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徳川家は何故・・
徳川家は家康以後、日本を完璧に統治していたよう見えます。何故天皇家は滅ぼされなかったのでしょうか?合理的理由がない様に思えるのですが・・
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● 徳川家は家康以後、日本を完璧に統治していたよう見えます 徳川家が直接、間接支配していたのは、親藩、譜代の両藩にすぎません。 例えば、私が育った中国地方の五県の内、島根県の一部だけが譜代藩で、後は全部外様藩です。 徳川幕府の力は、直接及んではいません。 外様藩の石高は、全国の半分以上になります。 そこで、幕府は何とかして外様大名の力を削ぐ事に躍起となっています。 親藩や譜代藩の仕事は周辺の外様藩のスパイです。何かの不都合をみつけては、取り潰しをしようと考えていたのです。 外様藩はお国替えをさせられたり、また参勤交代で無駄な経費を使い、国力を消費させられています。 有力な外様大名は中国、四国、九州に多く、これらは江戸からは遠く離れています。 ですから、一回の参勤交代でも大変な出費になるのです。 ● 江戸時代の幕府と朝廷の関係 徳川家康は何とかして朝廷を取り込もうとしました。 その手始めに、二代将軍、秀忠の娘を109代の後水尾天皇の中宮に送り込みます。 そして、中宮の面倒を見るために多くの人材を送り込んでいます。 しかし、将軍家は決して経済的な援助はせず、薬師などを派遣して、上手に天皇家を牛耳っています。 まず、天皇家の石高は一万石に定め、決して力を持たないように管理したのです。 後水尾天皇には、19人もの親王(全部側室が産んだもの)がいましたが、幼児のうちに次々と謎の病死をしています。 証拠はありませんが、将軍家が派遣した薬師にはどんなことでも出来たのです。 そこで、天皇は若くして退位し、中宮が生んだ娘(将軍秀忠の孫)に位を譲り、将軍家の干渉を和らげようとしています。 これが110代の明正天皇です。
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もし信長の天下統治なら・・・かもしれませんね。。。
お礼
御回答ありがとうございます
- makkori
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アメリカが国連をなぜ滅ぼさないのか?現在で言うとこれがいちばん感覚的に似ているような気がする。幕府と大名の関係は強い国と弱い国のようなもの アメリカが国連を滅ぼすというよりも、自分の思い通りに動かしたいと思っているのと同じで、そういう感覚
お礼
御回答ありがとうございます
- kurou_shana
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天皇とは単なる統治王ではないんですよ。 神道の祭祀王でもあるわけです。 そこが中国の皇帝などと違う所なんです。 古事記などをみればわかりますが、日本は神話で天照大神の子孫である天皇家が統治するということが書かれ、これが日本と言う国の国体というか・・・基本みたいなものなんです。 また、天皇家は古代には「権力」があった時代はありましたが、藤原氏や平氏・・・源氏などに政権を取られているときが多く、「権威」のみだけがあったわけです。 その「権威」を利用した政権を司るというのが、日本の歴史なんですよ。 藤原氏はあくまで天皇家の外戚として、平氏・源氏は天皇家の子孫として政権を「委託」されるという形なわけです。 日本という国は、力があれば天下を取れるという事ではないんです。 表向きは、必ず、天皇家から委託されるという形をとらないと、丸く収まらないんですね。 それには、天皇家の「権威」が必要なんです。 つまり、天皇家は超えられないんですよ。 徳川が仮に天皇家を滅ぼすなどしたら、他の大名などが黙っていないでしょう。 それに、江戸幕府はいわゆる「謀反」を無くすために、朱子学が武士の教育に徹底されました。 階級制社会を維持する上で便利な思想であったためです。 つまり、天皇家などを滅ぼしたら「階級制度」を無視して、他の大名が将軍家を滅ぼしてもよいということにもなります。 天下人は決して、天皇家の敵・・・・「朝敵」にはなれないんです。 天皇家あっての天下人なんですよ。
