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島原・天草一揆についてです。

島原・天草一揆について教えていただきたいことがあります。 島原・天草一揆が起こった理由について、「過酷な年貢のとりたて」、「キリシタンの弾圧」、「飢餓」と書いてあるのですが、なぜ幕府は「過酷な年貢のとりたて」をしたのでしょうか。財政難になった事情を教えていただきたいです。 よろしくおねがいします

みんなの回答

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.10

江戸時代諸藩の財政には固定支出といものがあり、家臣団の給与は知行制か玄米で支給されていました。 原則的にはこれらは固定給ですから毎年の収入にかかわらず支出されるものです。 しかし石高制のもとでは天候などの影響を受けて米の収穫が変動することは考慮されていません。 従って飢饉などで米の収穫が減少しても藩の固定支出を維持するには納税額この場合年貢高は変わないのです。 従って農民にとっては相対的に重税感がつのります。 さらに藩の都合で支出を増加するような事があると年貢の徴収率を高く修正しないと賄えないのでこのような増税が屡々おこなわれました。 藩の支出の増加は参勤交代制の実施や幕府の行うべき土木工事を諸藩に命ずる等で屡々起こりました。 勿論これは諸藩の財政を窮迫させ幕府に対し反抗出来ないようにするためでした。 譜代大名にはこのようなことを命じる事はなく優遇されていました。 江戸時代の百姓一揆は飢饉で米作が減少した土地で屡々おこったのはこのような事情からです。 島原天草の乱はこのような農民の窮迫と浪人武士の結集、さらにキリシタン宗の普及による天国へのあこがれなど複雑な原因が複合して起こったものです。

  • fornaoya
  • ベストアンサー率32% (11/34)
回答No.9

余談で申し訳ありません。 最近ではこの一揆は、過酷な年貢の取立てや飢饉によるものではなく、宗教戦争であった、とする見方も出ていますね。 その場合「一揆」にはあたらない、とも書いてありました。 騒動の原因についてはいまだ見当の余地があるようです。

noname#35575
noname#35575
回答No.8

天候不順による凶作続きは、寛永14年(1637年)が特にひどかった。領民はどん底の飢餓状態であったにもかかわらず、島原領主松倉勝家は租税を納めきれない者を、すべてキリシタンとみなしてなぶり殺した。領民の望みは絶え、どうせ死ぬのなら……と一揆に立ち上がるほかはなかった。そのきっかけが待たれただけであった。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.7

さらに訂正 松倉重政ではなく勝家でした。 ボケていてごめんなさい。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.6

訂正します。 島原領主だった有馬家は、取り潰しではなく日向への国替えです。 当主直純が幕府の威光に屈してキリスト教を捨てたため、信仰を続けようとした多くの家臣が有馬家を離れ、浪人や百姓として島原に残りました。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.5

寛永十三(一六三六)年の江戸城改修において、島原四万石の松倉重政は、みずから進んで十万石格の公議普請を引き受けることで、幕府における松倉家の家格を引き上げ、島原の石高は六万石に変更されました。農地が増えたわけでないのに、取り立ててもよい年貢の量だけが増えたわけです。また、天草四万二千石というのも、元々過大な数字でした。財政難になったわけではなく、農地が少ないので年貢の取立てが厳しかったと理解した方がよいでしょう。 なお、取り潰された小西・有馬・加藤家の浪人が、乱に多数参加しましたが、「天草四郎は豊臣秀頼の落胤」という噂が流されたことも、影響しているかもしれません。

  • AUGQX-MAN
  • ベストアンサー率28% (39/139)
回答No.4

過酷な年貢のとりたてをしたのは、幕府ではなく 島原藩と天草藩ですね。 島原・天草一揆が起きる2年前に、幕府は参勤交代 の制度を完成させ、1年毎に地元と江戸を住むように させました。また、大名が独自に貿易する事も禁じた ので島原藩と天草藩は財政的に苦しくなったのです。 またこの頃の幕府は、大名に余計な力を持たせないよう 公共工事を割り当てたりして財政力を削いだり、 大名の監視して内紛を起こす所は徹底的に取り潰す と厳しかったので、 「お金が無くて、参勤交代とかとてもできません」とか 言えませんでしたので、農民から徹底的に取り絞ったり キリシタンを迫害せざるを得なかったのです。

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.3

大名には所領には石高がありますが 実際の取れ高よりも公称の石高が 高い土地と低い土地があるのです。 近くの相良藩なんかは公称2万五千石ながら 実質は5万3千石と言われ、隠し田で有名な 豊かな藩ながら、 島原や天草なんかは平地がなく水も足らないので ほどんど米が取れないところで 慢性的に藩の財政は赤字なのです。 また有馬晴信の所領であった島原は 「岡本大八事件」で改易になったこともあって 家臣団の大半が失業して、離散。 譜代の松倉家というよそ者の支配は馴染まなかっただけでなく 厳しいキリシタン弾圧を加えたので 百姓や旧家臣は蜂起せざるえなかったわけです。 ちなみに天領の時代のほうが税は安かったんですが 松倉家は大名の格を守り、家臣団を養うだけの 財源を確保するためには過酷な取立てをする以外に 方法はなかったのです。

noname#74443
noname#74443
回答No.2

Wikipediaが詳しいです。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
sandaru12
質問者

お礼

詠んだのですが、具体的な年貢の取立ての理由が不十分だったので、質問させていただきました。 もう1度読み直したいと思います。

回答No.1

天草四郎時貞が豊臣家の末裔(秀吉の子の秀頼の落胤)という説も ありますね。豊臣と徳川の争いの一環だと。 試験勉強的には役に立ちませんけど(苦笑)

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%8D%89%E5%9B%9B%E9%83%8E%E6%99%82%E8%B2%9E
sandaru12
質問者

お礼

歴史は色々な説があっておもしろいですね! 関心はあるのですが、レポート作りの一環としての作業ですので、一番メジャーな説を紹介していただけるとありがたいです。