- ベストアンサー
カントの「理性」
カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか? 『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。 「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」 という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。 ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。 「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵) 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。
その他の回答 (5)
- transaction
- ベストアンサー率65% (75/114)
カントと自然科学については,この↓ページがまとまってると思います。
- unicorn1
- ベストアンサー率60% (3/5)
実は私もカントのいう「理性」や「悟性」とは何なのか、しばらく前に調べていたことがあったのですが、いちおうそれによって分かったのは以下のことです。 まずカントの生きていた18世紀は、自然科学が急速に発展していった時代ですが、「十八世紀の、古典力学が完成した時代には、動物植物はもちろんのこと、人間さえも一つの機械として解釈するような傾向があり、世界を歴史的に発展し進化する過程として理解することができず、自然は絶対的に不変であるという考えかたの上に立った独特の世界観がつくりあげられました」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』)。 人間も大きく見れば自然が産んだもの、自然の一部に他なりませんが、引用のとおり18世紀における「自然」の概念はいまの常識とはかなり違っていたため、その一部である人間に対する考え方、とりわけ「理性」に対する考え方も、現在とはだいぶ違っていたようです。すなわち人間の「理性」(思慮分別)と「自然」の法則性とが同一視され、「理性」に対しても「絶対不変」の「自然」の法則性のように、絶対の信頼がおかれたということです。 その「理性」に対して検討を加えたのが、あの「批判哲学」三部作で、カントの『純粋理性批判』とは、人間の認識能力=頭脳活動の限界を明らかにしようとして書かれたものです。ここでいう認識能力とは自然科学的な認識能力のことで、カントのいう「純粋理性」とはその能力のことを示したものです。いずれにせよ常識でいうところの「理性」とは、関係はあるが違う概念だということです。(ちなみに「二律背反」や「物自体」論は、「純粋理性」の検討からでてきたものです)。 なおハイネの『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)は、後半にカント哲学とりわけ『純粋理性批判』のことが言及されているので、参考になるかと思います。またシュテーリヒの『西洋科学史(3)』(現代教養文庫)や高校の『倫理』の資料集も良いかと思います(ハイネとシュテーリヒの先の2冊は残念ながら絶版ですので、見つかれば図書館か古本で読まれると良いでしょう。)
お礼
お礼が遅れてしまっています。 なるほど…。 問題が随分と整理できたような気がします。 しかし、そうすると「今」「カントを学ぶ意義」はあるのか?なんてことを考えたりしてしまいました。 …ともあれ、どうもありがとうございました。 とても助かりました★
ちょっと思い出したんですが… かの夏目漱石先生が教鞭をとっていた時の話。 先生は、黒板に「I Love you」と書いて、学生諸君に「なんと読みますか?」と問うた。当然、学生達は「あいしています」だの、「君がすきです」だの、めいめいに答えますわね…。 ところが、夏目先生。「ぶぁかも~ん!!」と一喝、してこう言った。 「月が青いですね」。 これ。 どういうわけか「純粋理性批判」を思いだすんですよね… …で、近く、猫を飼おうかなんて思っていまして、名前、以前からの候補の中で「カント」が有力だったんですが、ここにきて再考してます。どうも、呼べば「関東~」と、聞こえる心配と、ペットはいつしか愛称で呼びがち。そのうち、「カンちゃん」に変換されそうなんで… すみません、つまらないことを… えっと…。R・D・レインの「結ぼれ」「好き好き大好き」は、哲学書で煮詰まった時、かなりお世話になりました。併せ読んでも、げに楽し。頭の中が、ストローに詰まっていた果実の粒粒、つるん、…な感じになることがあります。
お礼
お返事遅れています。 度々のおつきあいありがとうございます。 R・D・レインさん、ですか。φ( ̄ー ̄) メモメモ 漱石氏もいい味出してますね。 ネコの名前、ですが、それでは 「イマヌエル」 では如何か、と。
- what_is_new
- ベストアンサー率52% (19/36)
「Pure reason」ですね? カントの人生の13年をかけ仕上がった、このPure reason。 カントは、このpure reasonを書くにあたって、 まず、「感覚界を支配している根本概念」を論じました。 そして、「判断」と「認識」を2つに分け、 「判断」を「総合判断」「分析的判断」 「認識」を経験に基ずいて行われる「アポステオリ(後天的)な認識」 先天的にもっている「アプリオリ(先験的)な認識」 アプリオリな認識能力をもつ理性。アプリオリな理念に導かれて、 理性は人間に認識を与え、方向を決断してくれる。 この純粋理性批判の「批判」は、理性が追求する認識に関しての理性能力の批判。 「形而上学的原論」「実践理性批判」「判断力批判」なども、 時間の都合がつけば、1度、目を通してみてください。カントの批判哲学です。 総合的に読むと、掴めてくることもあるかも・・・です。
お礼
ありがとうございました。 頂いたアドバイス参考にして、カントの他作もいずれ目を通してみることにします。 繰り返しになりますが、どうもありがとうございました。
感覚のほうが理性に優ることを、体験的に知っていた哲学者かな、と私は思っているのですが…かねがね。 わりと好きですカントは。おもしろくて。 …すいません、答にも何にもなっていなくて。
お礼
イエイエ、とんでもございません。 「感覚のほうが理性に優る」っすか。 読み解くヒントにしたいと思います。 どうも、ありがとうございました。 思うところあれば、是非お手伝い下さると嬉しいです。
お礼
サポート、どうもありがとうございました。m(_ _)m 「先天的に存在するものとしての理性」...ですか。 カントの問題としていた「理性」というのは私のイメージするそれよりも、もう一回りぐらいハコが大きい感じがします。 もうちょっと頑張ってみたいと思います。 哲学書は難解な上に定義が一つ一つどれも大変で困ってしまいます。解説書も役に立ちそうではありますが、実書がやはり一番ストレートな気がします。(といっても理解するには至難のようですが。翻訳ですし。) ともあれ、ありがとうございました。