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短歌「佐野朋子のばかころしたろ」の意味は?

小池光の短歌に、  佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず というのがあります。 有名な歌で小池光の代表作だそうですが、 これにはどういうことを言おうとしているのでしょうか? 憤りを感じて教室へ行ったが、本人がいないので肩透かしをくらった、くらいの意味しかとれないのですが。 本名を二度も明示している意味は何でしょう? 一種の愛情表現なのでしょうか? どなたか読み解いてください。 よろしくお願いします。

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  • maho-maho
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回答No.1

気になって今、ちょっとネットで調べただけなのですが・・・。 小池光は高校の教師で佐野朋子は架空の女子高生なのだそうです。 http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka26.html 聖職者といわれる教師の人間っぽさをあらわにした衝撃作という感じかなーと思いました。 大人気ないと言われても教師だって殺したいと思うほど生徒にむかつくんだ! と訴えているのでは。 小池光が生徒との関係にストレスがあったのを発散のために作ったんではないでしょうか。 いなかったことで・・・ 本人がいたら、そのまま何をするかわからないので、いないということでインターバルができ、ころさなくてもすむんですよね。そこから先の悲惨さではなく、怒りだけの表現ができているんじゃないでしょうか。 名前を二度・・・ 短歌に名前でフルネーム、それも2回というのは今までにない作品ですよね。誰もやってない(多分)。インパクト狙いもありそう。 それと人は怒っているときは「あなたって人は!」とか妙に人をはっきりと特定したがるような気がするんですが、どうでしょうか。怒りの表現の一つかなーとも思ってみたり。 「星飛雄馬と対決だ!」「ぬぉー、星飛雄馬め、逃げおったな」なんだかそんな感じ?(名前は適当です(^_^;) 参考URLでの解釈では音がいい、とありましたが。 回答に対する自信はまったくなしです。

参考URL:
http://dorae23cat.gooside.com/koike/KOIKE1.html
yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 先生と生徒とは知りませんでした。 先生が教え子の女生徒を殺したいなどと思うことってあるんですかね。 参考URLで抒情性があるとのことですが、いささか疑問です。 ただ「ころしたろ」は、あまり殺意は感じないですね。 怒りの表現のひとつだと思います。 教師としては不適切な表現でしょうが。 「おらず」は失望なのか、ほっとしているのか。

その他の回答 (2)

回答No.3

なんとなく面白い歌ですね。私も自分なりの解釈を書いてみたくなりました。 佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず まず、気になるのが、五七五七七というリズムを崩した、かなり破調の歌ですね。しかし、なんとなくリズミカルなところがある。一つには、「さのともこ SaNoToMoKo」のS音、T音、K音が摩擦音であり、しかもそれが2回繰り返されています。それと、「ばかころしたろ BaKaKoRoShiTaRo」もB、K、K、S、Tと摩擦音が続き、なんとなく勢いがいい。 一方、「さのともこ SaNoToMoKo」の母音は、a、o、o、o、oとo音が続き、これが音の連なりの基調でもある(o音はちょっと落ち着いた感じ?)。 また、表記を見ると「ばかころしたろ」と平仮名なのが、言っている意味とは裏腹に、一種の柔らか味を持っている。 「本名を二度も明示している意味」は、音的には、以上のような意味があり、また文字通り2回繰り返すことで、良くも悪くもそれだけ関心のある対象であることを示しているということではないでしょうか。おそらく、「ばかころしたろ」と平仮名なのが、かわいくも憎たらしいという裏腹な雰囲気を持っているのでは、と思います。そして、今日はどうしてやろうか、と勢い込んで教室に行ったら不在で、ちょっとがっかりしているようにも思います。そこにもある種の裏腹さが感じられました。  また、この歌を見て思い出したのは、この歌です。 短夜や乳ぜり啼く児を 須可捨焉乎(すてつちまをか)  竹下しづの女 可愛いわが子なのに、夜泣きでいらいらしてしまう。しかし、そこを格調高く「須可捨焉乎」と漢文で書き、しかもそこに「すてつちまをか」と、あえて俗な言葉で読み仮名を振る。そこの一瞬の激情やそれを客観視する冷静さや、さらにそれをユーモアで以って表現するところの肌合いが、少々似ているように思いました。

参考URL:
http://www.bekkoame.ne.jp/~hujino/001/ha-izumiryouko.html
  • s_t_a_
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回答No.2

こんにちは。僕は全然短歌には詳しくないのですが、思ったことを書いてみます。 教師である小池光は、日頃から佐野朋子を困った生徒だなぁ、と思っていたんじゃないかと思います。非行だったのかもしれないし、意欲がないのかもしれないし、その辺はよく分からないけど。そして教室へ行く前から、職員室とかで佐野朋子のことを考えてため息をついたりしてたんじゃないでしょうか。そして考えたらだんだん腹も立ってきた。でもその苛立ちは、どちらかというと、あいつはやればできるのに、とか、いいところもいっぱいあるのにもったいない、というような愛情を含んだもののように思えます。と、いうのは、「ばか」という言葉とか「ころしたろ」という言葉がひらがなで柔らかい感じがして、どことなくユーモラスなものすら感じられるからです。 さて、教室に行って、今日こそは佐野朋子とちゃんと話すぞ、と決意したんじゃないかと思います。「ころしたろ」というのは「くっそー、あいつめ、今日こそは」みたいな感じかなぁ、と。怒りだけではないような気がします。 そして教室に行ってみたけど佐野朋子はそこにはいなかった。欠席だったのかもしれません。質問者さんの質問中にあるように「肩透かし」のような感じがしたでしょう。愛憎の入り混じった、「よし、今日こそは」みたいな気持ちのやり場がなくなってしまったというか。No.1の方の回答に対するお礼の中で、「失望なのか、ほっとしているのか」と書かれていますが、それはどちらも感じていたのではないでしょうか。叙情性というか、持って行き場のない気持ちの余韻みたいなものを感じます。 佐野朋子はNo.1の方の回答にあるとおり架空の女子高生の名前ですが、限りなく本名に思える名前を繰り返すことで、ある一種のリアリティみたいなものを獲得していると思います。小池の中にはいままでに苦労した生徒の集合体としての佐野朋子が存在したのではないでしょうか。名前を繰り返すときの音の響きで名前は決められたようにも思えますが、確かに口に出してみたときのリズムはちょっとおもしろいですね。 というわけで、なんだか感想文になってしまって、回答ではないかもしれませんが、参考になれば幸いです。

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