- ewyr-05
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日本で言う、 東大を目指し一番になる方がいます。 プロ野球で一番を目指す方がいます。 大蔵省でトップを目指す方がいます。 企業でトップを目指す方がいます。 いずれも、慣わしの元に己を研鑽しています。 では、戦国武将の出世とはどう言う物だっつたのでしょうか? 手柄を上げ、石高を上げ、大名になる。 官位をもらい、地位を誇示する。 天下人ならば、最高の官位や将軍を目指し、 幕府設立や関白を目指すでしょう。 >何故天皇家は滅ぼされなかったのでしょうか? 現代の受験のルール(文部省)を破壊し、 「俺が一番頭が良い」こう称する。 政府自体を破壊し、 「俺は今、大蔵省でトップの地位だ。」 何か空しくはありませんか? 現代で言う、 誰もが認める第一人者とは違うのです。 征夷大将軍→現代で言う、内閣総理大臣、 アメリカで言う、国防省長官。 つまり、価値観と言う物です。
- moritan2
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道鏡や称徳天皇は歴史の敗者です。古代の歴史では必ず敗者は悪者にされています。勝者は敗者を滅ぼした正当な理由が必要だからです。ですから、道鏡や称徳天皇に対する歴史の記述を鵜呑みにするのは正しく無いと思います。
お礼
ありがとうございます。私も確かな動画等とかが無い史実は疑う事にしてます。例えば宮本武蔵は今か100年後の人が思うアントニオ猪木伝説なんだろうなあ・・とかです。
- AUGQX-MAN
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#3の私の回答で、後続の方の回答が本題からずれていっているようですが(苦笑)。源氏の始祖は天皇家に遡れることは確かな事ですし、徳川家康もその事は十分知っていた事でしょう。#7さんの疑問ですが清和源氏は義家以前は朝廷の使い走りという感じでしたが、義家の登場により前九年の役と後三年の役で知名度が一気に上がり当時としては異例のステータスアップを成し遂げました。義家は「先祖」というより「源氏黎明期の英雄」という感じですね。だから、源氏の血を少しでも引いている武将は彼に憧れていたのです、足利将軍家に受け継がれた「義」の名前も義家に由来します。 さて、話を本題に戻して…質問者の他の疑問ですが、「日本史で天皇家を滅ぼそうとしていた人は他にもいたのではないか?」ということに答えたいと思います。 平将門は新皇と名乗り朝廷へ反乱する姿勢を見せましたが、自治権を求めての独立を確立したかったのであって朝廷や天皇家を滅ぼすという目的は無かったと思います(そもそも将門が新皇を名乗って僅か2ヶ月で滅んでしまったので、将門の真意は不明ですが)。平将門の先祖も桓武天皇ですから、やはり天皇家を滅ぼすという野望は無かったと思います。 道鏡はと言いますと、彼は天皇家を滅ぼすというより、天皇になって天皇家を奪おうとしていたんだと思います。天皇の権威をそっくり自分の物にしたかったのであって、天皇を滅ぼして新時代の王となるという大きな野望は無かったように見えます。道鏡はどっちを考えていたにしろ、反発の大きさに神託が後押しして頓挫する事になりましたが… 日本史で暗殺された天皇(上皇など元天皇も含む)って何人居ると思いますか?悲劇的な死を遂げた天皇(元天皇)は数人居ますが、皇后の連れ子に殺された安康天皇と蘇我馬子の刺客に殺された崇峻天皇と、暗殺された天皇は2人しかいません。俗説で暗殺が疑われている天皇も居ますが、はっきりと公式に暗殺されたとしてる天皇はこの2人だけです。それも飛鳥時代までの事とかなり昔でした。 平清盛や木曾義仲は策略好きな後白河法皇を疎ましく思っていたかもしれない、足利尊氏は後醍醐天皇を生かしておくと後々面倒な事になると思っていたかもしれない、と天皇や元天皇を邪魔に思っていた人は少なくなかったと思いますが、殺す(処刑する)事までは踏み切りませんでした。私が回答した織田信長にしても自分のすぐ足元に置こうとしたあたり、滅ぼすという事はなかっただろうなという感じもあります。 天皇家は日本が始まった大昔から続く長い唯一の血統であり、それは日本そのものとも言えました。この「伝統の重さ」というものに恐れを抱いて刀を握る事をためらわせてしまったのかもしれません。
