- ベストアンサー
金魚鉢の金魚はなぜ怒るのか?
たとえば「宗教」や「神」をめぐる論争をしていて 相手が「目に見える世界」だけしか相手にせず、したがって「形而上のこと」を理解しない場合に、 「まあ、あなたが言っているのは、金魚鉢の中の金魚が外の世界を理解できないようなものなんですよ。 宗教はその外側に広がっている世界ですからね。理解できないのもしょうがないですね」 と言ったとします。(この比ゆは mmky さんのを勝手ながら使わせていただいています。ありがとうございます) そうすると、猛然と怒る人間がいます。これはなぜでしょうか? たとえば、私は下手ながら将棋をします。アマ名人クラスの年下の友人がいて時々指導してくれるのですが 「あなたの将棋はまあ、初段の手前をうろうろするぐらいですね。 2段以上になるためには、「位」が分からないといけない。 3段以上になるためには、「厚み」が分からないといけないんですが、そこまでは現世では無理みたいですね。」 と言われます。そう言われても 「そんなもんかなあ。」と思うだけで腹は立ちません。 いまだに「位」も「厚み」も分かりませんが、それが「分かる」「見える」という達人同士の世界は 他のことからの類推によって「想像する」ことは出来ます。 それがなぜ「宗教」や「神」の話になると これだけ「いこじ」になる人が多いのでしょうか? 反論も大歓迎です。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (12)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
質問者様の仰りたいことは どんなに説明しても、科学的証明を示しても、具体的事実を列挙しても、 絶対に目に見えない世界・・霊的世界を否定する人が存在し、そういう人たちは闇雲に何が何でも絶対に認めず否定するので、 半ば諦め顔で 「まあ、あなたが言っているのは、金魚鉢の中の金魚が外の世界を理解できないようなものなんですよ。 宗教はその外側に広がっている世界ですからね。理解できないのもしょうがないですね」 というと、猛然と怒り狂うのは何故か?????? ということだと解釈しました。 それは多分、神や霊の否定論者にとって 神や霊を肯定する人たちは、時代遅れで迷信を妄信する愚かな人たちなんだと思います。 自分達否定論者こそが科学的、知的な常識人であって、ちまたに溢れるイカガワシイ霊能者のカモになる犠牲者を無くすために、 又その妄信者たち自身がカルトの被害者になるのを防ぐ意味でも、何としても霊や神などどいう前時代の遺物など意味のないことだ、と社会に知らしめなくては・・ と思っているのではないでしょうか。 自分たちこそ最も幅広い科学的視野と知性を有している・・と思っているのに、逆に迷信家から知的視野が狭いと憐れまれてしまったので無性に腹が立つのではないでしょうか。 この問題は、現在の科学で認識できる物質と法則内では研究証明することが難しいので何時までも平行線ですね。 ただ、最近は医学者や科学者やジャーナリストなどが何十年にもわたる臨床や事実の確認などを収集し、霊や生まれ変わり、死後の世界・・の証明とも言うべき研究成果を多数発表しています。 これこそ科学的証明とも言えるものです。 もともと科学的証明とは すべての事象がある仮説に当てはまる場合、 又はある仮説によって全ての関連する事象が例外無く説明できる場合・・に証明出来た・・言えるものだと思います。 私も今まで何度もそれらの著書のURLを紹介しましたが、 「とてもにわかには信じられません。」で片付けられました。 つまり、人の信条とはちょっとやそっとでは変わらないということでしょうね。 お互いそうなのでしょう。 自分の周りに出現する人は自己の鏡(写し絵)だと言いますから、互いにそのように見えているのでしょう。 自分にとって、強固に対抗する存在が出現したならば、一度彼らの立場に立ってみて、何故彼らがそんなにも意固地になるのか・・その依って立つところの根拠、信条、心理は何か・・その信条により、彼らはどんな恩恵を受けているのか・・を探ってみるのも、自分を客観的に知るための何か参考になりそうです。 私としては、意固地にはなりたくないので科学的証明といえる著書をじっくり読み込み、これぞ、と思ったものを淡々と紹介していきたいと思っています。
その他の回答 (11)
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
