦にならなかった」確かにそうかもしれませんね。 今、徒歩4キロと言うよりも「40分もかかる」という方がイヤな気がしませんか?時間が・・と。昔と今では時間に対する概念が全然違うのかな。ありがとうございました。
- kazuki1119
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四条で飲む時は大丸跡の薩摩藩邸で寝たんじゃないんでしょうか? 昔の人が健康でもやはりめんどくさいですしね☆ 四条らへんは、蛸薬師の土佐藩邸やら木屋町の長州藩邸やら(現在では両方とも夜は治安が悪いですね)あったわけですしみんな近所で楽しく飲んだのではないかと考えてしまいました。 ちなみに薩摩藩邸は3つあったらしいです。↓ http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/satsuma.html
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回答ありがとうございます。出席点は大丈夫でしたか?(笑) 大丸にも藩邸があったんですか・・江戸ならともかく、京都にも複数藩邸があったのは驚きです。 近現代史のゼミにいるのに情けない・・参考なりました、ありがとうございます。
- yakyutuku
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書き忘れましたが、馬は貴重な存在で、公務でしか使えません。急ぎの用事で動くときは通常早籠を使います。
- yakyutuku
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彼らの身分では、かごは使わず歩いたと考えます。籠はよほどの高級藩士か、女性です。隆盛クラスが気軽に使うようなもんではありません。防諜状の理由なら、十分ありえます。
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回答ありがとうございます。 確かに、小松帯刀クラスじゃないと駕はだめだったんですね。馬も気軽には使えないと・・ じゃあ歩きで飲みに行ってたのかな。昔の人は健脚だったんでしょうね(^^ゞ
お礼
アドバイスありがとうございます。 交通機関が発達する前は、歩くのは当たり前・・確かにそうですね(^^)吉原、江戸城からかなり近い場所にあると思ってたんですが、地図で見ると遠いですね。 時間があるので、歩いていこうかと。そういう気になるのも分かります。ありがとうございました。