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自分を追い詰める

自分を追い詰める心の癖があります。その心理から、自傷行為に走ってしまいがちです。満たされないおもいからでしょうか。 何処からこの考え方が来てしまうのでしょうか。またどのようにすれば治るでしょうか。お力を貸してください

みんなの回答

  • kenji-g
  • ベストアンサー率50% (2/4)
回答No.5

bartonさん、こんばんは。  私は専門家でも何でもありませんが、知り合いに境界例の方がおり、自傷行為(リスカなど)についても実際にその傷口をお見せ頂いた経験があります。  どんな人間にとっても(私にとっても)生きるという事はそれ自体苦しみを伴うのですね。そのストレスに対してそれぞれの人が何かしら“はけ口”を持っているのだと思います。趣味であったり、酒であったり、カラオケであったり……。  思うに いわゆる普通の人と自傷癖のある人との差は、自分で一杯一杯になってしまう前に、上手にガス抜きが出来るか出来ないかの違いだけなんですね。能力の差でも品格の差でもないんです。自分は劣っているとかは考えないでいいです。    若い頃に自傷行為を何度か繰り返した方とお話した時、こんな風に懐述されてました。 『 …死にたいくらい辛くて、苦しくて、何度も自分を傷付けた。けど死にたいというよりは、別に死んじゃってもいいかな、って感じで。不思議に冷静に感傷もなく、ただ手首から流れる血を 他人事みたいにぼ~っと見てる自分が居たわ。  ある日、自分がその時もっとも信頼していた人に、自分の自傷行為を見られた。ハッキリ言ってその時が一番恥かしくて、一瞬本当に死んでしまいたいって思ったの。普段手首切ってナルシストしてる時とは全然違う気持ちになった。  でも私の自傷を見た相手が、どんな目で自分を見るだろう? どんな事を言うだろう?って思って。ハッキリ言って自分も醒めてるから、この人も怒ったり自分をバカ呼ばわりするのかな?そうなったら興ざめね、みたいな自分も居たりしてね…。  そしたらその人に ハンカチで私の手首をしばりながら“あ~あ、もうほんと困った奴だなぁ。”って苦笑いされて。なんかね、その反応がすごい良かった。受け入れてもらってる気がしたのね。ごめんなさいねって割と素直に言えたし、本当にそう思えた訳。ダメな自分に酔わずにね。  その後で わたしのボコボコにふくれあがった手首見ながら“本当に死にたい人間は、手首切らずに首を吊る。だからこれはな、この手首はな、生きたいって気持ちの現れだ。自分はこんなにまでして生きてる!手首切ってでもいきてやるって証なんだろ? そうだろ?”って言われた。  そうかも知んないな。…そう思ってからは もうリスカは自然に止めた。』  私自身は何のアドバイスも出来ずにすいませんが、貴重な経験談です。

回答No.4

私は、bartonさんとはまた違った自傷行為の持ち主です 沢山の虐めにより自分は生きてはいけないのだと思い込んでいます そして、瀉血という血を抜く行為で死にかけた事もあります 自分を追い詰めるという心理は、必ずしも理由がある訳です 自傷行為は、自分を痛めつける事により安心を得るものなのだと思うのです どれ程我慢しても、自傷行為に走ってしまうのであれば、精神科に行って診察してもらう必要があります 精神科医師は、心の病気の専門家です その状況に応じて合った薬を出してくれます また、薬などに頼りたくないのであれば、カウンセラーに行くことをお勧めします

  • myrrb
  • ベストアンサー率44% (23/52)
回答No.3

おそらく本当に自傷行為を治したいという気がおありになるのでしたら、専門家のところにいくことを強くお勧めいたします。 自傷行為は、ある意味風邪を引いて熱がでたようなもんです。あまりにもひどい風邪だったら病院にいきますよね。敷居はそんなに高くないですよ。というか、あまり敷居が高くないような病院をお探しになるとよいかもしれません。自分に合う先生が見つかるまで、病院をめぐってみてください。絶対よくなりますよ。 風邪だっていつか治りますから。

回答No.2

まず、個人的感想ですが、質問者様が、「自分を追い詰める心の癖」を持っていることを 自覚できて、そのことに「困っている」ことを認識できて、こうして活字化できたという ことを、とてもよいことだと思います。 自分を大切にしたい(自分に優しくしたい)と思うことは、生きていく上で、最も大切な ことのひとつだと思います。 こういう気持ちは、多くの人が、当たり前のように持っているのではないかと思います。 持っていることに気づかないほど、当たり前に「与えられる」のではないかと思います。 ところが、「与えられそこなう人」たちも、ときどきいます。 例えば、幼いときに、物理的暴力、言語的暴力、精神的暴力、無関心、過剰な支配、 過剰なコントロールなどがあって、「安心感」「自分は大切にされているという気持ち」 「自分は尊重されているという気持ち」を得ることができなかった人たちです。 もし、幼い子どもが初めて体験する「社会」(家庭)に、そのような要素があっても、 幼い子どもはそのことに疑問さえ持たず、それが「当たり前の環境」だと「思い込む」か、 あるいは「イヤだな~」と思っても、一人で生きる力を持たない以上、抵抗するという 発想はできないと思います。そして、自分の一部を(無意識に)埋没させて、その家庭に 「適応」しなければならなくなります。 その家庭に「適応」した状態のまま成長すると、ある時点で、過去に埋没させた「自分の 一部」が、「いますよ~」と顔を出すことになるのですが、顔をだした「自分の一部」に、 自分が慣れていないため(受け入れることができないため)、その「自分の一部」を罰して しまうのではないかと思います。 前置きが長くなりましたが、過去に(おそらく幼いときに)、「こうしなければならない」 「こうしてはならない」「こうするべきだ」「こうあるべきだ」という強迫的思考回路(?) を持った人が、身近にいませんでしたか? その人は、質問者様にとって、とても大切な人だったのではないですか? その人に、見捨てられるのがとても怖かったということはないですか? 対処法としては、いろいろな他人の価値観に触れ、必要そうなものを取り込み、 過去に身につけた悪癖や、歪んだ思考回路を手放していくのがよいかと思います。 これは、長い時間がかかると思います。 しかも、「手放す」わけですから、「喪失の痛み」も伴うと思います。 この本が、お勧めです↓。 http://www.bk1.co.jp/product/02402989/?partnerid=p-bk1bk162806