>どうしてもこの種の話題は紛糾し 感情的な行き違いにまで発展する可能性が高いということではないでしょうか? :一見正しいように見える命題に対して疑問を抱くのが哲学的姿勢でしょうから、一見正しいと思っている人との間で食い違いが生じるのは当然の成り行きでしょう。 つまり、答えの未だ見つかっていない事柄について論じていることになるわけですからね。 議論とならないように云々は、そのことに触れているわけで別に不思議なことではありません。 しかし、この件は、議論が紛糾するなどという高度のレベル以前の問題だということにお気づきになるべきではないでしょうか。 つまり、議論を一方的に断ち切ろうとする捨て台詞と何ら変わらない、ということです。 将棋の例では勘違いされているのではないでしょうか。 「ひまつぶしだから、いいじゃないか。」とお答えになるそうですが、将棋を指している最中に、当の相手からそのようなことを言われて、そのような対応ができるのでしょうか。 相手は、 あなたは将棋の真髄を知らないからあなたと将棋をさす気は無い、と言っていることになるわけですが、それ以上将棋を続ける意味、あるいは価値、があるでしょうか。 その場の状況を良く想像してからお考え下さい。 それと同じようなことを対話の相手に対して言っているわけですから、対話にならないのは当然だと納得できるはずではないか、と思います。 結論としては、いくらあなたが優れた見識の持ち主であったとしても、感情のある生き物を相手にしているわけですから、 仮に困っている人に食事を与えるような機会があった場合に、食物を入れた食器を足で蹴ってその人の前に差し出して、「せっかく食事をあげたのに、なぜ彼が怒るのか不思議だ」などという疑問を持ったりしないように精進していただきたいと思います。 他者のためのみならず、あなた自身の人としての可能性をより広げるためにも、あなたと同じ自尊心は誰しも持っているのだということに早く気付いて欲しいと願っております。 因みに2次的な問題なのですが、 「金魚鉢」の例えの決定的な誤りは、「鉢の外側」があるという証明がされていないにも拘わらず、鉢の存在だけは間違いないことのように主張していることでしょう。 そして鉢の外側と内側があって自分はその両方を知っているが君たちにはわからない、などと言われてなるほど・・・、などと思う人がいるのでしょうか。 ・・・、いや何人かはいるのでしょうね、そういう方も。 ま、それは好き好きですから良いとして、全ての人間がその論理で納得しないからといって不思議がるのは、不思議がるほうが不思議ですよ、と申し上げているわけです。 つまり、(鉢の外側など)無いかもしれないのに、それを認識していないから無知である、と言っているわけで、そのような指摘に論理性があるとお考えになっているのであれば、視点の転換をお勧めいたします。
お礼
困っている人に食べ物をやるのに足で蹴っているような態度なのですか。 そう思われてしまうわけですか。 うーーん。最後は人間のプライドの問題なわけですね。 真理を知りたいという欲求よりもプライドの方が勝ってしまうということでしょうか? 人間はどうしても自分を基準に考えてしまいますからね。 (ちなみに私は、仮に私が分かっていないことを分かると断言する人間に出会えば、 それこそ根掘り葉掘り、食い下がって論戦を挑みます。 プライドの問題などちょっと思いつきませんでした。) 回答ありがとうございました。
- ojizou-sam
- ベストアンサー率30% (12/39)
「金魚鉢の金魚」」と言われれば、誰だって自尊心がありますから、立腹して当然だと想います。 これはちょっと柄の悪い発言だったと想います。 「柄」とは「人柄」です・・・・。 で、私は想うんですが、質問者さまが、本当に真理に精通しているというか、詳しいのであれば「毒矢のたとえ」のように、論争や議論を超えて、真理を伝えてみたらいかがでしょうか。どうすれば幸福になれるのか、人生を好転させることができるのか、心を安定させることができるのか、・・・・相手のことを想って、それを一生懸命伝えてみたらどうかと想うんです。慈悲喜捨の気持ちで。 私はいつも「実際にお釈迦さまが生きていた当時には、どうやって説法していたんだろう?」と想うんです。 だって、経典を読むと「みんながあっと言う間に悟った」なんて書いてあるし、実際に、町中の若者が出家を望むくらい人気があって「人さらいのゴータマ」なんて言われてたとも書いてあるじゃないですか。だから、よっぽど、簡単に、丁寧に、腑に落ちるように説法していたんだと想うんです。 「人を見て法を説く」なんて言いますが、打率10割とはいかないまでも、かなり人の心の琴線に触れるような説法をしてたんじゃないかなと想うんです。 だって、逆に、学者ぶったり、好んで論争をしてたんでは、人はついてこないと想うんです。なぜならば、やっぱり、人は「人柄」に惹かれるんです。 経典に「ゴータマは、やあ、よくきたね!と自分から話し掛ける人だった」と書いてありますが、私は、実際にお釈迦さまはこういう人だったと想うんです。(想いたいだけなのかも知れませんが) 私も人のことは言えませんが、金魚鉢の金魚ほど、真理を必要としていると想うんです。 我々の苦しみは無自覚で起こるのですから、無明の闇に覆われているんです。 その金魚が怒るのは、宗教や真理ではなく、やっぱり「人柄」に対して怒ったのではないでしょうか。 犬だって、猫だって、罵られたり、蹴られたら怒るんです。
