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自分がされたことを他人にしてしまう心理
カテゴリー違いだったらすいません。 私は、過去に自分がされて嫌だったことを、人にしてしまったことが何度もあります。 普通は、人にされて嫌なことは、相手がされて嫌なことだということがより分かるので、しないものだと思うのですが・・。 こういう心理はどのようなものでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
この答えが全てだとは想いませんが、たとえば関西人を親に持つ子は、自然と関西弁を話すようになります。間違ってもフランス語は喋らないんです。 だって知らないからです。 知らないことは出来ないんです。 また、その関西人の子が毎日にようにテレビで標準語を聞いていても、実際に喋るとなると、また話は違って、そう簡単には話せるようにはなりません。つまり知っているからといって実行できるわけでもないんです。 単なる知識を超えた、経験(認識)したものだけが我々を構築しているといえると想います。 だから良い癖をつけたかったら、良い癖を持つ人の真似をして、自分のモノにしてしまうことです。私も今でこそ、誰に対しても言えますが「ありがとう」という言葉も、昔は、とても違和感があった言葉でした。でも、言い続けることで、なんとか自分のモノになりつつあります。
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- myrrb
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質問者さんの期待とははずれてしまうかもしれませんが、ご了承ください。 >過去に自分がされて嫌だったことを、人にしてしまった・・・ よくある普通のことだと思いますよ。というのは、人はよい行為しか行わないというわけではないからです。ある程度、自分にとって何かしらの利益があるように振舞う可能性が非常に高いと考えられるからです(あいまいな表現なのは必ずしも自分に利益があるように動機づけられているとはいえないからです)。 蛇足です。 人は自分のいる状況を加味して判断することがなかなか難しいようです。考えられる余裕があれば、嫌なことをしそうだ!と自分で考えて、回避することができますが、余裕がない場合はなかなか上手くいきません。このような状況の要因も関係しているのかも知れませんね。
お礼
回答ありがとうございます。 心に余裕がないと、他のひとに不快な思いをいつの間にかしてしまうのかもしれませんね。余裕を持ちたいです。
- hakobulu
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人が行動する理由(原因)は色々あります。 人の欲望には、主に 本能的欲望=好き嫌い 自我的欲望=損得 超自我的欲望=善悪 の三種類があるからです。 「>相手がされて嫌なことだということがより分かるので、しない」というのは超自我的認識(欲求)です。 「>自分がされて嫌だったことを、人にしてしまった」のは本能的欲求ということが言えるでしょう。 なぜそのような欲求が起こるかというと、 私たちは否応なしに外界の刺激を取り入れざるを得ないわけですが、「人から嫌なことをされる」のはストレスとして記憶されます。 このストレスというのは生体にとって負の影響を及ぼしますから、外に排出してやる必要性を常に抱えることになります。 通常の排出方法は、嫌なことをした当の相手に対して返すことですが、それができない状況は往々にしてあります。 溜まる一方では良くない影響を及ぼしますから、弱い人は、入ってきたものをそのまま誰かに投げ返そうとします。 強い人は、何か他のことに転化して吐き出そうとします。 つまり、それをバネにして前向きな生産(あるいは創造)のためのエネルギーに転化してしまうわけです。 これは、本人に取っては得なことなので、「自我が正常である」という見方もできます。 弱い人は、 「本能に左右されやすい」と言っても良いでしょうし、 (この場合は)「自我が弱い」と言っても良いでしょう。 また、「超自我的発想をする力に欠けている」と言うこともできるでしょう。 自分がされて嫌なことを他人にしても、恐らくは嫌な気持ちが残るだけだったはずです。 嫌なことをすることによって、自分に嫌なことをした相手と同格になってしまったことを証明してみせるようなものですから、当然のことと言えます。 このあたりの理屈にはお気づきになっておられるのでしょうから、後は、本能を制御することによって得られる自らの可能性の広がりを信じることでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね。心の弱さを認識しました。
お礼
回答ありがとうございます。 自分のものにしていくことが大事ですね。何度も繰り返して、身に着けていきたいです。