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愛って

愛ってなんでしょう?。僕の中で出した結論は以下。 愛とは、対象に何かを望みながら、同時にその対象に対して理性的であること。 みなさんどう思いますかー? 古くからはどういう風に定義されていたもんですかー?

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noname#241887
noname#241887
回答No.4

「対象に何かを望む」ということは的を得ていると思います。 何も望まないということは相手が完璧であるかそれとも相手にもう望みを見出せなくなったかでしょう。 「理性的である」これは完全には同意しかねます。もし完全に理性的なら相手に何かを望むなどという感情的な行為には至らないはずです。 つまり、感情を理性で制御しきることは不可能に近いということです。 であれば、介入する余地も自然と生じると思います。

lululupimm
質問者

お礼

ごもっとも!。 介入する余地が自然に生じる、これはまったくもってそのとおりと思います。 感情を理性で制御する、これも無理だと僕も思います。 ですので、訂正してみます!。 愛とは、対象に何かを望みながら、同時にその対象に対して理性的「な行為をすること」 これでどうでしょうか!?問題が複雑又は歪んでしまうか???

その他の回答 (8)

  • shaken
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回答No.9

私が思うのには、愛にもいろんな形がありますが、究極的には愛する対象に対して何も期待しない、ただ、与える事だと思っています。 人の心の働きの中でも一番高度なものだと思います。

lululupimm
質問者

お礼

んーーーーーーー。。。 対象に期待をしない、与える事のみってことが 必要な場合もあるとは僕も思うのですが、 だとすれば、愛しようと思う対象を見つめる「自分」の中に、 期待してはいけない、あるいは与える事のみに徹するべき、 という風に考える「動機」や「欲求」があるのかなと。 人間って理性的にありたいと思ってもとめられないもんなんで、 たとえば、キスしてほしい、触って欲しい、気にしてほしい、 電話してほしい、などなど、対象に何かを望んでしまいますよね。 そして、ここが重要だと思うのですが、 このような要求を、今度は相手が自分を愛している場合は許すことになりますよね。 このようなお互いの関係は、愛ではないのか??? 本当に、何かを相手に望んではだめなのか???

  • tokytime
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回答No.8

NO.7です。 「親子関係における愛」についての疑問を考えて見ます。 親子の関係は昨日今日の関係では無く、生まれたときからの日常の交流の中で築きあげられたものなので、その過程を語らずしては何も言えないと思います。 「許す」という言葉の意味に限界を感じますが、 人間関係における「許す」という言葉が本当に持つ意味は、決して「許可する」という意味ではないと思います。 相手を「許す」とは、 相手を自分自身の固定観念を通して判断するのを止めて、 相手の固定観念に自分をシンクロさせ、そこから相手自身を見つめ、理解する・・ということを指しています。 つまり、自分自身の固定観念から相手をも自分をも、自由に解放することを意味しています。 決して、何かをすることを許可することではありません。 真に相手を理解しようとする姿勢を意味しています。 この時、相手に対する批判、非難などのネガティブな感情はありません。 さて、この事を親子関係に当てはめた場合、 親子が対立する場合、色々な原因が有るでしょうが、 まずは、親子の価値観が違う場合、 つまり、親が人とはこう在るのが素晴らしい・・と思っているのに対し、 子供が別の人生を生きたい・・と願望している場合です。 この場合、親といえども、子の人生の舵を取ることは出来ないと思います。 人は何時でも自分自身の責任しか負えません。 人の人生の責任を代わりに背負うことはできないので、人の人生を同意無く決定することも出来ないわけです。 この時、「子のために・・・」といういい訳をしても、単なる押し付けにしか過ぎません。 本当の愛情ではありません。「愛」と思い込んでいるだけです。 反抗的な子の中には機能障害の場合もあります。 反抗的というより、相手が何を望んでいるか理解できないので、トンチンカンな行動をしてしまい、反抗的に見える場合です。 この場合はよく観察していれば、気付くことが出来ると思います。 早く医療機関に相談すべきでしょう。 親にコトゴトク反抗する子の場合、 親の気を引きたい場合と、何かにつけ全てが苛立つ場合があると思います。 こういう複雑な理由が絡まっているときは、親も本当に大変だと思います。 親自身が未熟で子供っぽいときは、特に子供と対等に対立してしまうので、 なかなか解決が困難です。 その愛も未熟なので、自己愛を相手に対する愛などと勘違いしてしまうからです。 子供の心に寄り添って理解して、子供を励まし、慈しむならば、極端な対立は日ごろから避けられる、と思います。 子供に限らず人はいつも、自分を応援して励ましてくれる慈愛深い人を拒否することは出来ないと思います。 もし、親がいつもこどもを励まし、寄り添い、応援し、子が自由に心を成長できるように配慮するならば、良い親子関係が築けるはずです。 ただし、この場合の親は相当精神性が高くなくてはなりませんね。 親子関係とは相手を通して自分自身を見つめ、理解し、固定観念の縛りから自分も相手もともに解放して自由に愛情深くなって行くための、絶好のチャンスと捉えると分かりやすいと思います。 その成長につれて、愛に対する両者の固定観念も進化して行くのだと思います。

lululupimm
質問者

お礼

対象の視点、ものさしで対象を理解する、ということかなと。 非常に理性的な行為です。これなくして愛はないと僕も思います。 では、対象を見つめる理解する側は、なぜ理解しようとするのでしょうか?。なぜ理解したいと思うのか?。 理性的な心ってのは、非常に「能動的」なものであると思います。 受動的で勝手に起きることであるなら、それは理性というより本能なのかなと。 能動的である以上、そのような心の動きや行為をとらせる何かが、理解しよう、許そうとさせるのかなと。 これはなぜ?どんな動機で?どんな欲求で? なぜ理解したく思ったり、許したくなったりするのか?