お礼
<その金魚が怒るのは、宗教や真理ではなく、やっぱり「人柄」に対して怒ったのではないでしょうか。> おっしゃることは100パーセント正論です。 私も多分、100人中98人までは、対機説法をやっているはずですし、 黙ってにこにこして済ます場合も多くなってきました。 (多くなってきたというのは、この手の議論が結構多くの比率で必ずしも歓迎されない あるいは、議論が紛糾するということを、ここ2年ぐらいで急速に経験してきたからです。 この種の議論を若いころから周囲の人間と交わしてきた人は 「そんな議論はたいがいの場合、嫌われるよ」ということを知っていたそうです。 それも実は私にとっては驚きです。) ただ、残りの2パーセント(おおむねかなりのインテリ)の反応が 不思議でしょうがないのです。 回答ありがとうございました。
- de-niro
- ベストアンサー率21% (16/76)
どちらかというと私はこの手の話に「猛然と怒る」タイプかも知れません。 >宗教はその外側に広がっている世界ですからね。理解できないのもしょうがないですね こういったモノワカリのよい寛容な神々しい視点で論じると、一切の反論を封殺することはいともたやすいでしょう。しかも反論を封殺する攻撃面が「うんうん金魚君、金魚鉢の広さも把握しきれないのに、外の世界なんて想像できなくて当然なんだよ。」といった守備と表裏一体なんで完全無欠ですね。 >これだけ「いこじ」になる人が多いのでしょうか? 「宗教」や「神」を持ち出すと、前提条件が流動的にすりかえられやすいし、おそらくヒエラルキーの頂点に位置するんで、大した考察がなくとも、絶対的普遍性、真理を導き出しやすいからではないでしょうか?
お礼
すみません。前提が必ずしも伝えきれてきませんでした。 この質問のお礼欄に書いていますように会話の流れとしては 突然私が、形而上の話を持ち出して振り回しているわけではなくて 形而下の話は十分、尽くした上でさらにその根本原因を語るというものだとお考えください。 回答ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
「まあ、あなたが言っているのは、蜃気楼として空中に浮かび上がった湖を指して、あそこに水があるのがわからないのか、と言っているようなものですよ。 真実としての証明ができないのはお互い様だとしても、蜃気楼が本物でないかもしれない、という想像力の欠如している人に、いくらあれは幻だといっても通用しないのはしょうがないですね。」 と言われて、あなたが腹が立たない、というのであれば、まあ感性の相違、だとしか言えないでしょう。 要するに論点ではなく、 金魚鉢の例は、君には到底理解する能力自体が欠けているのだという意味ですから、 いくら相手を馬鹿にしていない、と言ったとしても、人の目の前でつばを吐き出しておきながら、別にあなたを馬鹿にしているわけではない、と言っているのと同じことでしょう。 相手を明らかに下位にみなした表現なわけですが、そういうことすらわからない想像力の欠如が、相手の怒りをかう一番の理由ではないでしょうか。 将棋の例を挙げておられますが、 「位」や「厚み」などは金魚の泳ぎ方についての言及であって、だからこそ「>想像する」ことが可能なわけでしょう。 金魚鉢の例になぞらえるとすれば、 「なぜあなたのような能力の乏しい人間が将棋などやるのか理解できない」と言っているようものですよ。 それでも腹が立たないというのであれば、あなたは聖人君子ですから、このような場で我々凡人を相手に議論するのではなく、納得できるような「ものの言い方」方面をぜひ研究してください。 もっとも、あなた自身が「いこじ」になっているのであれば、それもおぼつかないでしょうが。
お礼
<「なぜあなたのような能力の乏しい人間が将棋などやるのか理解できない」と言っているようものですよ。> そうですかね。将棋の場合だと、そう言われても 「ひまつぶしだから、いいじゃないか。」と答えますね。
補足