お礼
ありがとうございます。道鏡さんは和気清麻呂さんを穢麻呂さんに改名させてしまうそのセンスが好きです。愛新覚羅溥儀さんは新たに皇帝になられた時には血統的な事でどのように喧伝されていたのかとかも興味あります。 全然関係無い話ですが・・ 弟さんの溥傑さんは私が子供の頃、普通の近所の木造アパートに住んでて当時それを知り驚きました。
- fe-shokugyou
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http://www.asahi-net.or.jp/~LW1H-TD/sgenji.htm http://www5f.biglobe.ne.jp/~kakibaku/kaki_genjikakei.html からすると、清和源氏の直接の始祖は臣下になった清和天皇の子(孫?)貞純親王の子 経基のようですが、どうやら異説として陽成天皇と言う話もあるようですね。
お礼
御回答ありがとうございます。
- Tacosan
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細かいことですが.... 「清和源氏」は清和天皇の皇子から出た説もありますが, どちらかというと陽成天皇の皇子から出た説の方が有力じゃないかなぁ? 陽成天皇は清和天皇の皇子なので清和天皇にも遡れますが, 普通は「遡って最初にたどりつく天皇」の名前を使うのが普通なので本来は「陽成源氏」を名乗るべきところ, 諸般の事情で「清和源氏」を使ってるんじゃなかったっけ?
お礼
御回答ありがとうございます。
- fe-shokugyou
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源氏の始祖が義家ねぇ・・・ 私は、直接の始祖が誰かはわかりませんが、少なくても義家よりは何代か遡る筈です。それに、更に遡れば清和天皇が先祖ですよ。「清和源氏」と言われたのは、そのためです。 また、戊辰戦争期に江戸城の無血開城の話をしている方がいますが、無関係ではないにせよ「天皇家あって~」と言う見解には賛成できません。ご存知かどうかは知りませんけど、「天皇家あって」という言い方ができるような経緯ではありませんよ。あくまでも当時の「江戸無血開城」の件では、天皇家は「脇役」であって「主役」では断じてありません。 私は、#1さんが本件では一番妥当な回答と思います。
お礼
ありがとうございます。豊臣氏が何故半島に出兵したのかも気になります。
- jamiru
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民主国家の建前は「権力」の分散。 絶対君主制の基本は「権力」は一極集中。 そして、歴史上の絶対王政の国が滅びる時がほとんど業火の中に消えていった事は定説です。 そして民衆も業火に巻き込まれていったことも。 天皇家と幕府に「権力」の分散を決めたことは十分合理的ではないかと思います。 明治政府が権力を一極集中させ太平洋戦争で業火の中に民衆共々消えていったのは当然の結果です。 しかし、幕末には悲劇はあるものの国土が業火に見舞われたわけではない。 特に幕府首都の江戸が業火に見舞われなかったことは直接的ではないにしろ、天皇家あってこそではないでしょうか。
お礼
御回答ありがとうございます。
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お礼
ありがとうございます なるほど・・ 御回答頂いて、こう思いました。やはりどんなに近代史に模して類似点を見つけ出そうとしても、通信手段等のあまりの現代との格差はそれが拒まれてしまう、と言う事です。遠隔地の情報を入手できるのが近代と比較にならない程、時間かかったのでしょうから為政者の統治への猜疑心もおそらく・・