  • tokytime
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回答No.7

NO.5です。 「許す」という作業は何を意味しているのでしょうか。 何を基準に何に対して許すのでしょうか。 許す・・ということは、つまりその前に、必ず、許しがたいという状況があるはずです。 許しがたいことが、まずあって、色々な課程を経て・・許すに至るはずです。 初めから全く抵抗がないのであれば、許す必要は無いはずです。 それはただそのようにあるだけで、初めからそのものが有るがままに認められるからです。 では、許す前の許せない状況とは何を意味するのか・・・ 許さないのは誰か・・ それは自分自身の観念、人生観、相手に対してこうあるべきだ、という自分自身の固定観念です。 他の人にとっては許せることでも、自分には許せないことが有るとするならば、それは自分自身の固定観念によるものです。 相手のせいではなく、自分の都合なのです。 相手を相手自身の都合ではなく、自分自身の物差しによって判断するから許せなくなるのです。 相手がこうあるべきだ・・と思っていた理想から相手が外れてしまうから、 許せなくなるのです。 相手から裏切られた・・とします。 相手は決して裏切るような人ではない、と固く信じていたのに見事に裏切られた・・相手は人が変わってしまった・・と思うとします。 でも、それは大きな誤解であり、自分の勘違いです。 相手は初めからそのような人だったのです。 自分で勝手に相手に対して理想像を押し付けて、そんな人だと信じ込み、 その理想型と違った行動を相手が取ったときに、 裏切られた・・心変わりされた・・と思うだけです。 ですから、相手を許せないときこそ、自分自身を知る絶好のチャンスだと思います。 何故許せないのか・・ 何を許せないのか・・ 相手の何処が予想と違っていたのか・・ 相手になにを期待していたのか・・そしてそれは何故なのか・・ どうしてそんな期待を相手にするのか・・ 自分のどんな理由から、そのような期待が生まれてくる必要があるのか・・ などなど・・ そうすると、大抵自分の心の狭さと偏見と強い固定観念が見えてくると思います。 ついでに、これらのマイナスの心情こそ、自分自身を苦しめているものだということが分かってくると思います。 心の状態が変わり広い視野になるとき、心の内の苦しみが減っていきます。 大抵のことには傷つけられなくなり、動揺しなくなります。 このような、自分の心を整理して理解し、負の感情を減らしていく作業をお互い協力しながら出来る関係こそ、愛に満ちた関係だと思います。 互いに協力しながら、こういう理解ができる関係が結べるとするならば、その相手は理想のパートナーだと思います。 両者とも、共に暮らせば暮らすほど、幸せが増していくと思います。 如何思われますか?

lululupimm
質問者

お礼

非常に高水準な考え方で理性的だと、感銘を受けます。 議論としてテーマを投げるので否定的に取って欲しくないのですが、 親の言うことを聞けない子供とそれをしかる親の関係においても 愛ってのはあるんじゃないかと思うんですよ。 この関係における愛ってのは、許すことなのか?。 しかる親の愛は許していることなのか? 親に従わず反抗したり行動を是正しない子供は、親に愛情がないのか?。

  • taco8ch
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回答No.6

逆、逆。 愛とは独占欲の美称で、偏執的な狂気そのもの。

lululupimm
質問者

お礼

ぅうーむぅ。 ネガティブな視点に立つとそうなるんすかね。 完全否定できないところもあります。。 でもできれば、肯定的なものでありたいかなと。 そうじゃないものを無理やり肯定的に考えても、 屁理屈にしかならないんですけどね。。

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.5

愛とは・・・ 対象をあるがままに認め、許すことだと思います。 例え、対象に少々気に入らないところがあろうとも、 ネガティブに敵対するところがあろうとも、 対象の心情に自分の心情をシンクロさせて、 対象の目と心から自分を観て理解する試みを通して、 対象の心情を理解することによって、 対象を許し、 そのことによって自分自身の心の幅を広げ、 慈悲の容量を大きくし、 他者を許せる許容量を拡大し、 対象と自分自身とを共に癒す行為と通して、 共に成長すること・・・・ が「愛する」という行為だと思います。 端的に言えば、「愛とは許すこと」です。

lululupimm
質問者

お礼

僕も許すことはすごい大切だと思います。 僕も10年くらい前は許すことの大切さが全然わかりませんでした。 僕が理性的と書いた事の意味が、ここに集約されているように思います。 でも、許す「だけ」じゃ足りないんじゃないかなと。。 恋人通しや結婚して一緒にすごすと、なんらかの共同作業をしますよね。 一緒の部屋にいる、ってだけでも、無意識ではできないし。 ってことはそこに何らかの動機があると思うんですが、 許すだけでは、その共同作業をしなくても許すってことになると その恋人通しってどんな関係???ってことになるかなと。 この共同作業をする理由はなんなんだろう??

