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不条理は何の意味があるのか
昨日新聞で、原爆症のことをよんで、この人たちがまったく自分のせいではない不条理によって、結婚や出産を断念したり、社会から疎んじられる存在になったりという人生を送っていることなのですが、これをきっかけにふと以前から疑問になっていたことがよみがえってきました。 不条理にどんな意味があるのか? 私はなぜか昔から 「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」 という考えを持っていて、不幸はそれを補う幸福によって相殺されるべきだということです。それでいえば、例であげた原爆症の人は、その災難ゆえになにか一般人にはない幸福を与えられなければという感覚があるのです。 これを自分の卑小な例にも当てはめることができて、18くらいの時にいろいろ滅入ること(性格、孤独、肉体的ハンデの意識、家族との齟齬)で結構うつ的になっていましたが、 「こんなことで受験に影響出してたまるか!」 (身に起きている気を滅入らすような外力で、受験のレヴェルを落とされてたまるか!むしろこの代償的にB勉強には好影響がでなければならない) そういう気持ちでいて、とにかく気がめいっていても、無理やりにも勉強していました。平行してジムなどにも通っていました。人生幸福度0レヴェルに補正しなければという強迫観念が働いていました。 もちろん自然に逆らっていたことで、うつもちっともよくなりませんし、受験もたいしたレヴェルに達しないまま終了しました。が、抵抗したことには納得しています。 つまるところ、世の中にあふれている「不条理」を肯定できないのです。それにどうしても身をゆだねることができません。 なにか納得するような考え方ってあるでしょうか。 、
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意味というのは予め定められたものなのでしょうか? 幸福とは与えられるものなのなのでしょうか? 不条理とは身をゆだねる対象でしょうか? 私は違うと思います。 bossambaさんの「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」 という願いに私も共感します。 でも、世界のあり方が我々の願い通りにあるわけではないと思います。 むしろ、我々が願う条理の世界と 実際の世界のあり方はほとんど無関係だと思います。 意味とは我々一人一人が見出していくものだと思います。 幸福は我々一人一人が作っていくものだと思います。 幸福は不幸と相殺しあう関係ではないと思います。 幸福は0レヴェルといったような数値で測れるものではないと思います。 人間は平等ではないと思います。 一人一人が持つ資質も、生きていく環境もさまざまだと思いますし 同じ資質も環境が変われば働き(評価?)が変わると思います。 不条理を人間の側が肯定しようが否定しようが そんなことはお構いなしに不条理は堂々と存在すると思います。 いや、不条理が先に存在するのではなく 我々の条理の願いから外れたモノを、期待外れの塊を 我々が勝手に「不条理」と呼んでいるだけではないでしょうか? 私は不条理に端的な意味や安直な真理をあてがうべきではないと思います。 例えば、神のような超越的実体を存在の根拠として示したり あの世や霊魂の存在を説いて不安を除去すべきではないと思います。 そういう気休めにしかならない観念は否定したい。 (bossambaさんもそんなモノに答えは求めていないと思いますが。) 生存とは、耐え難い不条理や矛盾を生きることに他ならないと思います。 この自覚から、人生は始まるのではないかと私は考えます。 あとは「自分の人生にどのような意味を持たせたいか?」といった 創造力と意思の問題です。 あくまで私の独りよがりな考えです。
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- tokytime