いや、やはり単に相手から下位に見られたということで怒るのとは違いそうです。 たとえばこの哲学カテゴリーは質問をする時の注意欄にわざわざ <また、質問者と回答者、回答者同士での論争にならないよう、質問背景や質問意図、 疑問点についてご説明を添えていただき、議論とならないようご配慮ください。 なお、結果として議論となってしまった場合は、質疑を削除する場合もございますのでご了承ください。> と書いてありますね。要するにどうしてもこの種の話題は紛糾し 感情的な行き違いにまで発展する可能性が高いということではないでしょうか? それがなぜなのかが不思議だと言っているのです。
- konstellation
- ベストアンサー率59% (38/64)
この質問に答えるのは、比較的簡単ですね。 議論とは関係なく、質問者氏の態度が傲慢だから、相手の方がお怒りになるのでしょう。その態度は、次の二点にみられます。 a) 自分を論理的で知的な人間だと勘違いしている。 >私は過去ログを見ていただけば分かるように、経済や政治、東洋哲学に関しては 世間の「常識」を簡単に論破できる見識を有しています >相手が言うことぐらいは、こちらが簡単に論破できている 上記のようなことを平気で述べる人の知的レヴェルは概して低いですね。 思考の浅薄さがこうした言葉にも表れているにもかかわらず、自分を「大学生」あるいは「大人」、相手を「中学生」あるいは「子供」のように見なしています。 b) 肝心な点には答えない。 前回のトピックで、ある回答者氏が、 >「普遍性はある」と断言される(少なくともその前提で話をされる)質問者さまの心理状態は??という疑問があるのです。ですから「ある」というほうを先に証明すべきではないか というように指摘しました。しかし、質問者氏のコメントは「ありがとうございました」だけです。 たとえ、哲学史的には無理難題だとしても、質問者氏が敢えてまた問題となさるのですから、ご自分の見識と論理性を総動員してぜひとも説得力のある説明をするべきでしょう。 もちろん、将棋の初段に満たないレヴェルでは難しいかもしれませんが、そういう場合は、 「まあ、そんなのは大人になったら分かるさ。大人にならなきゃ無理だね。」 と逃げる手もあります。
お礼
ありがとうございました。
補足
前質問に対するコメントが簡単だったのは、その前の回答に対して すでにコメントを書いていたからです。 ついでに言えば、私(普遍性肯定派)の方が先に証明すべきだという ことに関しては別のところで繰り返し説明しているので ここではくどくどしく議論を展開するのは避けます。 一点だけ言っておけば 神や普遍的理法というのは、すべての事物・事象の根本原因です。 根本であるということは、もうそれ以上原因をさかのぼれないわけですから ある「有限な事物・事象」をもって、「これ」であると 特定できないわけです。
- NCU
- ベストアンサー率10% (32/318)
神を信じないのが「意固地」なのか、信じるのが「意固地」なのか・・・ いたら面白いとは思いますがね。いろいろ責任取ってもらわなきゃならない事が世の中には山ほどありますし。 「ハーイ、私が神でーす。」と神が現れたとたんに、蜂の巣をつつくような責任追及の嵐でしょうねえ。 出てこない方がいいですよ、神様。 いれば、ですが。
- at9_am
- ベストアンサー率40% (1540/3760)
> 「まあ、あなたが言っているのは、金魚鉢の中の金魚が外の世界を理解できないようなものなんですよ。 > 宗教はその外側に広がっている世界ですからね。理解できないのもしょうがないですね」 これ、実際はどのような意味かと言えば、簡潔に述べれば 「つべこべ言わずに俺の意見が正しいと信じろ」 という程の意味です。 たとえば、金魚を学者に、金魚鉢を大学に、形而上のことを現実世界にそれぞれ置き換えると、 「まぁ、あなたが言っているのは大学の中の学者が現実世界を理解できないようなものなのですよ。現実世界はその外側に広がっている世界ですからね。理解できないのもしようがないですよね」 となります。 学者側が統計的な根拠を示していても、根拠も示さずにこういうことを言う政治家の人も少なくありません。そういう人に限って減税して財政支出増やして財政再建するとか不思議なことを言うわけですが、それはさておき。 要は、政治家の人が言いたいのは 「つべこべ言わず俺の意見を通せ」 という事なのは明白です。 そういうことを言われて怒る人がいても当然ですよね。
お礼
