なんだかとても悲しい人生を送られておられるんですね。
>自分の弱みをさらすと、相手はそれを利用されるだけだと思うのですが?
という事は質問者さんの頭の中では人という生き物は【弱みを見せるのが弱者であり、弱みをみせられた人は見せた人を利用する人】という二極化した人達しか存在しないといっているようなものではないのでしょうか?
私はそんな事はないと思います。
悲しい事があったら共に悲しんで、嬉しいときには共に喜んでくれる人達がたくさん存在していると実感しています。
私が生きて来た中で接して来た多くの人がそういった人達だけしかいないことはない事の証明になっていると感じます。
私は今まで生きてきて利用するかされるかしか人が存在しないという考え方をしたことはありませんし(逆に人の事を顕著に利用しようとする人が存在する事は詐欺師や犯罪者がいるので理解はしていますが友人や家族やお付き合いしている人にそういった考えの人はいないです)、またそういった事を言われる方とはおつきあいしたりしなかったのでビックしたとともになんだか悲しい気持ちになりました。
質問者さんは目にごみが入った以外の理由で“涙を流された”事はありませんでしょうか?
以前テレビで見たのですが、悲しい時に涙を流すのは生物学的に人間だけ(ここではそういっていましたが・・・)だそうです。何故流すのかというと、他人に自分が悲しいという事を“伝える手段の一つ”として相手に自分の感情を示すために流す役割があるといっていました。
つまり、人間は他人に自分の感情や意志を表現することによってコミュニケーションを取る生き物なのだそうです。
その事から考えてみても弱みといわれていることがどういう事なのかは分からないのですが、感情や状況を他人に理解して欲しいと思うのは自然の摂理なのではないかと感じます。
逆に相手に利用される、または利用されないということばかり考えている人生は果たして本当に楽しいものなのでしょうか?
本や映画を見て共感して涙がでたり、また、他人の相談にのったり逆に相談にのってもらったりして助け合って生活していくのが本当の人の姿なのではないのかと感じますが、質問者さんの人生ですので利用されたくないと感じて人をを弱いとおっしゃるのもまた自由なのかもしれないですね・・・。
>自分の弱みを利用されるというデメリットのほうが大きいのでは?
弱みを利用されまいとしていつも気を派って生きていく人生と、どんなことでも気を許せて素直な感情で生きてゆける人生。私は後者を選びます。
確かに自分の周りに他人を利用しようとしている人ばかりでは前者の方が安全かとは思います。後者の人生を選ぶにはまず、信頼できる人作りが大切なのかもしれないと感じました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人が完全に分かり合えるなんてありえないし、分ってもらったところで何のメリットがあります? それよりも相手に自分の弱みを利用されるというデメリットのほうが大きいのでは?