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西郷さんと勝海舟の会見
- 西郷さんと勝海舟の会見の場所について、複数の情報がありますが、正確な情報は不明です。
- 会見場所には岩の碑があるという情報がありますが、詳細は不明です。
- 西郷さんは剣術は行わない人であり、会見の図にはその背後を暗示した図が描かれている可能性があります。
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質問者が選んだベストアンサー
官軍主力が江戸に進撃する前に、山岡鉄舟らの尽力で、 薩摩藩邸に、西郷が先乗りし、 三月13、14日の 勝・西郷の談判の結果、 江戸城無血開城の英断がくだされ、 ここに、帝都大東京の礎なり、近代日本の夜明けと なったのは、ごぞんじのとおりです。 江戸に入った官軍は池上本門寺に本陣を置き、 4月9、10日 正式に幕府の全権代行の勝より、勅使・官軍参謀の西郷に 江戸城引渡しの詳細に関する目録が渡されました。 つまり薩摩藩邸の会談は、首脳会談で一挙に懸案打開した 電撃交渉で、 池上本門寺の会談は、それを確認し平和の到来を寿いだ 事務レベル交渉です ※上野彰義隊や奥羽越の戦乱、函館共和国など日本全体が 平和になるのは、まだ、しばらくかかりますが_(‥ ) 1868 1月12日 徳川慶喜 江戸城に入り勝海舟と善後策を論じる 1月17日 勝海舟 海軍奉行に任命される 1月18日 勝海舟 越前家に手紙を書き朝廷とのとりなしを願う 1月23日 勝海舟 陸軍総裁若年寄任命 榎本武揚 海軍副総裁に任命 勝海舟 徳川慶喜に戦略案を示す 2月23日 勝海舟 陸軍総裁、大久保一翁、会計総裁を命じられる 3月 5日 勝海舟 西郷吉之助に外国の介入及び汚名を後世に残すと手紙を書く 同 山岡鉄舟 勝海舟を訪問 3月12日 西郷吉之助 勝海舟に明日高輪藩邸で会おうと手紙を書き板垣退助にも勝手に動くなと手紙を書く 3月13日 勝海舟 正午に江戸高輪薩摩藩邸の西郷吉之助を訪問し静寛宮を人質にしない事を明言 3月14日 江戸田町薩摩藩邸 西郷吉之助、勝海舟会談 江戸総攻撃中止 3月21日 アーネストサトウ 勝海舟を訪問 3月26日 勝海舟 「蟠龍丸」で横浜に海軍総督、大原俊美を訪問 3月27日 勝海舟 横浜英国公使館のパークスを訪問し最悪の場合、徳川慶喜の国外脱出を依頼 4月 4日 土方歳三 勝海舟訪問後、鴻台(市川)に向う 4月 5日 西郷吉之助 大久保一蔵に経過報告と公私混同を避けるため勝海舟に会わずにいると手紙を書く 4月 9日 勝海舟、大久保一翁 池上本門寺で陸海軍より預かった嘆願書を提出し城受け渡しの打ち合わせをする 4月10日 勝海舟 池上本門寺で打ち合わせ後、寛永寺の徳川慶喜訪問し刀を賜る 4月16日 勝海舟 館山の榎本武揚を説得 4月22日 勝海舟 館山の榎本武揚を訪ね恭順を示すため新政府軍に軍艦の引渡しを要望 遊撃隊これに反発 閏 4月 2日 大総督府 勝海舟に江戸鎮撫取締を委任 閏 4月 4日 勝海舟 大総督府に徳川慶喜を江戸近郊に移せと建白書を提出 閏 4月 5日 勝海舟 西の丸大総督府に嘆願に行く 閏 4月19日 勝海舟 静寛院宮に徳川慶喜よび返しについて嘆願書提出 閏 4月23日 榎本武揚 箱館偵察の件で勝海舟訪問 閏 4月25日 勝海舟 大総督府に建言書提出 閏 4月28日 勝海舟 西郷吉之助に江戸鎮撫のため徳川慶喜を復帰させ没収した知行地を返還せよと手紙を書く 5月14日 勝海舟 公現法親王に書面を提出
お礼
早速にありがとう御座いました。 こういう日程、人の動きを拝見すると、大政奉還と明治の到来の精確とイメージが判読できますね。 何かこの人たちの生活、表情、そして呼吸が側で聞こえるような気持ちです。 ありがとう御座いました。
補足
「幕臣 山岡鉄太郎である。大参謀 西郷()殿にまかり通る。」 鉄太郎の単騎単身は、三月五日から、三月十二日の間なのでしょうかね。 1868年という年はまことに明けと同時に堰を切ったように歴史の動きが流れたのですね。 鉄太郎が海舟の意を体して対西郷面談した後に、無血の動きが廻りだしているのですね。 電撃的に田町藩邸での会談の後に、松涛園でのその細かい段取りの会談だったのですね。 それが三月十三、十四日。そして四月九日、十日でしたか。 いろんな記念日が日本にはありますが、こういう日を記念日としたいですね。 まことにありがとう御座いました。