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旧式銃時代の塹壕戦について

チェリニョーラの戦い、チャルディラーンの戦い、パーニーパットの戦いと、 銃が本格的に戦場で使われるようになった初期の戦例では、防塁や塹壕で防御した 後ろから敵に銃撃を加えて勝っています。 ところがこれよりかなり後の時代の七年戦争とかナポレオン戦争とかの 戦場を見ると、何ら敵の射撃に対する防御を行わず、密集陣で突っ立った 歩兵同士が撃ち合っている光景が見られます。 再び塹壕戦や陣地戦が行われるのは、連発銃や機関銃が発明されてからです。 初期にそういう戦術が生まれてるのに、どうして陣地を構築して 撃ち合うことが無くなったのでしょうか?

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  • koon1600
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回答No.4

戦術とは常に移り変わるものです。 過去の戦争を見れば、持久戦と殲滅戦が交互に行われています。これは、戦前の戦術家である石原莞爾や、欧州の戦術家も同じように見ておりまして(石原は持久戦争と決戦戦争としています)、だいたい技術の進歩によって移り変わっています。 銃が使用されるようになった初期は、明らかに持久戦の様相を呈していますね。その後機動戦術に移り、一戦で勝敗を分ける殲滅戦争となり(日本海海戦のような決戦が行われる状態)、第1次大戦で再び持久戦となります。第2次大戦でも総力戦(つまり持久戦)でしたが、第1次のような目に見えた持久戦にはなりませんでした(持久戦と機動戦の過渡期にあたるかと)。そして、その後の戦争では、一気に勝敗を決める機動戦に近い様相を呈して今日に至ります。 つまり一定周期でだいたい移り変わっているのです。 戦術とは、優れているから移り変わるのですが、技術の進歩によってその優劣がかわるというのも、また戦術です。

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noname#30758
noname#30758
回答No.3

長篠も含め、初期の戦例における野戦築城は、発射速度の遅い銃の弱点をカバーするために、相手を近寄らせないようにする役割でした。 ヨーロッパではその後、反転行進射撃(いわゆる多段斉射戦術)が生まれ、発射速度の問題が解決されました。また、当時の銃はさほど命中率が高くなかったので斉射して弾幕を張らないとあまり効果があがらないという面もあり、攻撃力を重視した横隊がメインになります。 それから軽量で動かしやすい野戦砲が本格的に導入され、野戦で大砲が重要な役割をもつようになります。 更に、十七~十八世紀のヨーロッパでは機動戦がメインになります。これは敵の殲滅よりも、常に機動して有利な場所を占めることを重視する戦い方です。野戦砲や銃の斉射に耐えられるほどの陣地を作るとなると機動力が削がれることになりますから、この時代には塹壕戦は行われなかったのでしょう。どうせ守るなら要塞に拠ったほうが強固な守備が期待できますし。 ちなみにこの時代の攻城戦は、敵が動かないということで、塹壕をじわじわと掘り進めていく、まさに塹壕戦といえる戦い方でした。それまで土木建築は民間人がやっていましたが、この時代に工兵が登場します。 その後塹壕や堡塁が復活するのは独立戦争のころ(本格的な塹壕戦はもうちょっと後)ですが、銃の性能の向上によって横隊・斉射でなくても殺傷力が得られるようになったことが挙げられると思います。大きく散開して個々に狙撃を行う散兵戦術が同時期に生まれたのもそのためです。 また、同じく銃の性能が上がり、塹壕を掘らないと被害が大きくなりすぎるというのも表裏一体の理由でしょう。特に機関銃の出現においてそれが顕著です。

  • yoneda_16
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回答No.2

「何ら敵の射撃に対する防御を行わず」というのは誤解です。ナポレオン戦争でも堡塁や角面堡といった防御施設は盛んに作られ利用されています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 銃が本格的に戦場で使われるようになった初期の戦では、攻撃側が防御陣地に正面から突撃し、大きな被害を受けて負けました。7年戦争やナポレオン戦争では、それら戦訓が生かされ機動戦が行われるようになりました。 当時の火器の性能では、騎兵や歩兵の機動に対処しきれず、結果として両軍共に機動戦を行うようになりました。再び塹壕戦が始まるのは、連発銃というより元込めライフル銃によって射程/威力/発射速度が改善された南北戦争以降となります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%B9%E5%A3%95

  • buchi-dog
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回答No.1

野戦で大砲を使うのが普通になったためではないでしょうか。 例えば、織田軍対武田軍の長篠の合戦を考えて下さい。通説では野戦築城して武田軍を待ち受けた織田軍が射撃戦で武田騎馬隊を壊滅させたことになっています。この認識が虚構だと言う有力説もありますがここでは無視します。 仮に、武田軍に小銃よりずっと射程の長い大砲が多数あったとします。この大砲を高地に据え、上から織田軍の陣地を榴散弾で集中射撃したらどうでしょう?柵の内側に密集している織田軍将兵は次々に死傷しパニックになり、指揮官の命令を無視して後方へ逃げ出すでしょう。柵も滅茶苦茶に壊れています。そこに武田騎馬軍団が突撃すれば武田軍の圧勝に終わるでしょう。 野戦に大砲が参加するのが普通になれば、塹壕や柵や堀の意味はあまりなくなります。上から砲撃されればおしまいですから。そこで、ナポレオン戦争の時期は野戦築城せずに機動力で勝負する戦法が一般的になったと考えます。 ナポレオンの戦術は「敵に先んじて高地を取り、砲兵を迅速に上に上げて敵軍を叩き、敵が壊乱したら包囲して殲滅」というものだったようです。

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