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.1

素人の私見として述べてみます。 学問的な根拠はありませんからその点はご了承お願いします。 自傷行為も色々ありますが、リストカットでしょうか。 原因は多岐に渡るようですが、根本にあるのはお気づきのように「満たされない思い」と表現して良いと思います。 何処からくるのか、ということに関しては専門家ではありませんので断定することは不可能ですが、あくまで個人的な見解として、私は家庭環境、すなわち親子関係にその原因がある場合が殆んどではないか、と考えています。 この世に生を受けた当初、人は誰も無力です。 一人で生きていくことは決してできないでしょう。 ですから、基本的には一人で選択する能力ができるまで(個人的には9~10歳ぐらいまでと思っていますが)、人は無条件に庇護される権利を持っているとするのが妥当であろうと思います。 生まれてくるものに対して十分な義務を果たす能力を持たないまま親になる人も大勢います。 「十分な義務」といっても、ただ、自らが一個の人格の基を創造したのだという認識と、愛しむ感情のバランスが取れていれば良いだけなのですが。 どちらかが極端に過剰だったり、あるいは極端に不足していたりする場合、無力な者に多大な影響が及ばない方が不思議であろうと思います。 いずれにしても、無力な者の無意識には、自らが受けた「不当な対応」が深く刻印されることになるでしょう。 ところで、人が生きる以上、負の影響のみを甘受することはできません。 必ず「帳尻」をあわせようとします。それでなければ生きること自体が不可能になるからです。 自傷行為は、自らの心に受けた傷を顕在化させる行為ではないかと考えます。 顕在化によるメッセージですね。 メッセージだからと言って必ずしも積極的に知って欲しいと思っているわけではありません。 その意思を表明した、ということ自体が重要なのです。 かくして、bartonさんも気が済むまでその行為を続けるのではないかという気がします。 意味の無い同情をするつもりは私にはありません。 ただ、なぜ顕在化してしまうのか、ということを考えてみます。 実に簡単なことで、潜在化しているものだから顕在化の必要性が生じます。 あえて言ってしまえば、無意識の領域に納めてはおけないほど重要なことを無理矢理潜在化させているために顕在化が激しさを伴って生起するのでしょう。 「不当な扱い」をされた自分を客観的に見つめ直し、その張本人と(精神的な)対決をするのが最も確実な解決方法です。 ただ、理論的にはそうであっても、これは案外難しい作業になります。 なぜかというと、当の相手に不当なことを為したという自覚が無い場合が多いからです。 そういう場合は、今後生じる『違和感』を放置せず、対等な人間として対応していくことがわずかばかり残された道になるでしょう。 また、様々な理由や事情で直接対決が難しい場合も多いはずです。 そのような場合は、言葉にして顕在化させる方法があります。 つまり、bartonさんは間違いなく何らかの不満を抱えているわけで、その根本を良く考えながら信頼できる誰かに話してみるということです。 それも難しければ文章にしてみます。 自らを主人公にし、常識や義理などは無視し、自らの心にだけ忠実になって無意識の奥深く眠っているものを浮き上がらせる作業です。 いずれの場合も、カタルシスの発散が行なわれることになり、「満たされない思い」の一部が「誰かにわかってもらえた」という安堵感、あるいは「客観的に顕在化できた」という満足感によって相殺されることが期待できるでしょう。 日常の考え方としては、大きく視点を変えてみることをお勧めします。 視点を変えるといっても抽象的かもしれませんが、例えば「自らの背中から見た自分というものを考えてみる」とかいうようなことです。 完璧とはいえないまでも、また、清濁入り混じった不満足な状況が続く中ではあったけれども、確かに生きてきたし、ある面では生かされてきた。 そこには拙いなりに精一杯に注がれた過去の愛が片鱗として煌くこともあるかもしれません。 とりあえず、あらゆる事実を検証しなおすつもりで視点を大きく変えてみてください。 そこからあなたが何を感じどうしていくか、それは今の段階では誰にも、おそらくご自身にもおわかりにならないことでしょう。 ただ、何らかの新たな可能性への一歩になることは間違いないのではないか、と考えます。 最後に対症療法として、次回リストカットをしたくなったら、以前ネットで見かけた方法ですが、 【手首に冷たい氷を押し付ける】 【赤のマジックで強く線を押し引く】 ということを代替行為として行なってみてください。 ここにご投稿されて、私がそれに回答させていただいたのも何かの縁でしょう。 やはりあなたが傷つくことを想像するだけでも非常に辛い事なのです。

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