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この世には一見、不条理が存在するように見えますが、長い目で見た場合すべて相殺され、万人すべてに全く完璧な、例外の無い、えこひいきの無い法則が働いていると思います。 でも、この法則が成り立つためには二つの前提条件が必要になります。 1)「原因と結果の法則」、つまり「因果応報」が全ての事象に働いている・・ということと 2)人は生まれ変わり(輪廻転生)の中で自己を向上させていくことが究極の幸福につながる・・ということです。 >「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」 が質問者様のご意見ですが、私は 「人生はその行いによって受け取る結果が平等であるべき」 と思っています。 人が他者に対してどんな動機で何を行ったか・・・ 同じ行いでも悪意からか、善意からか・・ そしてその結果他者にどんな影響を与えたか・・ が全て洗いざらい並べられ、吟味され、プラスマイナスで計算された結果を受け取る・・というのが「因果応報」です。 この時、法則はすべての人に等しく平等に働きます。 この働きにおいて人は、社会的地位、財力、人種、宗教に関係なく、等しく平等です。 一見厳しく容赦ない法則に思えますが、この法則をよく理解して、他者に対し慈愛と献身を注ぐならばプラスの大いなる実り(幸福)を受け取ることが出来るわけです。 この法則の偉大な究極のマスターが仏陀であり、キリストだったのではないでしょうか。 仏陀とキリストのこの法則に対する解説こそが、その教えとして後世に伝えられ、それぞれ仏教(ただし、根本仏教です)、キリスト教として残っているのだと思います。 人は、常に何らかの劣等感と悩みと困難をその人生に抱え込んでいると思います。 その困難の原因は何処から来るのか・・ 前世の行いでしょうか・・それとも自己向上を目指してわざと生まれ変わる前に自分で設定し、故意に引き寄せたのでしょうか・・ 生まれてしまうと忘れるのでどうだっかはわかりません。 考えても、追求しても仕方のないことです。 ただ、はっきり言えるのは、その困難を乗り越える経験こそ、現在の自分を向上させるのに最も効果的な可能性が高いということではないでしょうか。 辛い苦しい経験こそ、乗り越えた後で、自分自身の人格の向上をはっきりと感じ取ることが出来ると思います。 そして、そうやって人格を向上させ、他者に対する思いやり、慈しみ、心からの献身、弱者に対するいたわり、自分より劣った者に対する優しさを獲得することこそ、将来、自分自身に幸福をもたらすのだと思います。(因果応報の結果によって) その将来は今生なのか、来世なのかはわかりません。 人が何十回も生まれ変わるものならば、対して関係なくなると思います。 結局、自分の良心に、正直に従うことこそ、幸せのもとになるのでしょうね。 参考文献;「霊の書 上下」アラン・カーデック著 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980348836 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4806311758/249-1401098-1829921?v=glance&n=465392
お礼
そうですね。しかし、無信教者の心理としては、どうも腑に落ちません。
#7です。 >eppさんの体験は、過去において不幸感があったのだから、現在未来的に相殺されたと言える気がします 「相殺された」と書かれてますが、私は自分で努力して幸福を手に入れたのです。 不幸は外部からもたらされましたが、幸福は自分で手に入れた。 質問者さまも私と同じように不幸に対して抵抗するために努力をされた。 でも幸福は得られなかった。(あなたの主観での幸福ね) >人生のトータルで、過去の不幸(あるいは幸福)が未来の幸福(不幸)によって、各人相殺されて平均化されるべきだということです ではあなたの言わんとしていることは、不幸が外部からもたらされるならば、それを相殺してくれるだけの幸福も外部から持ってきてくれ、ということでしょうか。 自分の努力はせずに。 あるいは努力して乗り越えるだけの「能力」を各人に与えろということでしょうか。 皆が一様に不幸を乗り越える能力を天から与えられるというのも、奇妙な話です。 それが現実となったら、地球は滅びるでしょうね。 人間は不幸がもたらされて、それを克服するために努力する。努力したからって克服できるとは限らない。 克服できる保証がないから、努力するのです。 だから人間は進化するのです。 不幸は幸福で相殺されると約束されているならば、誰も努力はしないでしょう。 人間の生物としての進化のために、克服できる保証のない不幸がもたらされるのではないでしょうか。
お礼
再度の投稿ありがとうございます。 >ではあなたの言わんとしていることは、不幸が外部からもたらされるならば、それを相殺してくれるだけの幸福も外部から持ってきてくれ、ということでしょうか。自分の努力はせずに。 あるいは努力して乗り越えるだけの「能力」を各人に与えろということでしょうか その通りです。 その保証がなくても努力できるとはとても前向きなお考えに思えます。努力が約束されたものであるという確信があるとき、人はもっと懸命に力強く努力に邁進できるんじゃないかと思ってしまうんですよね。つまり、私の人間性が吝嗇なんです。
