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愛ってII
愛ってなんでしょう? 僕が思う愛は以下。 愛とは、対象に何かを望みながら、同時にその対象に対して理性的な行為をすること 前回の質問で、いただいた回答で若干定義が変わったのですが、まだ議論できると思ったので、再度質問します。
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よくある言葉ですが、 愛は寛容にして慈悲であり、求めず、驕らず、ひけらかさず。 そんな気持ちなのでは無いのかと、、、。 ですが、愛なんて幻 瞬間的な愛は存在しても、永遠の愛はありえない。思い込み
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- taco8ch
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まあしかしさ、 愛するあまりに人殺しってことも世の中にはあるわけだし。
愛は惜しみなくといいますね。 愛という字は「心を受ける+ノ」という成り立ちになっています。 与えると同時に受け取れるもの。 つまり与えられる以前より既に持っていたから。 与えることも惜しくない、そしてそれが喜び、快楽である。 多く持っていたら必要分以上は返すもので、 愛を無くしたとは 返しただけ。 愛を多く持っていることも不自由なもので 偽のお金(愛に例えて)を沢山与えられるよりは 本物のお金が初めから少ないことの方が、 返却の苦労も少なく楽ではあります(私は!)。 愛はおっしゃるように理性が、 性欲や支配欲、利己的な部分を超えるってことでしょうね。 その自分の為に愛することは 辛くもなったり疲れたり限界がありそう。 自分とは社会からも悩ましい存在で、 誰かの苦悩の代償を利用して生きたもので それを社会に還元することを「社会性」といって 還元が上手く行ったら悩ましい存在を置いて 共有感が生まれますよね。 お医者さんでもお笑い芸人でも、 社会に還元する喜びがあるので 自分も生き生きと生きていたくなります。 でも、苦悩や痛み、悲しい、寂しい、嫉妬、劣等感等も 病的なことで 共有させると無意味に生き辛くなってしまう。 愛は「心地よい触れ合い」と育児書にありました。 不真面目でも厳しくでもなく 共有感があふれた真摯な喜びではないでしょうか。 だからずっと大切、楽しいから無理もない。 そのままで一緒に変化するもの。 「自分が変われない」、に気付く時は 愛の終焉に近づいて 自分を抑えた愛情表現であっても 相手を変えることも辛いものになると思います。
- konagoo
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心、感情、認識、質感等の論理的説明ができない現状で愛、慈悲、憎悪等を定義することは出来ないでしょう。共感は出来ますが。 愛は、死、誕生、SEXに関連することでで表現されることが多いですね。 外部との境界の崩壊時または崩壊過程で発生する自己コントロール不能なエクスタシーだと感じます。
ネチケット、基本のマナーにこうあります。 議論を目的としたり、自分の意見の主張をするために投稿することはやめましょう。 削除対象はこんな記述に説明されています。 哲学は、ひとつの答えに結びつくことの難しいテーマです。質問者と回答者、回答者同士での論争にならないようお願いいたします。回答される際は、他の方への意見を載せるのではなく、質問者への回答やアドバイスをご投稿ください。 で、アドバイスですが、議論を目的とされないほうがよいかと思います。質問と回答の形式を守るのがこのサイトにふさわしいと思いますので。 ご質問は「愛とは何か」ですね。これに哲学的に回答すればよいわけですね 。 集合論的な表現になります。愛をL、非愛(憎をふくむ)をH、これらの概念をを含む論理世界(心理学的現象)をUとします。考えられる集合の積は、次の4つです。 1.L[H]、2.LH、3.[L]H、4.[L][H]。ただし、[ ]は否定を示す。 ベン図をイメージしてください。 L H | ( 1 ( 2 ) 3 ) 4 | 【2の領域について】 LとHは矛盾概念です。論理的には、2の領域は、空集合になります。 LH=0 (0は要素が存在しないことを示す) ところが、心理学的現象が、物理学的現象のように、数学的な論理性で表現することの困難があると思います。そこで私は、超論理的な考察をするために、この集合論の基礎に、矛盾概念の積に要素を認める立場をとりました。 すなわち、1を要素の存在を示す記号として用い、 LH=1 と表します。これが意味するところは、「愛憎が表裏一体であり、相互に顕示、黙示を交代しながら隠覆しあうような現象が見受けられる」というものです。 【1の領域について】 一方、L[H]は、愛かつ[非愛]ということですから、愛以外の何者でもない ものの存在する領域です。すなわち、普遍的な愛が要素となるでしょう。 【3の領域について】 こちらは、愛にあらざるものの類が要素として入ります。 【4の領域について】 すべては、4以外の領域に類別されてしまうと考えがちですが、ここは、ここから、すべてが生まれ、またそこえと帰るところ、あるいは、表象の表出や受容する主体のあるべき領域なのです。 以下、文末表現が変わってしまいました。見苦しいかもしれませんがご勘弁をお願いします。 