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江戸時代の税制
ある問題に「江戸期の税は商人より農民の方が重かった」というくだりがあるのですが、具体的な数字が分からなくて困っています。農民は五公五民や四公六民50%から60%だと分かるのですが、それが金貨にすると何両になるのか分かりません。商人の冥加金も職種によっては2両ぐらいから25両ぐらいと幅広いので比べ方が難しいのですが。
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五公五民とか四公六民というのは村高に対する年貢の割合であることに注してください。江戸初期には村高は実際の農業生産量にほぼ等しかったでしょうが、時代とともに実生産量が増え、このような状態になったと思われます。 増加の理由は生産技術の進歩よりも治水や灌漑技術が進み生産が安定したためと思われます。 一般に村高は夏の生産量、それも米を作ったとして算出されます。綿など高価に売れる物は含まれていません(農民はかなり自由に生産できた)。また冬場の生産も村高には含まれていないことにも注意してください。 私はこういったことを考慮して年間総生産に対する税率は一般的には20%以下だったと考えています。 実際の生産量(農民の収入)がどのくらいだったかという史料はなかなか見つかりません。推定ですが、村人一人あたり米に換算して2~3石と思います。その用途は食糧が1石(150kg)、年貢が5斗、残りは雑費。これが一般的な村の姿ではなかったでしょうか。 金額にすると、大雑把ですが米1石が1両と考えてよいでしょう。(嘉永頃からインフレになり慶応頃には10倍位になっています) ご参考までに私が生まれた村(岡山県内)のデータを記しておきます。 村高約250石、人数約500人、年貢は小物成を含め約200石、年間総生産量は少なめに推定して1200石以上(文化頃) 商人の税負担については浅学のためわかりません。
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- komes
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江戸時代の税制は、検地により定められた農地の石高が計算の基礎でした。 商人に課税するという概念はまだなかったのです。 従って一見納税の義務を負わされる農民に重く、商人は負担が軽かったという誤解が生じたのです。 農地の検地は太閤検地が有名ですが、これでほぼ全国の石高が決められました。 しかしこれは豊臣秀吉の時代ですから江戸時代の農業技術の進歩による収穫高の増加は計算外です。 従って税制上の石高より、実際の収穫量が多いのが普通でした。 検地は農業技術の進歩や新田の開発などで収穫量の増加があるので訂正される筈ですが、実際は僅かの地方しか行われませんでした。 これは農民の抵抗が強く、検地費用も莫大なので多くは農民側の自己申告を承認するしかなかったといいます。 従って農民の実態はかなり余裕のあるものでした。 とくに都市近郊で換金作物を作る農村でその傾向は強かったといいます。 しかし農業は天候などの影響を受けますから冷害や飢饉が起こると深刻な打撃を受けます。 特に寒冷地や地味の痩せた地方では餓死による人口減、耕筰放棄で米の収穫は減少しますが、年貢は免除されないのが普通です。 この為これらの地方に農民一揆が多発したのです。 一方商人には当初課税する概念はなかったのですが、経済の発達により商人は有産階級となったのでこれに課税する仕組みがいろいろ創出されました。 同業者組合にある程度の恩典を与えるかわりに税金を課すなど、新田開発を請け負い制度にして工事費を負担させる、不定時に冥加金を課すなどです。 甚だしい場合は財産没収という例もあります。 課税の負担感というのはいつの時代でも人それぞれ、環境それぞれです。
お礼
問題作成者の勘違いの領域にまで踏み込んで指摘していただき有難うございます。『課税の負担感というのはいつの時代でも人それぞれ、環境それぞれです』この言葉に大きく肯いていました。
- m-jiro
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こんばんは。またまた#2です。 米価が現在より10倍も高かったというのは労働賃金で比較してみたものです。比較する物によって別な結論も出るでしょうが、相当に高かったのは間違いないでしょう。なにせ年貢で暮らしている武士にとっては高くないと生活できなかったですから。高値に誘導したといわれています。 その米価についてはWebや史料集など、あちこちにあると思います。今、私の手元にある史料では、 天保頃までは 銀60~80匁、嘉永頃に100匁を越え、元治には200匁を突破、その2年ほどのちの慶応年間には なんと1000匁を越えています。(白米1石の価格) 物凄い値上がりですが、農民にとってはむしろ都合がよかったかもしれません。米が高く売れるのですから・・・ 私は自分の先祖を調べているうちに江戸時代の不思議にハマり、今は年貢など農民の生活を調べています。現代の常識とはかけ離れたかなり暮らしやすい時代ではなかったかと思われます。そしてホンネとタテマエに物凄い差があったこと、古文書の記述は鵜呑みにできないことを知りました。
お礼
有難うございます。僕もm-jiroさんの前回の回答を拝見して「結構農民も過ごし易い土地があったのかも。」と勝手に想像していましたが、今回の回答で同じ意見をお持ちなのを知って嬉しく思います。それでも一揆があった地域ってのは各藩の政治に大きく左右されていたということでしょうか?