- hiyokomaru
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不条理っていうのは、受け入れるかどうかとかどうすれば肯定できるかとかではなくて、それができないということを意味する言葉です。納得できないから不条理なのです。 > 「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」 と > 不幸はそれを補う幸福によって相殺されるべきだ というのは必ずしも一致しないのでは?と思いました。後者は欠落があるのが前提となっていて、「0レヴェル」へ補正するような印象ですが、前者は幸福度というものは個々人にとって常に一定(量)であるはずで減ったり増えたりするべきものではない、そんなふうにも読みとる事ができると思います。 前者からは、幸福の量が減った場合にその穴を他の幸福で埋めるのではなく残った幸福を増幅させて元の量に戻すという方法が考られます。そして私はこれは皆があたりまえに実践している事だと思います。 > 原爆症の人は、その災難ゆえになにか一般人にはない幸福を与えられなければ という気持ち、わかります。しかし共有可能な幸福だってたくさんあるはずですからそちらを増やしていく方が現実的なんです。一般人にも原爆症患者にも共通する、共感できる幸福こそが現実の本物の幸福ではないですか?逆にそこからまた自分の不幸(不条理ではない)を見つめなおす事だってできるでしょう。 bossambaさんも、自分の思ったとおりの結果にならなかったけど、 > 抵抗したことには納得しています と思っている。その「納得」する気持ちは私とか他の人にもよくわかる気持ちです。何が幸せかは人によって違ってもこのような気持ちは共感できます。達成できなくても充実感を得たり、納得する事ができる。つまり不条理ではありません。
お礼
人生のトータルで、過去の不幸(あるいは幸福)が未来の幸福(不幸)によって、各人相殺されて平均化されるべきだということです(文学は生じないでしょう) 残った幸福を増大させてというお考え、納得します。使われないで見過ごしているものを注目する契機になるかもしれないです。 しかし、残念ながら、そういう芸当ができる人は少数派でしょう。それが世のすさんだ精神を生む温床なのでしょう。 ただ、例に示した私の納得は、自分の行動に納得したんであって、救われたとかうれしいとかそういうよい感情がわきあがったわけでは全然ない、救われた気はしないんですね。
幸福感というのは主観に基づくものなので、 「不幸はそれを補う幸福によって相殺されるべき」という考え方は成立しないと思います。 原爆症は確かに多くの人にとって「不幸な」経験であると思いますが、これも「絶対的に」不幸なことだという根拠はありません。 私は子供の頃から性格的、肉体的に正常でない部分がありまして、とても苦しい思いをした経験があります。 ずっとそれは不幸な因子でした。 けれど大人になって、その問題を改善しようとすることによって得られた「幸福」は不幸な因子を上回りました。 現在はその「性格的、肉体的な異常」は「持って生まれたよかったー」と心から思います。 こうなるとそれは「不幸の因子」ではなく、もはや「幸福の因子」です。 主観によって違うんですよ。 私はハンデを克服しようと努力したから、幸福を得られた。 質問者さまも、無理やり勉強したことで成果はなかったけど、「抵抗したことには納得」しているのですね。 原爆症の人も、何かしら得られた幸福はあるのかもしれません。 原爆症の不幸を補うほどの幸福というのは、数字では表せないということです。 私だって病気の克服のために努力しても病気自体が完璧に治ったわけじゃありません。 質問者さまは勉強したらいい学校への進学という報酬がもらえるというわけではなかった。 でも自分の努力の度合いによって得られる満足感も変わってくるのではないですか。 だって、健康で、金持ちで、頭もよく、よい家族に恵まれて、被爆もしない人は、何の努力もしないでしょう。 それに応じた報酬しかもらえないということです。
お礼
もちろん、主観的なのが幸不幸の正体です。それをまた主観的な要因でもって0レヴェルの状態を維持したいということなので、理想論としてはありではないでしょうか。 eppさんの体験は、過去において不幸感があったのだから、現在未来的に相殺されたと言える気がします。貴重な例だとお見受けしました。
- frau