<まぁ、あなたが言っているのは大学の中の学者が現実世界を理解できないようなものなのですよ。現実世界はその外側に広がっている世界ですからね。理解できないのもしようがないですよね」 となります。> なるほど。そう言えば、子供のころ、しつこく食い下がって聞くと 「まあ、そんなのは大人になったら分かるさ。大人にならなきゃ無理だね。」 と大人に言われていましたね。あれは頭にきました。 だって大人になるのに10年はかかるわけですから反論のしようがないですからね。 それと同じような不快感を与えているわけですかねえ? なるほど。ありがとうございました。
- o-sai
- ベストアンサー率19% (199/1001)
各人の信仰する宗教や神は思い込みの産物であって、 第三者に証明できるようなモノではないからです。 物理法則や科学定義であれば数式や統計値で証明できます。 残念ながら形而上学や信仰の論証は数式では証明不可能です。 例えば、 「宗教は人類の歴史において戦争を起こすばかりで止めたことなど一度も無い」 といった言葉には反証できません。 心の動きの統計などは不可能だからです。 でも、もし信仰心の無い人を差別的に見下すような教義に囚われているのでしたら、 大局(神)から見れば鉢の金魚と同じです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ただ、この場合は、私としては「金魚鉢の中の論理」 すなわち「科学性」や「いわゆる常識の虚妄性」などは十分議論に対応し、十分議論を 尽くした上での「金魚鉢外の世界」に言及しているのです。 たとえば私は過去ログを見ていただけば分かるように、経済や政治、東洋哲学に関しては 世間の「常識」を簡単に論破できる見識を有しています。 そのことは「金魚側」も十分知っています。 それなのになぜ、「鉢の外」の世界になると突然、認めなくなるのかが不思議でしょうがないのです。 中学生にとって、大学生の知性がどの程度かは計り知れないでしょうね。 あるいは大学で日ごろどんな学問をしているかは分からないでしょうし、現実離れした 空論をもてあそんでいると思っているかもしれません。 でも、少なくとも中学生が疑問に思ったり解けなかったりする問題を 大学生がすらすら解けるのを目のあたりにすれば 「ひょっとすると、(自分は今は知らないが)もっと上位の概念があるのかもしれない。」 とぐらいは思うでしょう。、それが「形而上」のことに関しては なぜ突然、その類推能力が働かなくなるかが不思議でしょうがないのです。 再度、反論いただければ幸いです。
価値観が違うからですね。 といっても対等な仲間でも 価値観が違うことはあります。 どちらが正義とか正解とか 上とか熟練しているとの理由で 腹を立て区別する問題でもないようです。 価値観が違っても、 相手にとっての幸せなら決別しなくてもいいし 奪うことはしないで理解して上げるのが 認めるということですね。 同じ価値観なら最初から認める必要ないのですし。
お礼
回答ありがとうございました。
- kobarero
- ベストアンサー率29% (106/361)
ご質問の文面からだけでは、何とも言えないような気がします。 というのは、相手の方が、「宗教」や「神」にかかわる論争だったから、猛烈に怒ったのか、それとも、単にバカにされたと感じたから怒ったのかわからないからです。 例えば、私の場合は、将棋であれこれ言われると、「それが事実らしいので」、恐らく、腹が立つと思いますが、「金魚鉢の中の金魚が外の世界を理解できないようなものなんですよ」と言われても、どうせ相手だって宗教のことなどわかっているはずがないと思うので、全然腹が立たないと思います。 要するに、人によって何に腹が立つかは違うということではないでしょうか? もし、相手の方が、実際に、「宗教」や「神」にかかわる論争だったから猛烈に怒ったのだとしたら、その方は、たまたま、「宗教」や「神」に独自の思い入れか、逆に、反感を持っておられたのではないでしょうか?
お礼
<というのは、相手の方が、「宗教」や「神」にかかわる論争だったから、猛烈に怒ったのか、それとも、単にバカにされたと感じたから怒ったのかわからないからです。> そうですね。ただ私としては、バカになどしていないのですが 百歩譲ってそう誤解されたとしても、それで なぜ腹が立つのかが不思議なのです。
- 1
- 2
お礼
<自分たちこそ最も幅広い科学的視野と知性を有している・・と思っているのに、逆に迷信家から知的視野が狭いと憐れまれてしまったので無性に腹が立つのではないでしょうか。> なるほど。私の方が、迷信家または狂信家だと思われているわけですか? たしかに、この質問シリーズで、すでに何箇所かで書いていますが 猛然と怒る「金魚」は、普通の(科学的)基準ではかなりの インテリですね。 だからこそこちらは期待するわけですが、だからこそ「金魚」側は 怒るんですね。 まあ、だからこそ議論は尽きないのですが。