- m-jiro
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こんばんは。#2です。 失礼ながら計算が少々違います。 年貢(200石)÷年間総生産量(1200石)≒税率(16%) 当村は他村より年貢はやや低かったと考えています。だいたい20%が平均的な税率ではなかったかと考えています。 一人あたりの年貢の量は当時の明細帳などから算出しました。年貢の納米量を村の人数で割ったものです。市史などを参考に近隣の30ほどの村で調べましたが、4~6斗位ですね。 これを調べるには苦労しました。納米量と人口が同時に記載された史料が非常に少ないのです。別々の文書から持ってきたのですが、時代が離れていてはダメですし、苦労しました。 余談ですが、幼児は人数にカウントされてないケースが多かったようです。死亡率が非常に高かったので、5~7才にならないと帳面に記載されなかったようです。 お金に換算すると、 米1石≒金1両≒銀60匁 ですから米5斗は銀30匁程度になります。 この頃、当村では村仕事(現代的に言うと公共工事)をすると銀1匁程度が支払われました(民間の日当はもう少し高いと思います)。すなわち、米5斗はほぼ1ヶ月分の労働賃金に相当すると言っていいでしょう。現在のサラリーマンの月給を30万円とすると、当時の米1石は60万円位になり、現在より10倍以上高かったとことになります。(現在は 米1石=4万円位) 江戸時代の記録は武士の側からのものが殆どです。農民の側のナマの記録はまずありません。そしてホンネとタテマエに物凄い差がありましたから、史料の読み込みには注意しなくてはなりません。
お礼
当時の資料までお調べいただいて有難うございます。感激です。16%がなぜ20%以下となるのか疑問だったのですが、『他村より年貢が低かった』という理由があったのですね。他村の資料まで見ていただいたとは…。1両=銀60匁ですね。失礼しました。一つ疑問があります。米1石が現在と比べて10倍というのは文化頃の資料ですよね。ペリー来航前からインフレは始まっていたということでしょうか?
物納されるお米を換算してみて、商人よりは、いかに重税であったかを実感したいのでしょうか? 広く江戸時代といっても、米の値段は、大きく上下します。 真ん中をとった値くらいということでいいのでしょうか? まず、日本の金、銀の価値というのは、世界のレベルと全く違ったりするのですが、そこらへんは、クリアーですか?
お礼
>物納されるお米を換算してみて、商人よりは、いかに重税であったかを実感したいのでしょうか? そうです。 >真ん中をとった値くらいということでいいのでしょうか? そうです。 >日本の金、銀の価値というのは、世界のレベルと全く違ったりするのですが、そこらへんは、クリアーですか? クリアでお願いします。難しい話だと思うんですが、これを問題として作成した人が何の資料をもとに断言しているのかいまいち分からないんですよね。
お礼
回答有難うございます。年間総生産量(1200石)÷年貢(200石)≒税率(20%)。年間総生産量(1200石)÷村人数(500人)≒村人一人当たりの収入(2~3石)。村人一人当たりの収入(2~3石)×20%≒村人一人当たりの年貢(5斗)という理解で良いでしょうか?となるとお金に換算すると村人一人当たりの年貢は5匁(1石=1両、1両=10匁)になりますよね。う~ん、これだと商人の方が税率高そうなんですよ。でも、大変参考になりました。