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私もこの世の不条理をめいっぱい受け止めておりますが、なんだかんだ生きています。 「こんなことで~たまるか!」 それこそが「意志」なのだと思います。不条理がなければ意志もないでしょう。その摩擦によって生じるエネルギーが生きるということではないでしょうか。 「不幸」ではなく「不条理」なのですね。 不幸は運命的、不条理は宿命的なイメージです。 【不幸】 幸福でないこと。また、そのさま。ふしあわせ。「―な境遇」 【不条理】 1 筋道が通らないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。「―な話」 2 実存主義の用語。人生に何の意義も見いだせない人間存在の絶望的状況。カミュの不条理の哲学によって知られる。 と辞書にあります。 1はリクツなのですが、2は、消極的な捉え方です。1は言葉の意味ですが、2は答えであるように見えて、個別のものです。不幸は幸福ではないこと、というとても無味乾燥な辞書らしい言い方(笑)ですが、「幸福」を辞書でひきますと 【幸福】満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。 これは状態のことを表しているわけです。 幸福も不幸も気分的(?)なものなら、不条理はより苛烈な挑戦ともいえるでしょう。 <余談ですが、一昔前は幸福=高学歴だとかお金だとかの物質的なものが定義されていましたが、今は「主観で決まる」という定義が多いようですね。こちらのサイトの回答などを見てそう思いました> よって、個人の不条理は何とかなるかもしれない。たとえば質問者さんのように自らエネルギーを生産したり。負けん気から何かを生産する、つまり昇華なんですけれど、それでも自分の外側に依然として横たわっている世界の不条理は変えようがありません。というか不可能です。抽象論ですから。世界は具体性だけでは成立していません。双方は相互作用をなしているため、たとえば個人(具体)の個性や生き様というのは抽象を問うためにある現象だと思います。不条理もその「抽象」の一部であるとすると、ある者にとって不条理は横を通り過ぎるもの、ある者にとっては課題としてつきつけられているのかもしれません。その差異は人知の及ばないことであり、だからこそ哲学や宗教が存在するのでしょう。個人はそれ(学び)によって進化するかもしれないけれど、依然として不条理は存在し続けます。 私は仏教徒ではないですが、輪廻転生やカルマの存在を信じます。というか、森羅万象の不思議、意義や目的、特に不条理について考えるとそこに行き着いてしまうのです。もちろん真実はわかりませんから、それが救いとなるのでしょう。そしてまた生かされる。この不条理の世界は未熟な魂を口をあけて待つ混沌なのでしょうね。 そして不条理に負けるか、それともそれを凌駕するほどの強い「個」を確立することを選ぶか、それはその「意志」にかかわっているといえます。そこには一般論的な幸福の条件が介入する隙はないでしょう。 不条理を救う唯一のもの・・・それは「パンドラの箱」に最後に残されていたものかもしれません。
お礼
よくわかります。 なぜ世界がそうなっているのかは、まるで、なぜ宇宙がそうなっているかを問うようなもので、分析できても意味を発見するのは難しい。人間にとってこの世界は向いていないのかもしれません。
不条理に耐えられないのは 人間の極自然な感情ですね。 だが動物に至ってはそうだろうか?なのですよ。 負けを認めた瞬間黙ってそれ以上の抵抗をしないで 立ち去るのが動物界の慣わしのようです。 「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」 そうあって欲しいと私も思う時があります。 優しいですね(私もね?)。 こういう言葉があります。 「各人がそのようであるように欲する信念 …この思い遣りは人間に実を結ばせる 人間の太陽というべきものである」アラン 人間は複雑であるようで社会的には種類は少ない。 2種類の人種があるだけなんです。 自分を軸にして 立場が優位である人か利用出来る人か、 劣位の人か利用出来ない人かで態度を変える人種と そうでない人種。 妬みや嫉妬や嫌悪感、媚びたり恥ずかしがったり 病的なところを利用して得しても 人生でみると不条理な感じもします。 相手と自分の性質の良いところから利用して 得することが本当の幸せだと思う。 2つしかない人種で苦労が多いのは前者にも見えますが 苦労しただけ得られる自由もあるもので どちらが幸せなのかはわかりません。 それから 健康や快楽を需要するのが人生の目的というより 最初の条件だということがあります。 健康で幸せを感じる人生ならば 自分の幸せのことは大事にならず 忘れて人を思い遣ったり愛したり、 同情の念を抱いたり、 使命を果たすべき生きられる。 