  • 8942
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回答No.3

言葉にしたら嘘になってしまう。  それが愛

lululupimm
質問者

お礼

んむ。 これはなんだか、一見月並みな言葉のようで実は奥が深そうな予感です。 というか、僕的にもそのとおりと思ってしまいます。 が、その理由がよくはっきりしません。 正直、言葉で気持ちを伝えることには限界がありますよね。 これは僕もそう思います。 ということは、言葉を沢山並べても、正確ではない。 厳密に言うと、本当のことを言っていない。 というか、脳みそが別々である以上、言えない。 それゆえ、言葉にすると嘘になる、といったところでしょうか。 あ、でもこれは愛だけに限らず、思考する事なら何にでも言えるか。。 愛に限っては、言葉にすべきではない、ということか?。 理由がどうしても分からないのですが、なぜか僕も納得してしまいます。 言葉にすると嘘になるのが愛 →愛を言葉にすると、その言葉は嘘になる →愛が何かと言葉にすると、それは愛を語ったことにならない それでも言葉にしたいんですよーーーー。 今、気持ちと体では受け入れてしまっているのですが、 頭だけが付いていっていない不思議な感覚です。 頭でも理解して、全身全霊で理解したい。 それくらい価値のある言葉のように思えるのです。

  • nabayosh
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回答No.2

>愛とは、対象に何かを望みながら、同時にその対象に対して理性的であること。 愛については、人それぞれの考え方があると思います。 私はlululupimmさんの考えに、後半は同意します。 前半は正反対。 「対象に何かを望む」ということは、現状の対象を否定していることになります。 対象がどんなであれ肯定することが愛だと思っていますので、「何も望まず」としたいところです。 愛についての古くからの議論は、エロース、フィリア、アガペーなど、西洋哲学の歴史でも、ころころと変わっていますし、仏教では愛というのは否定的に用いられることもあります。いまひとつ、つかみどころのないものですね。

lululupimm
質問者

お礼

むぅー、なるほどー。 現状を否定しているのは確かにそうですね。そうじゃなきゃ望みませんから。 でも、見返りが具体的なものではないこともあるかなと。 相手にほんの僅かでも気にして欲しい、 時々でも思い出して欲しいと望むこともありますよね。 これすらも思わないとしたら、 その気持ちは本当に対象への愛なのか?。 今自分を思ってくれていない(=現状を否定)から、 少しは考えてくれるようになって欲しいと思う(=対象に何かを望む)。そのためにいろいろな事で愛情を示す。 ほんの僅かの記憶にすらとどめてもらうこともなくてよいってのは、 一体どんな気持ちなんだろう?。 と思ったら、やっぱ望むのかなと。どうでしょ。 神の愛は、神の存在を忘れるなという愛かな。 親の愛も、親の存在を忘れるな、自分の子にも同じ事をしてやれという要求をしている愛かな。 恋人通しの愛はいわずもがな。 兄弟愛、仲間に対する愛も、自分たちの絆を大切にしろと要求する愛。 要求する事の具体性や抽象性の度合いで、 愛の示し方や理解の仕方が違うんかなと。 どんなもんでしょうか。

lululupimm
質問者

補足

すいません、下のお礼の続きを書きようがないので、補足で。 対象がどんなであれ肯定すること、これは確かに愛のように思えます。 恋人同士であれば、そもそも体のつくりが違う生き物が 何かの共同作業をしなきゃならないわけで、 その目的、手段、意義を共有するためには 良くも悪くも対象を受け入れないと、ケンカばかりになってしまいます。 ということは、対象の良いところも悪いところも肯定しないとだめですね。 これは確かに!。 でも、本当に本当に何にも望まないってのは、 なんか違うような気がするんですよねーーーー。。。 望んではだめなんだとすれば、 愛情を示そうとする意志や行為の根本的な動機ってなんなんでしょう???。

  • jinny6202
  • ベストアンサー率12% (80/663)
回答No.1

>同時にその対象に対して理性的であること。 これってどういうことなんでしょう? 私は、ベタですが愛は何かしてあげたいと思うことだと思ってました。無償で。 だから「無償の愛」って表現は「無糖のブラックコーヒー」のようなくどさを感じます。 もともと無償ですから、残念!!

lululupimm
質問者

お礼

はじめて「教えて!goo」を使うので、jinny6202さんが初体験の相手となりました。ありがとうございまーす。 感情的の反対ってことですかね。 僕も見返りを求めてはいけないって最初は考えてみたんですが、 愛しているという人から何も望まれないのも寂しいですよね。 でも相手の考え方、環境、状況を考えないのもまずいですよね。 自分の感情と相手の感情の折り合いをつけるために、 相手を洞察したり理解したり将来や行動・感情の予測を立てたりするのは理性なのかなと。

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