愛とは、みえざる主体が、表出し、また、受容(感受・認識)するところのもの。その純粋普遍なるものは神の愛であり、人のうちには、相矛盾するものとの葛藤として現れ、転変流転する。理性は憎悪を緩和するかもしれないが、(つまり表出主体が表出行為をおだやかにすると)愛情もまた、激しさを失う。 他者とのかかわりにおいては、愛は他者を肯定するものであろう。もしそれが、願望([H]の類)をともなう(領域2)ならば、他者に関する肯定的(L類)な願望(H類)として現れるであろう。非愛は、他者を否定するものが中にはあろう。その場合、他者に関する否定的願望がともなう(領域3において)こともあろう。 心理学的現象界を上のような超論理的構造として捉えると、以上のようなことがいえると思われる。その構造は一つのパターンには限らない、多くものがあるだろう。したがって、無意識的に各人が捉えている心理学的世界の構造によって、多くの意見が現れるだろう。心理学的現象に客観性がないのはこのためである。論理を超えては、共通のものさしがないためである。 このような考察を経て、さて愛とは何でしょうかと問われれば、このように答える。 愛とは何か、私には分からない。他者に何かを望んでいるようにも見えることがあるし、そうでないこともある。理性的に行為しているように思えることもあれば、激しい感情をともなって見えるものある。愛憎のどちらか定めがたく、困惑することもある。 愛とは何か定めることは、人間のうちにある愛では無理ではないだろうか。もし、愛とは何かいいうるとしたら、神の普遍的な愛についてではないだろうか。それが人のうちに時として現れるのだと考える。 愛とは神聖なるものである。
お礼
うわ!すいません! おっしゃるとおり、まったくもって、議論したくて提出した質問です!。 他の方の、特に哲学や心理学の質問は、 結論のみを得るだけでなく、 議論を通じて結論を導くまでのプロセスを 理解したいケースもあると受け止めてしまったので、 質問してしまいました。 実際、ルールや利用規則等もしっかり読解しておりません。。 少しだけ継続したのち締め切って、今後は避けるようにします。 このサイトの趣旨の理解が不足していたようです。 すいませんでした。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
愛ってすごい抽象的な概念ですよね。 1000の顔を持つ。 1000の名を持つ。 1000は1000個という意味ではなく無限みたいな概念だと思います。 顔とは側面みたいなもので、元をたどると1。 一なのに無限に見えるもの。 名もそうです。 ○○の愛って表現します。 反面教師だって愛の一面。 その概念はどの種類の言語をもってしてもあらわすことが不可能。 直接触れないと知覚できないもの。 それを言葉に表そうとした詩があります。 <雷、全きノース>という題名についたものです。 【 我は最初にして最後の者なるゆえ。 我は誉れある者にして侮られし者。 我は娼婦にして聖なる者。 我は妻にして処女・・・ 我は石女にして多くの息子あり・・・ 我は把握し得ざる沈黙・・・ 我はわが名の言慈。 】 女神はトリニティーという属性を持っている。 産み・育て・破壊する。 破壊はマイナスの要素を思わせますが、新しい創造のために不可欠な要素。 破壊がないと再生が無い。循環しない。 これも愛なんだと思えます。
- ioaaaoa
- ベストアンサー率10% (171/1678)
聖書の引用は説得力がありますね・・。納得です。 でも私が思うに、理性的な行為は関係ありませんね・・。 「岩清水弘は早乙女愛のためなら死ねる」ですよ・・。 ↓
- hideyuki-man
- ベストアンサー率22% (7/31)
自分自身に接する(愛す)ように、他人に接することだと思います
お礼
早速ありがとうございまーす。 ちょっと反論めいた事言いますが、 議論なのでネガティブに取らないでくださいね。。 例えば恋人同士のような関係の場合、 自分が頻繁な連絡を望んでいて 相手は密度の濃い時々の連絡を望んでいる場合ってありますよね。 お互いが自分自身に接するように他人に接する場合、 自分は頻繁な連絡を望んでいるので相手に同じようにすると 相手はストレスを感じますよね。反対もしかり。 お互いストレスを感じる上に、 それぞれが望んでいるコミュニケーションを得られません。。 逆に、相手が望むことを与えることだとすれば、 お互い望む事を得られますが、 その行為は自分の価値観とは違うのでストレスを感じるかなと。 しかしお互いに相手のためと思って積極的にしている行為なので 自分は愛情を持っていると自覚して満足はできるのかな。 自分自身に接するように、というよりは、 他人が望むことを他人に与えながら接すること、としたほうが しっくりくるようには思うのです。 (そして、ここまでの議論は前回の質問で到達できました) ただし、相手が望む事を与えようとする行為の「動機」や、 与えたいと思う「欲求」があると思うのですが、 相手が望む事を与える、という説明だけでは この動機や欲求を説明できていないと思うので、 自分で言っててあれですが、片手落ちかなと。。
お礼
思い込み! ここを議論したい! 僕は、 「愛は寛容にして慈悲であり、求めず、驕らず、ひけらかさず」は 間違っているとは思わないのですよ。 ただし、この言葉だけで愛の全てを語っているとは思えない。 この「思い込み」を、「愛は寛容にして・・・」ってことと 両立させた考え方に到達できると 僕の質問の回答が得られるのかな?