幸せでないと苦しむけれど 為すべきことがあるなら普通の人より 普通の発想からは及ばない感性や忍耐も見せてくれそう。 挫折を知らないばかりが素晴らしいではなく 喜怒哀楽が一同に参して本当の幸せがあるかも。 その深さ、貴さ、潔さ、 それを賞賛しないで居れないのも 人間なのだから。 不条理は嫌うべきで肯定すべきでもないですが、 そうならないよう生きれるのも人間の知恵だし でも不条理があるから知恵がないとは言えないですね。 勇ましい姿を優れるだけ優れて見せてくれる人を 恥ずかしい、劣っているという人がいたら 自分の良いところも活かせはしなくなるでしょう。 それは勿体無いと思います。 結果よりも納得出来る過程が大事ですよね。 結果は奪えても 過程や想いは人に与えられても奪われない。 みんなが共有していい宝物、 人間の太陽(照笑)ですね。
お礼
不条理は、人生世界を複雑怪奇にします。それが、よりよい人生を人間に強いる原動力になるのかもしれません。しかしこんなものを意図的に作ったやつがいるとしたら、犯罪行為ですね。幼児に激辛を食わせるようなものです。
- indoken
- ベストアンサー率37% (173/457)
意味があったら不条理にならないでしょう!。
お礼
そういうことです。が、意味のないものがこの世にあるということが信じられないですね。
- reikasuzu
- ベストアンサー率30% (4/13)
「不条理」というのは原理的に理解できないものでは。 「不条理」に対していくつかの宗教的説明があると思います。 何故ある人は原爆症で苦しまなければならないのか。 前世で悪いことをしたその報い(仏教) 人知を超えた神の深遠な計画の故(キリスト教) 等など。 しかしながら、そうした説明を拒否するとなると、 不条理の経験を「不条理」として引き受けると、 それは知性では理解できず、言葉では説明できないものになってしまうのでは。 そもそも死ぬために生まれてくるのは「不条理」なのでは。。。 カミュの『異邦人』、サルトルの『嘔吐』をはじめ、ベケットやナタリーサロートの作品はそのような、 死、言語や知性の限界といったことを問題としている作品だと言われています。 もし読まれていないようでしたら、彼らの作品をお読みになってみるのもいいかもしれません。 不条理の世界を引き受けたとしても、ペシミズムに陥らず、自由に生きていける強い人間が(特にサルトル)そこでは描かれているような気がします。 私見では、堕ちる所まで堕ちると、そのまま欝になって自殺してしまう方も多いと思いますが、上がっていく力が自然に湧いてくる、という気がしています。自然と死んでたまるか、と思うというか、幸せを感じる能力、幸せになる能力が強化されるというか。 つたないアドバイスで申し訳ありません。
お礼
そうした説明は、納得したものにあえないですね。ただ、死ぬためにというのは不条理でない気がします。生物の必然かと。その中で、幸福なやつと不幸なやつが、入れ替わることなく生を全うするということが、腑に落ちない。 あくまで、相対論なんですね。 その相対性をどう処理したらいいのか、難しいところです。 ただ、堕ちるところまで堕ちると、火事場の何とかじゃないですが、力みたいなものがわいてくることもありそうです。 世の中を文学的にするために、幸不幸が存在するのかもしれません。
- garouz
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>「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」 この考えが本当に正しいのか,再確認すべきではないでしょうか.ちなみに私は平等だとは思っていません. 幸福度というのは主観的な尺度であるので,人から見たら恵まれているような人でも幸福感を味わっていない場合もあるんですよ. 幸福かどうかは気持ちの問題だと思います. 本題に戻りますと,不条理には意味がないから「不条理」なのだと思いますよ.
お礼
もちろん「そうであってほしい」という思いというのが、正直なところなわけですね。そして人によりけり外見上で判断できない。もちろんその人本人が感じている幸福感が絶対なのです。その絶対的幸福感を、なんとか世界平均化するようにならないものかと。幸福な人は不幸な人に分け与えられないものかと。 それがないことはやはり、不条理を実感します。
お礼
たいへんよくわかります。 この世界というのは、あまり人間向きではないのかもしれない。そこに偶然人間が繁栄しちゃってるわけですね。それも地球の気まぐれかもしれませんが。あまり収まりのいい生物でないので、不条理に苦しむのでしょう。そして、もちろん納得のいく説明には出会っていません。